僕らが探す、理想の場所

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第一話:旅立ちと、風の便り

僕の名前は高橋 陽太、32歳。都内のIT企業でシステムエンジニアとして働いていた。いや、働いていた、が正しい。一週間前に、僕は会社を辞めた。

辞めること自体は、三年越しの計画だった。毎日同じ時間に起きて、満員電車に揺られ、同じ顔ぶれと同じ仕事をこなす。効率的で合理的、そして何より安定していた。しかし、僕の心はいつもどこか満たされていなかった。仕事が終わって家に帰り、コンビニで買った弁当を温め、スマートフォンを眺めながら一人で食べる。そんな生活の先に、自分が本当に求めているものがあるとは思えなかった。

「陽太、そろそろいい加減にしなさい。せっかく安定した職を捨てて、一体どこに行くの?」

母の声が電話越しに響く。実家を出て十年以上経つが、僕が旅に出ることを告げてから、毎日のように電話がかかってくるようになった。

「大丈夫だよ。ちゃんと見つかるさ、住む場所も、仕事も。」

「そんな簡単なことじゃないでしょう。もうすぐ三十代半ばなのに…」

母の心配も理解できる。しかし、僕の中で何かが弾けたのは、ある雑誌で読んだ一つの記事だった。特集されていたのは、**「風の里」**と呼ばれる集落。自然豊かな土地で、自給自足に近い暮らしを営みながら、移住者がそれぞれの特技を生かしてコミュニティを築いている、と書かれていた。

その集落は、宮崎県西臼杵郡にある**「上椎葉(かみしいば)」**という村だった。記事には、村の8割以上が山林で、日本最大級の重力式コンクリートダム「椎葉ダム」があること、そして棚田や蕎麦畑が広がり、昔ながらの生活が息づいていると書かれていた。特に惹かれたのは、「里山」という言葉。里山とは、人が手を加えることで成り立ってきた森や林のことで、ただの自然ではなく、人との共存の中で培われてきた文化的な景観だという。

「都会の暮らしに疲れた人が、心を癒しに訪れる場所」。

記事のこの一文が、僕の心を強く揺さぶった。都会の便利さや速さとは真逆の暮らし。それが、僕が求めているものなのではないか。

会社を辞め、身の回りの荷物を最低限にまとめた僕は、旅の最初の目的地を上椎葉村に決めた。東京から宮崎までは飛行機で、そこからバスとタクシーを乗り継いで行くことになる。簡単な道のりではない。それでも、僕の心は高揚していた。

上椎葉村に向かうバスの中で、窓の外を流れる景色を眺める。どこまでも続く山、山、山。時折見える小さな集落は、東京では見たこともないような、まるで絵本の世界のようだった。

「兄ちゃん、どこまで行くんだい?」

隣に座っていた、日に焼けた顔の老人が話しかけてきた。

「上椎葉までです。あの、この辺りに住んでるんですか?」

「ああ、そうだ。わしは上椎葉のモンだよ。こんな山奥まで、観光かい?」

「いえ、実は…移住先を探していて、ここに一度来てみようかと。」

老人は驚いた顔をした後、楽しそうに笑った。

「そりゃまた、物好きだね。最近は都会から来る人が増えたけど、みんなしばらくしたら『やっぱ無理だ』って帰っちまう。まあ、住むには色々と不便だからな。コンビニもねぇ、病院も遠い。夜は真っ暗で星しか見えねぇ。」

老人の言葉は、雑誌の記事とは全く違う、現実の厳しさを物語っていた。それでも、僕の胸の高鳴りは止まらなかった。不便さの中にこそ、僕が求めている何かがあるのかもしれない。夜空に輝く満点の星、それは都会では決して見ることのできない景色だ。

「でもな、その代わり、人との繋がりはどこよりも強い。困ったことがあったら、みんなで助け合う。それが、この村の良さなんだ。」

バスがゆっくりとカーブを曲がるたび、深い緑の匂いが車内に入り込んでくる。僕は、この旅がどんな結末を迎えるのか、まだ分からなかった。それでも、この一歩を踏み出したことに、後悔はなかった。

ここから、僕の新しい人生が始まるのだ。

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