第3話 賢者帰郷
「アルバート、少し聞いてくれる?」
八重子は、家の研究室で静かに声をかけた。
研究室はおよそ八畳ほどの広さ。中央には、長年使い込まれた大きな研究台――分厚い天板の上には、今にも崩れそうなほど積み上げられた魔法書や、魔法陣が描かれた皮紙の束が無造作に置かれている。
壁一面には天井まで届く本棚が並び、ぎっしりと魔法書や古文書が詰め込まれていた。
窓から差し込む午後の光が、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。
「はい、賢者様。なんでしょう?」
アルバートは、警護のため部屋の扉脇に立ったまま、姿勢を正して答えた。
八重子は、机の上の書類をそっと脇に寄せ、少しだけ視線を落とす。
「私、本当は異世界から来たの。だから……何としても元の世界に帰るために、こうして毎日、調べたり研究したりしているの」
その声は、どこか寂しげで、長い年月の重みを含んでいた。
「存じております。賢者様は我がホーデンハイド王国に、すでに五百年ほどいらっしゃる。国王様をはじめ、聖王様ら一部の有力者は皆ご存じです。もちろん、私も」
アルバートは真剣な面持ちで答える。
「そうね。でも、本気で私が異世界人だなんて、誰も思っていないでしょう。何しろ五百年もこの世界にいるんだから。……どちらかというと、魔女か何かだと思っているんじゃないかな」
八重子は、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「いや……そのようなことは……」
アルバートは言葉を詰まらせる。
正直、彼にしてみれば、そう聞かされてはいても、八重子が五百年も今の姿のままで存在していること自体が不思議だった。
幼い頃から賢者はそこにいた。子供の頃に見た姿と、今の姿は何一つ変わっていない。
――賢者特有の魔法で若さを保っているのではないか。
そう考える方が、まだ現実的に思えた。
この世界の常識では、長寿といえば耳の長いエルフ族や、頑健なドワーフ族だ。
だが、エルフでも三百年、ドワーフで二百年ほどが寿命の限界。
人間に至っては五十〜六十年が普通で、八十年生きれば長寿とされる。
五百年という数字は、常識の外にあった。
そのとき、街角から悲痛な叫び声が響いた。
「誰かぁ!お願いします!子供を……子供を助けてください!」
母親が幼い子を抱きしめ、泣きながら道端で叫んでいる。
通行人たちは横目で見るだけで、足早に通り過ぎていく。
通りかかった八重子は足を止め、母親に近づいた。
「どうしたんですか?」
「白死病にかかってしまい……このままでは、この子は……」
母親は泣き崩れ、声を詰まらせた。
白死病――肌がまだらに白く変色し、その白さが体の半分に達すると、内臓が機能を失い、必ず死に至ると恐れられる病。
この世界では、不治の病として知られていた。
子供の肌は、すでに三分の一以上が白く変色している。
八重子は迷わず亜空間収納から薬草を取り出し、そこに回復魔法を込めた。
薬草を握りつぶし、滴る汁を子供の口元へ運ぶ。
瞬く間に、まだら模様が薄れ、白い肌が元の色を取り戻していく。
「これで大丈夫」
八重子は静かに告げた。
「ありがとうございます……ありがとうございます!」
母親は泣きながら地面に額をこすりつけ、何度も礼を述べた。
八重子は何事もなかったかのように、その場を去った。
この世界では医学が発展せず、病や怪我は魔法や薬草に頼るしかない。
八重子は、元の世界に帰るための研究の副産物として、数々の独自魔法を編み出してきた。
その一つが、ほとんどの病や怪我を癒す治癒魔法だ。
この魔法のおかげで、ホーデンハイド王国は他国に比べて国民の寿命が延び、国力も増した。
今では近隣諸国にも広まりつつあるが、発動が難しく、使えるのは一部の熟練魔法使いのみ。
結果として、王族や貴族など限られた者しか恩恵を受けられなかった。
そこで八重子は、一般の民でも手が届くよう、薬草をベースに治癒魔法の簡易版を付与したポーションを開発した。
治癒魔法ほどの効果はないが、軽度の怪我や病なら十分に治せる。
これにより、人間の平均寿命は八十歳前後まで引き上げられた。
「でも……もうすぐ帰れそうなの」
八重子はぽつりと呟いた。
この世界での彼女は、口数が少なく、笑顔も滅多に見せない。
知らない世界での長い年月が、少しずつその表情を削っていった。
「えっ……」
アルバートの驚きは、思わず声となって漏れた。
彼が二十三歳で八重子の警護任務に就いてから、すでに五年。
そんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「本当ですか? 元の世界に……ということですか?」
だが、八重子はそれ以上何も言わなかった。
賢者はどの国にも属さない、唯一無二の存在。
国王であっても対等でしかない。
アルバートは軽々しく問い詰められる立場ではなかった。
宿舎に戻ったアルバートは、賢者の言葉を何度も反芻した。
「冗談……だよな?」
そうであってほしい。
五百年この国にいた賢者が、突然いなくなるなど考えたくもない。
だが、不安は消えなかった。
結局、王にも報告できず、翌日もう一度聞こうと決めた。
しかし数日が過ぎても、怖くて問いただせないままだった。
