第14話 祭礼の朝、喉を通す手順

 夜の青がほどけ、王都の屋根に薄金の輪郭が差す。寮の鐘はまだ三つ、空気は冷たい井戸水のように澄み、石畳は露で滑りやすい。俺は数息観を十までたどり、紙→声→退路→術(最後)を胸の裏で並べ直してから、木剣と薄板、白墨、蜂蜜水を確かめて腰に収めた。

 集合刻より一手早く、城門西の“喉”と印の付いた地点へ向かう。昨夜掲示板に記された赤印の通りは見回り強化、渡し場筋と舞台裏、それに王城前の噴水——今日いちにち、人の帯は太く、結び目は多い。

 門楼の影に着くと、ミロ、サーシャ、カムロが既に待っていた。盾は面が乾いて白く、弓は弦をまだ外し、鞘は口を半寸だけ開けた休みの姿。そこへローザリア、リィナ、エリオが合流。彼女は木札の裏に縫い足した一行——『あなたが戻る道を、先に縫う』——を指で確かめ、俺と目を合わせて頷く。

 「今日は香強が長い。言葉は絡みやすい、手は多め、音は低め」リィナが匂い表の端に×印を三つ足す。鼻孔に入ってくる香は昨夜より甘く重く、喉の内側に薄い膜を作る。

 「順番は昨日の三手でいい。違うのは量と速さだ」ミロは簡潔に言い、盾の縁で俺の肘を軽く叩く。「白は細く、長く保て。腕でなく胸で立てる」

 「舞台裏には見知らぬ顔が増える。赤い鉤を見たら、追わずに詰所へ繋げ」サーシャが弦を張りながら目だけで告げ、カムロは鞘の口で朝の光を拾って“ここは痛い”の高さを確認する。


 最初の喉は、城門西の小橋。石の縁は露で黒く、手押しの屋台と祈りの列、楽器箱が同時に鼻を突き合わせ、すでに押しの芽が育ちかけていた。

 俺は白を胸の高さで縦に細く、顎で“口”を描く。紙——先に形。

 ローザリアが木札を喉元に当て、面目返の言い回しを低短に載せる。「——鳴る者先、数は後。一打の後、二台流す」声は蜂蜜を落とすみたいに短く冷たい。

 サーシャが床を高く「コッ」と一打、ミロは盾の面を斜に置き、カムロは鞘の口で光を落とし、エリオは楔で列の角を丸める。祈りの列の鼓手が一度だけ打ち、屋台の御者は自分で手を緩め、通路は細いが確かな喉の形を取り戻す。

 俺は白を保ちつつ、石の継ぎ目の深い箇所に目印を置く。ここは足が滑る、術を使えば“効き”は出るが、まずは紙と声。足元に布を一枚、係から借りた麻を敷くだけで、滑りの角が丸くなる。未使用は未練にしない。


 次の結び目は、香炉を担ぐ祭具隊と水樽の列が橋の中央で鼻先を合わせた場面。香強、言葉は長くなりたがる。

 ローザリアは声をさらに低く短く落とし、「香は先へ、水は右回り」と二語で返す。サーシャが低い二打で“落ち着け”を作り、俺は白で右の狭い回り道を“口”に見せる。

 ここで水樽の一台が石の目地に取られて車輪が逃げた。押し合いの芽に力が入る前、俺は掌へ足止めを一滴、車輪の縁へ短く薄く落とす。回転が自分で遅れ、御者はその一拍で息を落とし、右回りへ素直に入った。第三者にも“止まった”が見える。すぐ解く。


 橋を抜けると、露店の幌が朝の風を受けて大きく鳴り、油の匂いが立ちのぼり始めた。香と油が混ざれば喉は詰まりやすい。リィナが蜂蜜水を一滴、係へ配り、「言葉短く、手多め」を念押しする。

 俺は白を低く保ち、指の合図の割合を増やす。顎で示す“口”、人差し指で描く“待つ面”、中指で示す“角”。ローザリアはそれに同期して短い帯を落とし、見物人にも意味が届くように指で道筋をなぞる。


 最初の喉を離れて城前の広場へ向かう道すがら、巡回の兵から短い伝令が入る。「渡し場筋、赤印の連中を見た者あり。今日の狙いは“切る”より“滞らせる”。面目を潰して気持ちよくなる手口だ」

