第40話 リラックス

直径十センチほどの火球が、空気を裂くような音を立てて一直線に的へと飛んだ。

その速度は目で追うのがやっとで、次の瞬間には――

バンッ!

乾いた破裂音とともに、木製の的が粉々に砕け、破片が宙を舞う。

遅れて、ぱちぱちと小さな炎が走り、木片の端から橙色の火が広がっていった。

焦げた木の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。


「すごい! まだ練習初めて三日でここまで出来るなんて…」

八重子は、思わず息を呑みながらも心の底から感嘆の声を漏らした。

その視線の先で、沙也が少し照れくさそうに、けれど誇らしげに口元を緩める。

魔力器がしっかりしているとはいえ、この成長速度は常識を超えている。

――もしかしたら、かつてのイレイザすら凌ぐかもしれない。


この世界では、生まれながらに魔力器を持つのが当たり前だ。

沙也のように後から作り上げる者は稀で、その難易度は八重子自身が身をもって知っている。

それを、沙也はまるで呼吸をするかのようにやり遂げた。

しかも、今放った火球は、普通なら修練を始めてから一ヶ月ほどかけてようやく形になるものだ。

異世界に来て、まだ三日。

沙也の成長は、まるで急流を下る水のように勢いを増していた。

だが八重子の胸には、拭いきれない不安がある。

――もし、この魔法を日本で使ってしまったら。

この威力なら、間違いなく人を殺してしまう。

そんなこと、絶対にさせたくない。


異世界では誰もが魔力器を持ち、魔法耐性も備わっている。

この程度の火球なら、せいぜい軽いやけどで済む。

だが、日本には魔力器も耐性もない。

直撃すれば、命を奪う凶器になる。

それでも――八重子の中には、もっと多くの魔法を教えたいという衝動があった。

「今日はここまでにしようか」

「もう少し出来るよ」

「根詰めて魔力を使いすぎると倒れるからね。最初は魔法を使うたびに魔力が一気に減って、あとで急に疲れがくるんだよ」

「そういうものなんだ。八重子がそういうならそうしとく」

沙也の胸は高鳴っていた。

――楽しい! 魔法を放つたびに、胸の奥のもやもやが吹き飛んでいく。

確かに、八重子の言う通り、全力疾走した後みたいに息が上がるけれど、まだまだいける。

もっと覚えて、アルバートさんに「すごい」と言われたい。

八重子の助けになりたい――そう思っていたはずなのに、今はただ魔法の魅力に夢中だった。


城内の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けた。

――ああ、これが八重子の言ってたやつか。

何もしたくない。体が鉛のように重い。

コンコン。

「沙也、大丈夫?」

八重子が心配そうに顔を覗かせる。

「う~ん、八重子が言った通り、だるい~」

「慣れるまではこんな感じが続くよ」

「どうする? 一応魔法は使えたし、ここらでやめとく?」

「いやだ! 絶対続けるから!」

その即答に、八重子は少し驚いた。

学生時代からの付き合いだが、沙也がここまで強い意志を見せるのは初めてだ。

努力を好むタイプではなく、面倒なことは周囲の男たちに任せてきた彼女が――なぜ、こんなにも魔法に執着しているのか。

沙也には理由があった。

第一の目的は八重子の助けになること。

そして、魔法を生活に取り入れ、もっと楽に暮らすこと。

八重子の家で見た、家電と魔法を組み合わせた快適な生活――あれを自分も手に入れたい。

さらに、帰還魔法を習得し、自由に異世界と日本を行き来できるようになりたいのだ。

そんなこととは露知らず、八重子は提案する。

「貴族のマッサージ、受けてみない? 体が楽になると思うよ」

「え!? そんなのあるの? うけたい! うけたい!」

沙也は一瞬でベッドから飛び起きた。


コンコン。

「沙也様、準備が整いましたのでこちらへ」

メイドの声に促され、ガウン姿で浴場へ向かう。

そこには温泉と、その横に置かれたマッサージ用のベッドがあった。

すでに八重子は全裸で横たわっている。

「え!? 裸なの? 水着みたいなのないの?」

「あると思うの?」

「…ないよね」

「そう。この世界にそんなものはないの。下着だって日本みたいなのはないから」

「じゃあ、どうしてるの?」

「胸と腰に巻き布をしてるだけだよ」

――ああ、本当に異世界なんだ。沙也は改めて実感する。

観念してガウンと下着を脱ぎ、ベッドに横たわる。

オイルの甘く爽やかな香りがふわりと漂い、背中に温かな感触が広がった。

マッサージ師の手が滑るたび、肌の上に心地よい熱と、時折ひやりとした冷たさが交互に走る。

その不思議な感覚に、まぶたが重くなっていく。

やがて、沙也は深い眠りに落ち、八重子もその寝顔を見ながら静かに目を閉じた。


マッサージが終わり、二人は温泉に浸かる。

湯面から立ち上る湯気が、疲れを包み込むように体を温める。

「どうだった?」

「最高! 体のだるさが全部消えたみたい」

「魔法を手にまとわせてマッサージしてるからだよ」

「やっぱり! あの温かさと冷たさ、すごく効いた。それに、あの香り…」

「あれはブランカの実を絞ったオイル。柑橘系に桃のような甘さが混ざった香りで、王族専用の貴重品なんだ」

「そんなものだったんだ…でも、本当にいい香り」

湯の中で肩まで沈み、二人はしばし言葉を交わさず、ただ心地よい静寂に身を委ねた。

魔法修行の疲れは、もうどこにも残っていなかった。

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