わたしの願い

倉田恵美

第1話

佐藤健太は、三十五歳の平凡なサラリーマンだった。

東京の雑多なオフィス街で、広告代理店の営業部に勤めて八年。毎朝の満員電車、午前中のメール処理、午後のクライアントミーティング、そして帰宅後のビール一本。

生活はルーチンそのもので、刺激などどこにもない。

唯一の楽しみは、恋人の美香との週末デートだが、それさえも最近はぎくしゃくし始めている。


「また残業? 健太、最近全然話さないよね」


美香の声が、電話越しに冷たく響く。

健太はため息をつき、適当に謝った。実際、仕事で失敗続きだった。先週のプレゼンではクライアントの要望を読み違え、上司の山田課長から「君のせいで契約が危うい」と叱責された。

昇進の話など、夢のまた夢。

給料は手取り二十五万、貯金は五十万を切っていた。鏡の前に立つたび、自分の顔が疲れ切っているのが嫌になる。目元のクマ、薄くなった髪。三十五歳でこれか、と自嘲する日々。


そんなある雨の金曜日、健太はいつもの帰り道を外れた。残業を終え、疲れ果てて歩いていたら、路地裏の小さな看板が目に入った。


「古道具 夢幻堂」


埃っぽいガラス戸の向こうに、薄暗い店内が広がっている。なぜ入ったのか、自分でもわからない。雨宿りか、好奇心か。店内は古い時計や陶器、埃まみれの本が乱雑に並んでいた。カウンターの向こうに、皺だらけの老人が座っていた。白髪交じりの髭、鋭い目つき。

まるで時代劇の隠者だ。


「いらっしゃい。何をお探しだね?」


老人の声は低く、粘り気があった。健太は適当に「面白いもの」と答える。

老人はにやりと笑い、棚の奥から埃をかぶった鏡を取り出した。大きさはA4用紙ほど、木枠は黒く腐食気味。

鏡面は曇りがちで、健太の顔をぼんやりと映すだけだ。


「これは特別な鏡だよ。願いを映す鏡。どんな望みも叶えてくれる」


健太は笑った。胡散臭い。だが、値札を見ると三千円。安い。冗談半分で買ってしまった。家に持ち帰り、洗面所の棚に置く。夜、美香からのLINEが来ない。苛立ち、鏡に向かって呟いた。


「俺、昇進したいんだよな。山田の野郎の代わりに」


翌朝、会社は騒然としていた。山田課長が急性心筋梗塞で倒れ、即日辞職。部長が緊急ミーティングを招集し、後任に健太を指名する。


「佐藤君、君ならやれる。期待してるよ」


同僚たちの拍手が響く。健太は呆然とした。まさか。夢かと思ったが、現実だった。鏡の力? そんなバカな。だが、心のどこかで興奮が芽生えた。

調子に乗ったのは、その週の土曜日。美香と会う約束だったが、彼女は機嫌が悪い。


「健太の仕事ばっかり。私のこと、考えてくれてるの?」


健太は苛立ち、帰宅後鏡の前に立った。


「美香と、もっと幸せになりたい。プロポーズされるくらいに」


翌日、美香から電話がかかってくる。


「健太、結婚しようよ。私、君がいないとダメみたい」


彼女の声は甘く、涙混じり。

健太は飛び上がった。ディナーデートで指輪を渡し、キス。人生が輝き始めた。


ここから、健太の願いは止まらなくなった。

月曜の朝に「金持ちになりたい」と鏡に願う。

その週末、会社の抽選で海外出張の旅費が当選し、ボーナスも上乗せ。合計五百万円の臨時収入。銀行口座の数字を見て、健太は鏡に感謝した。


「健康になりたい。肩こりと不眠が治って」


翌日から、体が軽い。ジムに行かずとも筋肉がつき、睡眠は深くなった。鏡に映る自分は、若返ったように見えた。目が輝き、肌がつややかだ。

親友の拓也に自慢した。大学時代からの付き合いで、拓也はバーテンダー。居酒屋でビールを傾けながら。


「お前、運いいな。俺なんか借金まみれだよ」


「もっと欲しいもの叶えたいぜ」


と健太は笑いながら鏡の話をぼかして語った。拓也は冗談だと笑ったが、健太は本気だった。次なる願い。


「拓也の借金がなくなって、俺の親友としてずっと一緒にいたい」


異変は、徐々に忍び寄った。最初は小さな違和感。願いの翌週、拓也から連絡。


「健太、ちょっと話がある」


声が震えていた。会ってみると、拓也の顔は青ざめていた。


「事故に遭ったんだ。バイクで転んで、足折れた。借金は奇跡的に肩代わりされたけど、仕事が……」


病院のベッドで、拓也は弱々しく笑った。健太は罪悪感を覚えたが、気のせいだと振り払った。鏡のせいじゃない。

次に、美香の番だった。


「もっとラブラブになりたい。毎日一緒にいたい」


願いの二日後、美香が失踪した。朝、部屋に手紙。


「健太、ごめん。急に海外転勤が決まって。連絡待ってて」


荷物はなく、LINEは既読スルー。警察に届けを出したが、手がかりなし。健太はパニックになった。鏡の前に立ち、叫んだ。


「美香を返せ!」


だが、鏡はただ静かに彼を映すだけ。いや、よく見ると、自分の顔が少し違う。目がずれ、唇が微かに曲がっている。疲れのせいか? いや、違う。鏡の中の自分が、薄ら笑いを浮かべている。