 ミロが顎を引く。「面目返の文例、二つ増やしておけ」

 ローザリアは木札の裏にすぐ書き足す。『約定の先渡し——先に場所を与え、刻限で収める』『明日通す——今切らず、明日通すと約す』。俺は白墨で図譜の欄外に同じ文を写す。


 城前の噴水は、朝のうちから賑わいを見せていた。地方使節の列、楽団、見物人、露店の納入。しかも今日は他国の留学生の挨拶行列が通る予定だという。列の先頭に見える旗は、淡い青に白銀の十字星——クロイツベルク家の縁の宗都からの使者だ。ローザリアが一瞬だけ姿勢を正し、木札の縫い目を指で撫でる。

 「王城前は面で守る。俺たちは喉を増やす」ミロの短い言で、配置が散る。俺とローザリアは噴水左、サーシャとカムロは舞台裏の合わせ目、エリオとリィナは露店列の角。


 左の喉では、絵師が画板を広げかけて通路の“口”を塞ぎそうになっていた。俺は白を胸の高さで細く掲げ、ローザリアが微笑を添えて短く言う。「描く者は縁、通る者は中。縁へ」

 絵師は恥をかかずに縁へ移り、見物人は「上手く収めた」と目で理解する。白は細く、手は少なく、面目は先に返す——骨は生きている。


 その時、舞台裏から小さな「ギン」という金属音。サーシャから矢継ぎ早に入る手の合図——“紐”“結び”“外す手”。俺は白を低く保ったまま視線だけ送る。布の合わせ目で、誰かが結び目をいじっている。昨夜の“綱抜き未遂”と同じ匂い。

 追わない。ここは城前。詰所と兵の目がある。ローザリアは木札を伏せ、名指しではなく約束で言葉を置く。「壇は角へ、刻限は二刻。場所を与える。今は、結び目に触れない」

 音は止み、影は引いた。面目を先に返すことで、切らせない。


 午前の任は一度区切り。詰所で短い報告を書き、監督印に刻を一つ足してもらう。記録官は羽根ペンを置き、「学生補助、見える正しさが増えてる。午後は使節列の通過、喉を太く保って」とだけ告げた。

 詰所を出ると、ローザリアがそっと袖を引く。木札の裏の糸を指でなぞり、低く短く、彼女だけに聞こえる帯で言う。「戻る道、見えている?」

 「見えてる」俺は白墨を少し見せ、胸の位置を示す。「胸の白は細く、長く。君の声が退路の縫い目になる」

 彼女の横顔に短い笑みが走り、護衛が距離を整える。


 それから昼刻までの間に、俺たちは三つの喉を通し、二度“足止め”を一拍、いずれも第三者に“効き”が見える形で短く使い、すぐ解いた。蜂蜜水は半分、匂い表は“香強→油中”の矢印が二本。

 昼の鐘が重なり、陽は高く、影は短く、城の旗は風で深い音を返す。午後は使節列の通過——押しは育ちやすく、面目は立ちやすく折れやすい。

 紙→声→退路→術(最後)。未使用は未練にしない。面目は先に返す。白は細く、手は少なく。

 俺は胸で誓いの行をなぞり、白墨の角を指の腹で丸め、午後の喉へ向けて足を出した。


 昼の鐘が三つ重なり、王城前の空は薄い白に眩しく膨らみ、旗は強い風を孕んで深い布鳴りを返し、香炉の白煙は帯を上げて言葉の角を丸くしたが、人の流れは逆に細かい押しを増やして小さな結び目をあちこちに作り始めた。

 使節列の到着は刻限どおりと詰所から合図が来ており、淡い青に白銀の十字星の旗が遠くで翻り、金具の擦れる乾いた音と礼装の革が鳴る低い音が、石畳を通じて足裏へ予告のように届いてくる。

 俺は白を胸の高さで細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を骨へ重ね、顎で“口”を二本描き、ローザリアに視線で左側の喉の主導を託し、ミロは盾の面を半寸寝かせ、サーシャは弦を張り切って音の高さを一段下げ、カムロは鞘の口で光を拾い、エリオは楔の角を肩で作って列の角を丸める準備に入った。

