第38話 奇跡

「……なんなの、この意味不明な数字たちは?」

ユニリスは机いっぱいに広がる紙束を前に、頭を抱えた。

数字と記号が入り乱れた魔法数式――まるで悪意を持って作られた迷路のようだ。

「これを“解読”って……何をどうしたらいいのよ。

イレイザ様は本当に、こんなものを読み解いて異世界へ行ったっていうの?」

理解が追いつかない。

なにより――賢者様の頭の中はどうなっているのか。

どうしてこんな、わけのわからない魔法数式を作れるのか。

考えれば考えるほど、ため息しか出ない。

ユニリスは、イレイザから直々に「解読業務の手伝い」を命じられ、今は賢者の自宅で山のようなメモと格闘していた。


「どう? ユニリス、何かわかった?」

イレイザの問いかけは、ユニリスには嫌味にしか聞こえない。

「イレイザ様……申し訳ありません。私には、何が何やら……」

逃げ道を探すように、諦めの言葉を口にしてみる。

「頑張って! 気持ちはわかるわ。でも、これをどうしても解読しないといけないの。わかるでしょ?」

――そりゃ、わかりますよ。

王様の直々の命令ですから。

でも……世の中には、できることとできないことがあるでしょう?

ユニリスの心は、今にも折れそうだった。



「少し、休憩しないか。」

アルバートが、八重子からお土産にもらったインスタントコーヒーを持ってきた。

こちらの世界にも似たような飲み物はある。

果実の種を乾燥させ、鉄板で焼き、砕いて抽出した汁をお湯で薄めて飲む――カヴァと呼ばれるものだ。

だがそれは非常に苦く、かなり薄めて飲むのが常。眠気覚ましにはなるが、味わうものではない。


「あ~、いい匂い。これって、師匠に頂いたコーヒー?」

イレイザが木工カップを手に、香りを楽しむ。

「これって……カヴァじゃないんですか?」

「これはコーヒーといって、異世界の飲み物なの。」

「作り方は似ているけど、これは抽出した液を乾燥させて粉にして、それをお湯で溶かすのよ。」

そんなことで味が変わるのか――半信半疑のユニリスは、一口含んだ。

……なんだこれ?

苦味の奥に、柑橘のような酸味。

そして、ほのかに残る甘み。

違う意味で眠気が吹き飛ぶ。


「なんですか、この美味しい飲み物は……!」

「美味しいでしょ。私も師匠に頂いたとき驚いたの。そして、これを入れるともっと美味しくなるのよ。」

イレイザは白い液体を少し注ぎ、スプーンで混ぜた。

「あ~、落ち着く~。」

「牛の乳ですか?」

「そうよ。ユニリスも入れてみる? 入れる量で全然味が変わるわよ。」

そんな不思議なことが……と思いながら、少しだけ加えてみる。

黒かった液体は、やわらかな茶色へと変わった。

一口――うまい。

苦味はまろやかに、酸味はそのまま、口当たりは滑らかになり、甘みが増した。

砂糖を入れていないのに、こんな甘みが出るなんて。

ユニリスは、コーヒーに恋をした。


「さて、休憩したから、続きやるわよ。」

「はい!」

さっきまでのやる気のなさはどこへやら。

ユニリスの胸には、こんな美味しいものがある異世界へ行きたい――そんな熱が灯っていた。

もっと色々な味を知りたい。もっと経験したい。

その思いは、まるで心に添加剤を注ぎ込まれたように燃え上がる。


「ここが、こうなって……この数字はこれを意味してるはずだから……」

イレイザはぶつぶつと呟きながら資料を漁る。

ユニリスも、一つずつ数字を書き出し、記号や他の数値と照らし合わせていく。

毎日十五時間、資料とにらめっこ。

疲労は確実に蓄積していた。


あ……

ドタッ。

ユニリスがよろけ、机の上の資料を巻き込んで床に倒れた。

紙束が雪崩のように散らばる。

「大丈夫?」

イレイザが駆け寄る。

「すみません……」

ずれた眼鏡を直しながら、ユニリスは資料を拾い集める。


「あれ……? これって……」

拾い上げた一枚の紙に、見覚えがあった。

何度も見た資料――だが、今回は裏返しになっていた。

そこに、今まで気づかなかったメモ書きがある。

「イレイザ様! これを見てください!」

差し出された紙を見た瞬間――

「ユニリス! よく見つけた!」

それは、八重子自身も覚えていないほど昔のメモだった。

だが、その内容こそが――帰還魔法の時間軸を解く、鍵だった。


数日後。

イレイザは八重子の作った帰還魔法を、さらに精度の高い術式へと昇華させていた。

その背後には、コーヒーの香りと、ユニリスの静かな笑みがあった。

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