不安が募り、健太は願いを控えた。だが、仕事のプレッシャーが増す。昇進した分、責任が重く、ミスが許されない。夜ごと、鏡が気になって仕方ない。

ある晩、酒に酔って鏡の裏を剥がしてみた。すると、古い紙片が落ちた。黄ばんだ手記。過去の所有者のものだ。


「この鏡は、江戸時代より伝わる呪いの品。願いを叶える代わりに、魂の一部を吸い取る。失うものは、大切な絆や記憶。最初は小さな代償だが、積み重なれば己を失う。止めるには、全てを諦めよ」


手記は、複数の所有者の記録だった。


一人目は商家の男。富を願い、家族を失った。

二番目は武士。名誉を求め、友を斬った。

三番目は……名前が消えていた。健太の背筋が凍った。拓也の事故、美香の失踪。全て繋がる。


鏡は彼の「大切なもの」を奪っていたのだ。魂の一部? それは、愛する人々とのつながり。願いが叶うたび、鏡がそれを食らう。

翌日、健太は路地裏へ急いだ。あの店を探して。だが、そこは空き地。雑草が生い茂り、看板の跡もない。まるで最初からなかったように。

周囲の住人に聞くと


「そんな店、知らないね」


絶望が胸を締めつけた。家に戻り、鏡を睨む。映る自分の顔は、ますます歪んでいる。頰が落ちくぼみ、目は赤く充血。鏡の中の自分が、囁くように動いた気がした。


「もっと……願いを」


クライマックスは、その夜訪れた。健太は鏡に向かい、震える声で願った。


「全てを元に戻してくれ。拓也の事故を、美香の失踪を、昇進も金も、健康も。俺の人生を、最初に戻せ」


鏡面が輝き始めた。青白い光が部屋を満たす。低い声が響く。鏡からか、それとも頭の中か。


「願いを叶えよう。だが、代償は君の全ての記憶だ。過去の喜び、悲しみ、愛した人々の顔。全てを鏡に捧げよ」


健太は躊躇した。記憶を失う? それは、生きている意味を失うことだ。だが、美香の笑顔が脳裏に浮かぶ。拓也の冗談。山田課長の叱責さえ、懐かしい。失うのは怖い。でも、続けるよりマシだ。


「……わかった。取れよ」


光が爆発した。視界が白く染まり、過去が剥がれ落ちていく。幼少の頃の母の膝。大学でのサークル。美香との初デート。願いの興奮。全てが、糸のように引き千切られる。痛みはなかった。ただ、空虚だけ。健太は倒れ、気を失った。


目覚めたのは、数時間後。ベッドの上。部屋は見慣れたものだが、何かが違う。鏡がない。棚の埃が、長い間触れていないことを示す。頭がぼんやりする。


自分は誰だ? 佐藤健太。三十五歳。会社員。だが、それ以上思い出せない。仕事の失敗? 恋人? 親友? 霧の中だ。

玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、女性が立っていた。優しい笑顔。


「健太、おはよう。朝ごはんできたよ」


彼女は美香……? いや、名前が出てこない。でも、温かい。キスを交わし、テーブルに着く。トーストとコーヒー。平凡な朝。


「今日も仕事、頑張ってね。夕飯は私が作るから」


健太は頷いた。記憶の空白が、かすかな違和感を残す。でも、幸せだ。穏やかだ。会社へ向かう電車で、窓に映る自分の顔を見る。普通の顔。疲れていない。昇進? そんな話、なかったはず。親友の名前? 思い出せないが、きっと大丈夫。

一方、雨の路地裏に、店が再び現れた。


「古道具 夢幻堂」


老人はカウンターに座り、新しい客を迎える。二十代の青年。仕事に悩み、恋に破れた男。


「何か、人生を変えるものないかな」


老人はにやりと笑い、鏡を差し出す。


「これで君の願いが叶うよ」


青年は半信半疑で買う。家に持ち帰り、鏡に向かう。


「俺、成功したい……」


欲望は、代償を伴う。失う前に気づけぬ選択の重みは、鏡の中で永遠に繰り返す。魂の欠片を貪る鏡は、次の餌を待つ。

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わたしの願い 倉田恵美 @Loliloli1919

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