 「——礼が先、商いは後、見物は縁」ローザリアは木札を喉元に当て、面目返の文を低短に三段で置き、指で通路の筋を示して“これがあなたの面目の位置”を誰にでも分かる形に見せ、言葉の帯を熱くしないままに流れの骨を立て直した。

 露店の親父が油鍋を一歩引き、香の係が香炉を胸の高さで安定させ、見物人は縁へ身を寄せ、俺の白に吸い寄せられるように“喉”が細くも真っ直ぐに整い、使節列の先頭の馬の鼻息が近づくにつれ、押しは自分で力を抜いていった。

 先頭の騎士の馬が石の継ぎ目を嫌い、蹄が一度すべって目が大きくなった瞬間、俺は術へ指先だけ触れ、重心落としを蹄の下へ半拍、薄く短く滑らせ、蹄の周囲の砂塵が輪のようにふわりと沈んで第三者にも“足が落ち着いた”のが見える形を作り、すぐに解いて未使用は未練にしないを胸で唱え直した。

 騎士は手綱をわずかに緩めて礼を置き、旗手が十字星の旗を一度深く垂らし、見物人の息が揃って流れが太くなるのを感じ、白を胸の位置で長く維持したまま顎で次の“口”を描いた。

 その時、舞台裏の幕の合わせ目で粉の匂いが一瞬だけ鋭くなり、甘い香に辛味の棘が混じって喉がきゅっと狭まる感じが走り、リィナが即座に鼻で合図して「辛粉」と短く囁いた。

 粉の壺が布の影から転がり出て、石の上を斜めに滑って群衆の足もとに向かい、咳が連鎖すれば押しは一気に崩れる芽になると分かった半拍に、俺は足止めを壺の底へ薄く短く置いて転がりを自分で鈍らせ、同時にカムロが鞘の口で壺の肩を弾いて角度を変え、サーシャが床板を高く一打して足元への注意を集め、ミロが盾の面で壺の行き先に“面”を置いて受け止め、リィナが油紙で口を抑えて辛粉を吸わせるように蓋を作り、第三者にも“危険物が止められた”のが見える形で収束させた。

 ローザリアは面目返の文を名指しに変えず、場所で返した。「——詰所が受け取る。ここでは撒かない。刻限後、申立を聞く」短い帯は冷たく、しかし逃げの面目を残し、幕の影の気配は一度で萎み、詰所の兵の視線がそこへ滑るのを確認して俺は白を低く戻した。

 使節列が噴水前を通過するところで、空から別の問題が降りてきた。子供の手から離れた小さな凧が上昇気流に乗って使節旗の槍先へ絡みかけ、布が絡んで旗が捩れれば騎馬の目に見えない“蛇”となって馬が驚く恐れがあった。

 刃は出さない。俺は短く走って旗の直前で体を斜に入れ、硬化を掌へ薄く短く落として凧の骨の一本を“鈍い骨”に変え、サーシャが矢で凧糸の地表近くを“コッ”と打って糸の張りを失わせ、凧は自分で力を落として地へ舞い降り、見物の子が泣き出す前にエリオが肩で楔を作って人の輪を保ち、リィナが蜂蜜水を一滴、子の喉へ落として泣き声を飲み込ませ、俺は白で親へ“退路”を示して子と凧が無事に外へ出るよう細い道を作った。

 行列の中央、聖職者の輿が通ると香の帯はいっそう高くなり、言葉は長くなりたがり、感情の押しは正しさに姿を変えて増幅しがちになるが、ローザリアは声をさらに低短に落として「——祈り先、言葉短、歩は合わせ」と三語で通し、俺たちは音と手で補助し、見物の礼は短く、輿の歩は揃い、喉は細くても切れずに保たれた。

 詰所から木札が回り、「渡し場筋、赤印の連中は城前へは来ず、脇筋で滞らせの手」とあり、ミロが顎を引いて「終わり次第、南筋へ回る。城前は面で守り続け、俺たちは喉で穴を開ける」と合図し、俺は薄板に次の三手を写して白の高さを整え直した。

