訪問入浴日和——あなたと私とわんこ——

天音空

第1話 いざ目的地へ

 秋の陽ざしが柔らかく街路樹の葉を揺らす昼下がり、訪問入浴車は静かな住宅街をゆっくり走っていた。


 車内では次の訪問先についての確認がささやかに交わされ、まるで小さなサークルの中にいるかのような穏やかな空気が流れていた。窓の外には、黄金色に輝く銀杏並木が続き、ほのかに甘い金木犀きんもくせいの香りがそっと車内に漂う。


「今日もいい天気だねぇ」


 ドライバーの小林和真がのんびりとつぶやく。サイドミラー越しに空をちらりと見上げると、得意げに鼻歌が響き始めた。どこか妙にこぶしの効いた歌声に、助手席のみなもと桜介護士が思わず吹き出た。


「ちょっと待って、和真、それ演歌じゃない? なんで秋なのにそんな渋い選曲なの!」


「いや、秋だからこそ、センチメンタルに浸りたいんだよ。ほら、寂しさが身に染みる季節じゃん?」


 桜はお菓子の袋を小さく揺らしながらクスクス笑った。


「でもそれ、センチメンタルっていうより、昭和の居酒屋で常連が熱唱してる感じだよ!」


 後部座席の木下由美子看護師は手帳を確認していた。現場で“静かな司令塔”と呼ばれる彼女の指先は無駄なくページをめくる。まるで将棋の名人が盤上を読むように、一手先を見据えて静かに指す——その落ち着きがチームに安定と信頼をもたらしていた。


「次のお宅の玄関は少し狭いので、浴槽の運び込みは慎重にいった方が良いですね」


「さすが由美子さん! 細かいところまでチェックしてる!」


「まあ、前回ポン太に飛びつかれて浴槽の角に足をぶつけた人がいたので……」


 由美子が一瞬、和真をチラリと見やる。


「あれは事故だからな!? 不可抗力だ!」


 一瞬の笑いの後、車内の空気がふっと落ち着く。


 狭い玄関、古い家屋、家族の協力——小さな差が利用者の安全に直結する。『慎重に』という一言が、三人の胸にじんわりと重みをもたらした。


「ポン太、今日も元気かな? 秋の涼しい気候で、よりテンション上がってるかもね」

 

  桜は前回ポン太が玄関先でピョンピョン飛び跳ねていた様子を思い出し、口元をほころばせる。


「そうそう、ポン太ってば、中野さんに飛びついて、それがまたいい感じに微笑ましいんだよね。ペットって、ほんとに癒し効果あるよなぁ」


「実際に、研究でもペットと触れ合うことでストレス軽減になるって証明されてますね」


「さすが由美子先生! 慎重派なだけじゃなくて、知識も豊富だ!」


「わかる! 由美子さんがいてくれるおかげで、私たち安心して仕事できるんだよね。まあ、和真はマイペースだけど」


「おいおい! 俺だって慎重な時は慎重だぞ!」


 目を細めて口元に笑みを浮かべる和真に、桜は微かに肩を揺らしてクスクスと笑った。


「例えば?」


「運転はちゃんとしてるつもりだからな」


「それは最低限の義務だよ!」


 笑い声に包まれた車内の空気が、少しずつ落ち着きを取り戻す。


 目的地である古い一軒家が視界に入ると、玄関先からはポン太の元気な鳴き声が早くも響き渡っていた。


「中野さんの家の道路は一方通行で車が離合が出来ないから、30メートル先にある駐車場から荷物を運ぶぞ。車には気をつけろよ」


 和真がそういうと、桜は「いつものことだけど、みんな気をつけようね」と言葉を返した。


「よし……」

 和真が小さく息を整え、車を停める。


 桜はお菓子の袋を片付け、由美子は手帳を閉じる。


「さあ、最後の一軒だね!」


 桜が大荷物を手に取り、にっこり笑う。和真は浴槽を台車に乗せ、由美子は防水シートと身体保護シートを慎重に準備した。


 扉の向こうに待つのは、ただの仕事ではなく——誰かの暮らしと命を支える現場だ。


「行きましょう」


 由美子の静かな声に、二人は深くうなずく。


 ポン太の声に迎えられながら、三人は一歩、玄関先へと踏み出した。


(つづく)



※ここまでお読みいただきありがとうございます。

本作は全4話の現代ドラマです。

最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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