アルバートは、まさかそんなことがあり得るはずがないと、自分に言い聞かせていた。
今までだって、賢者はずっとこの国に、この場所にいたではないか。
それが突然いなくなるなど――。
宿舎に戻ったアルバートは、鎧を外す手を止め、賢者の言葉を何度も思い返す。
「……冗談だよな?」
冗談であってほしいという願いが、思わず声になった。
五百年だ。信じてはいないが、五百年この世界にいると聞かされてきた存在が、急にいなくなるなんて――あり得ない。
いや、考えたくもない。
だからこそ、あの日聞いた「帰れそう」という言葉を、王に報告することができなかった。
「……王様にだって報告できなかったんだぜ」
独り言のように呟く。胸の奥に、不安がじわじわと広がっていく。
明日、警護に行ったときにもう一度聞こう。
そう決めたはずなのに、それから何日も経っても、もし事実だったらという恐怖が勝り、結局、賢者に質問を切り出せないままだった。
そして今日も、いつも通り賢者の家へ向かう。
玄関前に立ち、扉を軽くノックする。
「賢者様、警護に参りました」
……返事がない。
もう一度、今度は少し強めにノックする。
「賢者様、警護に参りました!」
……やはり、返事はない。
おかしい。賢者は規則正しい生活をしている。
この時間なら必ず起きており、すでに魔法書を開いているはずだ。
嫌な予感が背筋を走る。
慌てて扉の取っ手を回すと、あっけなく開いた。
鍵が……かかっていない。
「賢者様! 賢者様、どこにおいでですか!」
声を張り上げながら、家の中へ駆け込む。
賢者の家は、一階に研究室、地下に広大な書庫、二階に寝室とキッチンがある。
アルバートは寝室、浴室、トイレと、ありとあらゆる部屋を探し回った。
だが、どこにも姿はない。
「まさか……あの言葉が本当だったのか? 言われてから、まだ一ヶ月しか経っていないぞ……もう、どうしたらいいんだ!」
困惑と焦燥が入り混じった声が、空虚な室内に響いた。
「バッカモーン!!!」
聖王の怒号が玉座の間に轟いた。
隣では国王が白目をむき、泡を吹いている。
アルバートは、賢者がいなくなったこと、そして元の世界に帰ったのではないかという推測を、正直に報告した。
聖王は、普段は冷静沈着で、細身の老紳士と形容される人物だ。
誰も怒った姿を見たことがないとまで言われるその人が、青筋を立てて自分に怒鳴っている。
無理もない。賢者はホーデンハイド王国を発展させ、かつては教会が召喚した勇者と共に魔王を討ち、世界を救った存在だ。
その賢者が、何の言葉も残さず姿を消した。
しかも、自分はその可能性を事前に知っていながら、報告しなかったのだ。
処分は免れないと覚悟していたが、下されたのは意外にも勅命だった。
――賢者を連れ戻せ。
そして今、アルバートは再び賢者の家にいる。
もちろん一人では無理だ。
賢者に教えを受けていた魔法使い、イレイザも同行している。
「イレイザ、何か聞いていなかったか?」
「多少は研究を手伝わせていただいていたので、この辺に資料があったような……」
イレイザは本棚をあさりながら答える。
彼女はホーデンハイド王国で“天才”と称される魔法使いだ。
容姿端麗で、天は二物を与えたとまで言われる。
唯一の欠点は、魔法を恋人と信じて疑わない天然思考であることだった。
賢者の自宅を調べ始めて、すでに一年が経っていた。
時間がかかったのも当然だ。
地下の書庫はとてつもなく広く、長い年月をかけて集められた関連書物が、壁一面に積み上げられていたからだ。
「……これだ!」
イレイザが一冊の古びた魔法書を引き抜いた。
召喚に関する魔法書――師匠はこれをもとに研究を進め、そこから独自の理論を構築していたはずだ。
「どうだ? それで賢者様のもとへ行けそうか?」
「何言ってるの。これからこれを読み解いて、さらに師匠がどんな魔法陣を構築したかを調べるのよ。まだまだこれから」
呆れたようにイレイザは言い、さらに指示を飛ばす。
「それより、これに似た呪文や魔法陣が書かれているものを探して」
イレイザとアルバートだけでは到底無理だと分かっていたため、追加で騎士団員と魔法師団員、合わせて十名ほどが捜索と解析に加わった。
そして――五年後。
イレイザはついに資料の解読を終えた。
思ったより早く進んだのは、八重子が事細かに、分かりやすく整理していたからだ。
それでも、八重子が解読・解析・転用までに百年を費やしたものを、わずか五年で成し遂げたのは、やはり天才の証だった。
だが、イレイザは天然だ。
八重子は帰還の座標を徹底的に研究し、数百年をかけて精度を極限まで高めた。
対してイレイザは、残された情報から「多分この辺り」という程度で座標を指定したのだ。
魔法陣が描かれ、その中心にイレイザとアルバートが立つ。
「必ず……あなたのもとに参ります、賢者様」
アルバートが低く呟く。
イレイザと魔法師団員が魔力を込めると、魔法陣が眩い光を放ち始めた。
床に刻まれた紋様が一つ一つ輝きを増し、空気が震える。
次の瞬間、光が爆ぜ、イレイザとアルバート、そして魔法陣そのものが、音もなく掻き消えた。
残されたのは、静まり返った書庫と、まだ揺れる埃の粒だけだった。
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