 使節列の後尾が抜ける刹那、露店の若い店員が荷車の舌を足に引っ掛けて転び、樽が一つだけ跳ね、仮設段差の角へぶつかる形になったので、俺は硬化を段差の縁へ半拍だけ置いて“滑らない面”にし、樽は自分で踏み直して音を殺し、第三者にも「効いた」が見える一拍の後ですぐ解いて掌の痺れを握り潰し、呼吸を落として骨を正した。

 昼過ぎの風は一瞬だけ西へ回り、香が薄くなって代わりに油の匂いが強くなり、喉の詰まり方が“言葉”から“物理”に寄るのが鼻と耳で分かったので、指の合図を増やして手を多めに使い、ローザリアは声の高さをさらに落として帯を冷やし、サーシャは低い二打を間隔を開けて置き、ミロは盾の面を一寸寝かせ、カムロは鞘で床をやわらかく一打して「ここは痛い」を知らせ、エリオは肩で楔を作って角を丸めた。

 使節列が城門の影へ消えると、広場の空気は一度に解けるようでいて、解け方を間違えると“どっ”と押し出す危険な瞬間でもあり、俺は白を胸で長く保ったまま、顎で“出口の口”を示し、ローザリアは面目返を“約束文”に変えて「——三条の口、五十歩で解け、礼は短」と置き、見物の人波は自分で三本に割れて押し出さずに流れを回復させた。

 詰所に戻って監督印の時刻を一つ足し、辛粉の壺と凧の事案を三行で記録し、舞台裏の結び目の警戒札をもう一枚追加してもらい、記録官から「午後後半、南筋の喉が細る。君たちで一度“例(れい)”を作れ」と短い指示を受けた。

 水を口に含み、喉の膜を蜂蜜水で一枚薄くして、ローザリアが袖の結び目を確かめ、俺は白墨の角を指で丸め直し、ミロは盾の皮紐を締め直し、サーシャは弦の張りを指で撫でて高さを検め、カムロは鞘の口を半寸開けて光の射し具合を見、エリオは楔治具の穴の位置を半寸だけずらして“誰でも直せる高さ”を維持し、リィナは匂い表の欄外に「辛粉注意/油中強」と太く書き足した。

 南へ向かう大通りは、屋台の煙が風に水平に流れ、パン窯の甘い香と肉の脂の匂いが層になって喉を粘らせ、石畳は午の熱でやわらかく、車輪の跡が薄く印をつけ、物理の押しが“数”で増える時間帯へ差し掛かっていた。

 最初の喉は、緩い曲がり角で屋台が鼻をつき合わせる定番の結び目で、加えて脇へ抜ける細道の入口に物売りの箱が置きっぱなしになり、逃げ道が“見えない”せいで押しが育っていたので、俺は白でまず退路を先に示し、指で細道を“口”として描き、ローザリアが「——先にここ、次にこなた、約束する」と短い帯を置いて面目を返し、サーシャが低い一打で“落ち着け”を作り、ミロの面は押さずに角を丸め、カムロの鞘は音だけで「痛い」を示し、エリオは箱を肩で押し上げ、誰でも通せる高さへ寄せ、流れは自分で細道を思い出して太り、押しは解けた。

 続く喉では、若い御者が競うように舌を入れ合って角が立ち、言い合いの音が帯を上げたので、ローザリアは面目返の第三文を用い、「——一台先で礼を受ける、次の一台は礼を返す」と“交換の約束”を置き、俺は白で礼の場所を顎で描き、見物人にも“正しさの形”が見えるようにし、二台はほとんど同時に通り抜けたが互いの面目は保たれ、角は丸くなった。

 三つ目の喉で、路地から赤房の男が出たり入ったりして流れの縁をざわつかせ、面目潰しの言い回しを投げて押しを育てようとしたので、俺は追わず、ローザリアは名指しを避けて「——場所は角へ、刻限は半刻、語は短」と壇の例を南筋にも作り、サーシャは弦でその角を指し、ミロは面で壇の“面”を作り、カムロは床を一打、エリオは楔、リィナは香を薄め、男は“面目が用意された”ことで毒を流し場へ持ち出す形になり、喉の押しは育たなかった。

 俺は掌に残る痺れを一度握り潰して解き、白を胸の高さで細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を胸の裏で並べ直し、次の角へと足を移しながら、昼と夕の境目の風の温度を鼻で測り、骨の位置を微調整した。

