第42話 堕落

イレイザが異世界へと旅立ってから、ユニリスはずっと胸の奥に引っかかっている思いを抱えていた。

――あのインスタントコーヒーの香りと味。

一度口にしてしまったが最後、忘れられるはずがない。

湯気とともに立ち上るあの香ばしさ、舌に広がる深い苦味とほのかな甘み。

あれをもう一度味わうためなら、どんな難題にも挑む覚悟があった。

だからこそ、彼女は帰還魔法を自分でも使えるようにと研究を始めた。

もちろん、そんな簡単なことではないとわかっている。

それでも、魔法陣の構造や魔力の流れを何度も紙に描き、夜遅くまで魔力の制御実験を繰り返した。

指先は魔力の余波でじんじんと痺れ、目の下には薄い隈ができていたが、ユニリスの瞳は諦めを知らなかった。


研究を始めて数日後、城に朗報が届く。

ギルシア王たちが異世界から帰還したのだ。

だが、その直後に告げられた王令は、ユニリスの胸を冷たく締め付けた。

――帰還魔法の使用は王の許可制とする。研究も禁止。

耳を疑った。

なぜ? あれほど必死に積み上げた努力を、なぜ突然奪うのか。

イレイザは使用可能になったというのに、自分は許されない。

胸の奥に、納得のいかない黒いもやが渦巻く。

異世界で何か危険な出来事があったのだろうか。

それとも、異世界そのものが恐ろしく危険な場所なのか。

考えれば考えるほど、答えのない迷路に迷い込んでいくようだった。


そんなある日、宿舎の医局部にイレイザが姿を現した。

いつもの落ち着いた笑みを浮かべている。

ユニリスは迷わず問いをぶつけた。

「なぜ、急に帰還魔法の研究が禁止されたんですか? なぜ、異世界に行くことが王様の許可制なんですか?」

返ってきた答えは、予想の斜め上を行くものだった。


「楽しすぎるからよ」


……は?

耳が自分を裏切ったのかと思った。

楽しすぎる? 何を言っているのか。

意味がわからない。

異世界に行ったことのない自分に、理解できるはずもない。


「ごめんね。ちゃんと説明するけど、これはギルシア王の命によって他言無用よ。

家族にも恋人にも、一言も話してはダメ」

イレイザの声は低く、真剣だった。

ユニリスはごくりと唾を飲み込み、静かにうなずく。

「今回、ギルシア王とヘインズ聖王と私、そしてアルバートの四人で、賢者様がお住まいの異世界に行ってきたの。その異世界が……凄すぎたのよ」


イレイザの瞳が、ほんのわずかに遠くを見つめる。

「私たちが見たこともない魔道具がそこら中で使われていて、夜なのに昼のように明るい部屋。

見たこともない乗り物、食べ物……さらには王族や貴族しか使えないような寝具が、庶民の家に普通にある世界だったの」

ユニリスはきょとんとしたまま固まった。

聞くだけで夢のような世界だ。

そんな場所があるのに、なぜ行ってはいけないのか。

混乱は深まるばかりだった。


イレイザが亜空間収納から、小さな黒い皿を取り出した。

透明な保護フィルムの向こうに、繊細な緑の糸が幾重にも重なり、まるで風の流れをそのまま閉じ込めたような造形美を見せている。

「食べてみて」

「……これは何ですか?」

「抹茶モンブランというお菓子よ」

食べ物? これが?

ユニリスはたじろいだ。

草のような色をした細い糸が、山のように重なっている。

どう見ても食べ物には見えない。

イレイザがフィルムを外し、木のスプーンを添えて差し出す。

恐る恐るスプーンを差し込むと、糸のように見えたものは柔らかく、すっと刃先が通った。

一口、口に運ぶ。

――瞬間、稲妻が走った。

甘さとほろ苦さが舌の上で溶け合い、若葉の息吹のような香りが鼻腔を抜ける。

緑の糸の中には、栗をすり潰したような濃厚なペースト。

それが驚くほど滑らかで、口の中でふわりと消えていく。

「……何ですかこれは……」

「これが答えみたいなものよ」

スプーンは止まらなかった。

気づけば器は空になっていた。


「異世界には、こういう食べ物がたくさんあるの。しかもこれは王族や貴族向けじゃなく、庶民のものよ」

ユニリスは膝から崩れ落ちた。

信じられない。

この甘美なものが、庶民の口に入る世界だなんて。

「これよりもっと美味しいものも、たくさんあるのよ。

今回の旅で、王は異世界は素晴らしいと認めた。

でも、賢者様や勇者様がいない状態で行っていい場所ではないと判断されたの」

ユニリスは悟った。

恐怖や危険ではない。

人を堕落させる誘惑が多すぎる世界――それこそが、最大の危険なのだ。

王の判断は、正しい。



一方そのころ、城の一室では――

「いや~、まじでうまいなこれ」

「もっと買ってもらえばよかったな」

低いテーブルの上には、小皿に盛られたミニサラミと柿の種。

グラスには琥珀色のウイスキーが揺れ、氷がカランと涼やかな音を立てる。

「袋入りの氷ってのは、これほど便利だとはな」

「買っておいて正解だった。おかげでウイスキーがさらにうまい」

「魔法師団呼んで酒の為に氷作れなんて言えないからな」

二人の笑いがこだまする。

昼間から、ギルシア王とヘインズ聖王は上機嫌で酒を酌み交わしていた。

窓から差し込む陽光が、グラスの中で黄金色の輝きを放つ。

二人の頬はほんのり赤く、笑い声が絶えない。

そう――

彼らは、すでに堕落していた。

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