 祭礼の一日はまだ半ばだが、骨は折れていない。見える正しさは増えている。真似される型も増えている。俺は白墨の角をもう一度だけ丸め、次の喉を思い描いた。


 南筋の二つ目の角を抜けると、通りは一度だけ広がってから急にすぼまり、屋根の低い倉庫が左右から迫って風を隙間へ集め、屋台の布をばたつかせて人の声をさらう。香は薄れ、かわりに油と鉄と焼けた砂の匂いが鼻を刺し、物理の押しが“数”と“重さ”で迫るのが分かる。俺は白を胸の高さで細く、やや長めに保ち、紙→声→退路→術(最後)を胸の裏で重ね直し、顎で“口”を二本描き、ローザリアへ左の喉の主導を視線で託し、ミロは盾の面を半寸寝かせ、サーシャは音の高さを低めに作り、カムロは鞘の口で光を拾って「ここは痛い」を一打で知らせ、エリオは肩で楔の角を組む準備に入った。

 最初の結び目は、鋳物屋の荷車と麦粉を積んだ手押し台が鼻を突き合わせ、どちらも刻限を抱えて一歩も引かぬ体勢で、見物が輪を作って押しの芽を育てかけている場面だった。ローザリアは木札を喉元に当てて低短に置く。「——重さ先、粉は縁、礼は次」。サーシャが床を低く二打して“落ち着け”を作り、俺は白で右の細い縁道を“口”に見せ、顎で粉台へ誘導を描く。鋳物屋の御者は自分で手綱を緩め、粉台の青年は恥をかかずに縁道へ入る。見物人にも“正しさ”が見える形で、押しは自分でほどけた。

 次の喉は、倉庫前の短い坂。ここは石の継ぎ目が深く、荷車の車輪が噛むと一気に押しが育つ地点だ。エリオが先に坂の肩へ入り、楔の角を作って流れの肩を受け、ミロは盾の面を斜に置いて“押さずに壁”を作る。俺は白を胸の高さで保ちながら、石の目地の深い箇所に麻布を二枚、係から借りた布を足元に敷いて「滑る角を丸める」。ローザリアは「——坂は一台ずつ、礼は上で」と短く置き、サーシャが高く一打で“止”を作ってから低く一打で“流”へ戻す。車輪は自分で刻を合わせ、坂は小さな音だけで通った。

 その時、路地の陰から細い犬が飛び出し、背を立てて吠え、群衆の足元へ縫い込むように駆け込んだ。悲鳴が帯を上げ、子どもの泣き声が混じり、押しは不規則な方向へ育ち始める。紙と声だけでは半拍足りない。俺は掌に足止めを薄く短く落とし、犬の前足の下へ一滴だけ“粘る面”を置く。犬は自分で立ち止まり、滑って横座りになって吠えをやめ、第三者にも“止まった”が見える形で収まる。すぐ解く。リィナが素早く近寄り、持ち歩きの乾肉を一片差し出して匂いで犬の注意を外へ導き、エリオが楔で細い退路を作り、犬は尻尾を下げて路地へ戻っていった。

 三つ目の喉では、酒樽を積んだ若い二人が競うように舌を入れ合い、言い合いが熱くなりかけた。言葉の刃は見えないが、人の足を固める。ローザリアは面目返の“交換文”を選ぶ。「——一台先で礼を受ける、次の一台は礼を返す。見える所で」。俺は白で“礼の位置”を顎で示し、サーシャが低い一打で“ここ”を指す。二人は肩で息を吐き、順番を交換して通り、見物人は「上手い」と目で納得する。面目は先に返し、角は丸くなった。

 角を一つ増やして南へ下ると、渡し場へ近づく脇筋に“赤い鉤”の符牒をつけた布切れがひらひらと残されているのが見えた。そこは荷を受ける枡の口で、箱がわざと二つ、横倒しに置かれて“退路”を視界から消されている。詰所から回った札どおりの「滞らせて面目を潰す手」だ。追わない——まず紙。俺は白を胸高に長く掲げ、顎で枡の口の外周に新しい口を描き、エリオとミロが箱を肩と面で滑らせ、誰でも直せる高さへ寄せ直す。ローザリアは名指しを避けて約束文を置く。「——受けは角、刻限半刻、語は短。ここでは結び目を作らない」。サーシャが低い二打、カムロが床を柔らかく一打。赤布の影は、面目の逃げ道が先に示されたことで毒を流し場へ持ち出せず、気配は薄く引いた。

 渡し場の前庭に入ると、板橋の手前で魚籠を肩にかけた漁師たちが列を作り、対岸からは祭具を担いだ徒列が渡し舟で上がってくるところだった。潮の匂いが香に混じって喉の奥に冷たい筋を通し、掛け声が水面で跳ね返って耳の高さを乱す。ここは声が絡みやすい。ローザリアは帯をさらに低短に落とし、「——舟先、岸は縁、一呼吸」と三語だけを置いて、サーシャが舟の舳先に合わせて高い“止”を一打、続けて低い“流”を一打、俺は白で“降りの口”を顎で描く。舟は一度だけ揺れて、すぐ落ち着く。

 板橋の中央で、祭具の箱が一つ、担ぎ手の肩からずれて帯紐が滑り、角が板に噛んで動かなくなった。後ろから押しの芽が育つ。紙と声は半拍足りない。俺は重心落としを角の下へ半拍だけ薄く置き、板と箱の“面”を一時的に合せ、担ぎ手が自分で帯を掛け直す一息を作る。第三者にも「効き」が見えるよう、板の上の砂塵が円を描いて沈み、すぐ解く。未使用は未練にしない。

 渡し場を抜けると、川沿いの堤が緩く曲がり、屋台と見物と巡回の兵の動線が三つ巴で混ざり始めた。ここで、赤房ではないが“面目潰し”の声を投げる男が立ち、露店の若い女主人に“順番を守らない”と大声で責め立て、押しを育てようとしている。ローザリアは歩を止め、木札を伏せ、面目返の三文目を丁寧に置いた。「——語る者は場所を得る。角に小さな壇。刻限四半。短い語で」。ミロが盾で壇の“面”を作り、カムロが鞘で床を一打、サーシャは弦で風の向きを指す。男は“用意された面目”を見て顎を引き、露店の女は礼を短く置けた。押しは育たない。

 午後の風は再び香を抱え、香強へ戻りかける。言葉は長くなりたがる。俺は指の合図の割合を増やし、白は細く長く、顎で“口”を描き続け、リィナは蜂蜜水を一滴、喉を固める男たちに配る。エリオは楔で角を丸め、ミロは面で押さずに壁を敷き、サーシャは低い二打を間を空けて置く。

 渡し場から学園へ戻る筋で、思わぬ“見えない刃”が来た。風下から辛粉が薄く漂い、さっきの壺とは別筋だと分かる棘が喉へ刺さる。リィナが即座に鼻で合図し、口元へ油紙を当てて俺に小瓶を投げる。俺は白を胸で保ったまま、油紙を配って“口と鼻を覆う合図”を指だけで広げる。ローザリアは声を落として「——口覆う、短い語、歩は小」と帯で通し、サーシャは床を高く一打して足元への注意を集め、ミロは面で風を切る向きを作って帯を変え、カムロは辛粉が溜まりやすい地形の“低い溝”を鞘先で示す。粉は帯に乗らず、流れは自分で遠回りを選び、押しは別方向へ逃げた。

 詰所から木札が回り、「辛粉、別手。城前で押さえたものと系統違い。模倣のおそれ」とある。俺は薄板に『辛粉=別手/模倣注意』と記し、面目返の文例に「申立は後で、今は道」を一行、欄外へ書き足す。

 陽は傾きはじめ、屋根の陰は長く、石畳の熱は浅く引き、祭礼の喧噪は高いまま少しだけ疲れの色を帯びる。疲れは短気と同義だ。押しは軽く育つ。俺は白を胸の高さで細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)をもう一度、背骨へ差し込むように並べ直す。

 その時、小さな悲鳴。露店の奥、積み荷の隙間から子どもの手が伸び、箱の下に足を挟んだらしい影が見えた。周りの大人が慌てて押し、押しは押しを呼ぶ。術は最後、しかし半拍もない。俺は硬化を掌へ短く落とし、箱の側板と地の間に“支えの面”を一拍だけ作る。箱が自分で沈み止まり、子の足が抜ける余地が生まれ、エリオが角から手を差し入れ、母親が子を抱き上げる。第三者にも「持ち上がった」が見える。すぐ解く。未使用は未練にしない。

 礼が短く置かれ、周囲の呼吸が戻る。ローザリアは木札の裏の糸を指で確かめ、俺に小さく目で問う。「——戻る道、見えている?」俺は白の高さを示して頷く。「見えてる。白は細く、声は短、手は少。退路は先に置いてある」

 夕刻前、南筋の喉はあと二つ。詰所の記録官が板札を掲げ、「**例(れい)**は十分。最後の二つは“真似される型”に徹しろ。君らがいなくても流れる形に」と短く告げる。俺は白墨の角を指で丸め、図譜の余白に『真似型=白細・声短・手少・礼短・退路先』と走り書きする。

 甘い香がふたたび帯を上げ、屋台の煙が斜めに走り、王都全体が夜の準備に息を整え始めた。俺たちは最後の二つの喉へ足を移し、紙→声→退路→術(最後)をもう一度だけ胸の奥で噛み直し、見える正しさを増やす“例”を置くために、白を胸の高さで細く掲げた。


 南筋の最後の二つは、布市場の丁字路と小演舞台の脇道だ。夕気はまだ浅いが、香は再び帯を上げ、油と砂糖と香草の層が喉の内側に膜を作る。言葉は絡みやすく、押しは育ちやすい。俺は白を胸の高さで細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を背骨に沿わせて並べ直す。

 布市場の丁字路は、幟と反物が風で鳴り、色の波が視界を満たして進行方向の判断を奪う。視覚が奪われる時は、音と指で“骨”を見せる。顎で“口”を二本描き、ローザリアに左の喉の主導を視線で託す。

 「——灯は先、銭は胸、歩は縁」彼女は木札を喉元に当て、面目返の文を三段で低短に置き、手のひらで通路の筋をなぞって「ここがあなたの面目の位置」を誰の目にも見える形にする。

 サーシャが低く二打で“落ち着け”を作り、ミロは盾の面を半寸寝かせて“押さずに壁”を敷き、カムロは鞘の口で光を落として「ここは痛い」を床に示し、エリオは肩で楔を作って角を丸める。

 その時、派手な外套の男が人波を裂いて突っ切り、腰包の紐を狙う手つきの影が一瞬だけ混じった。声で追えば押しが跳ねる。紙と声で先に面目を用意する。

 「——失くし物は詰所、手柄は名で返す」俺は白を低く、細く掲げ、名指しを避けて“返し口”を顎で示す。ローザリアは「礼は短」を添える。影は視線の束を浴びて自分で離れ、詰所の兵の目が自然にそちらへ滑る。

 押しが一段落ちた矢先、反物の高櫓から緩んだ綱が垂れ、布の束が枝垂れかけた。紙と声だけでは半拍足りない。俺は重心落としを綱の脇へ半拍、薄く短く置き、束の重みを一息“留める”。第三者にも布の揺れが沈むのが見えるよう、ほつれた端がわずかに円を描いて動きを失う。係が駆け上がり、結びを直す。すぐ解く。未使用は未練にしない。

 布市場を抜けると、飴の屋台の前で子どもが列を割り、母親の声が帯を上げかけた。リィナが蜂蜜水を一滴、喉へ落とし、ローザリアは「——先は幼、次は礼」と短く置く。見物人の目が柔らかくなり、列は自分で口を思い出す。

 最後の喉、小演舞台の脇道は危うい。舞台袖から小団の太鼓が乱れ、若い連中の“やってやる”が角を尖らせている。赤い房こそ見えないが、「面目を潰して気持ちよくなる手」は形を変えてどこにでも現れる。

 俺は白を胸で長く保ち、顎で“口”を深く描き、段取り表を欄外に写した『真似型=白細・声短・手少・礼短・退路先』を胸の裏で指さし確認する。今日は「例(れい)」を置く任だ。俺たちが去っても流れる型を残す。

 まず紙——通路の“口”を二本、白で示す。次に声——ローザリアが三語だけを置く。「——打は奥、道は縁、語短」。太鼓方は“場所が与えられた”面目を受け取り、奥へ寄る。

 ミロは盾で“壇の面”を作り、サーシャは低く一打で“ここ”を示し、カムロは鞘の口で床を柔らかく一打、エリオは楔で角を丸める。リィナは香の層を読み、「香強」の印に×を重ねて手話の比率を上げるよう俺の手首を軽く叩く。

 そこへ、幕の合わせ目で金具の擦れる乾いた音。綱の抜きかけ。昨日の城前に似た気配だが、ここは詰所の眼が薄い。追えば押しが跳ねる。面目は先に返す。

ローザリアは木札を伏せ、名指しを避けて約束文を置く。「——壇は角へ、刻限半刻、語は短。今、結び目に触れない」

 同時に俺は硬化を綱の節へ半拍だけ置き、ほどけかけの芯を“鈍い骨”へ変える。第三者にも効きが見えるよう、節の上の埃が円で止まる。すぐ解く。係が滑り込んで手早く結び直し、舞台の裏は静かに安堵の息を吐く。

 押しの芽は未然で摘み、喉は太く保たれた。太鼓は場所を得て音を短くし、踊り子は縁に礼を向け、見物は「上手く収めた」と目で納得する。俺は白を胸で長く保ちながら、指の合図で「礼は短」を繰り返し、列の呼吸を整えた。

 合間、ローザリアがそっと袖を引く。木札の裏の糸を指でなで、「——戻る道、ここにも縫えている?」と帯を低くする。

 「縫えてる。白は細く、声は短く、手は少なく。退路は先に」俺は即答し、白墨の角を指の腹で丸め直す。彼女の目に小さな光が宿り、護衛は距離を保って視線で周囲の角を掃く。

 詰所から板札が回る。「南筋、例(れい)成立。学生補助、離脱後の維持を確認したい。三十数えで撤収→影見」——俺たちは互いに頷き、白をわずかに下げて“自分たちが抜けても流れるか”を数息で見守る。

 三十。喉は自分で細さを保ち、礼は短く、音は低く、面は押さずに壁、楔は角、太鼓は奥。——流れている。

 俺は白を胸でいったん落とし、図譜に『丁字路=灯先/銭胸/縁歩』『演舞脇=壇角/刻限/語短/結び警戒』と書き足し、欄外へ小さく『未使用は未練にしない』をもう一度、描き込む。

 陽は屋根の端で柔らかく赤みを帯び、香は深く、油は軽く、街は夜の姿勢へ骨を組み替え始める。詰所の記録官が最後の板札を掲げ、「城前へ戻り。祭礼の最終礼、喉二本の維持」と指示を短く置く。

 戻りの途上、菓子屋の前で幼子が転び、飴の棒が石で割れた。泣き声は押しの芽だ。エリオが肩で楔を作り、リィナが蜂蜜水を一滴、ローザリアが「——礼は短」を添えて新しい棒を買わせ、俺は白で「退路」を指で示す。些末だが、こういう例こそ真似される。

 王城前の旗が夕風に深く鳴り、灯の蜂蜜色が濃くなる。最終礼の喉は二本。面目は立ちやすく、同じだけ折れやすい。俺は白を胸で細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を胸の裏で噛み直す。

 ローザリアは木札を胸に当て、祈り文の縫い目を指で確かめる。サーシャは弦を低く、ミロは面を浅く、カムロは鞘口を半寸、エリオは楔の角を肩で、リィナは匂い表の「香強」に二重線。

 「——礼先、語短、歩合わせ」彼女の帯に合わせて、俺は顎で“口”を描く。

 最終の喉へ、俺たちは無言で歩を揃えた。

 今日置いた「例」が、明日の誰かの骨へと変わるのを確かめるために。


 王城前へ戻ると、夕風は蜂蜜色の灯を揺らし、旗は深い布鳴りで空気を押し、香は香強の帯を維持したまま一段と甘く重くなっていた。俺は白を胸の高さで細く、長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を背骨に沿わせて並べ直す。

 最終礼のための“喉”は二本。噴水左の細道と、門楼下の短い石段だ。どちらも人が「最後に見たい」を持って集まり、礼が長くなり、面目は立ちやすく同時に折れやすい。

 まず噴水左。反射する灯が水面に線を作り、子どもが手を伸ばし、親が袖を掴む。視線は上に引かれて足もとは空になる。俺は顎で“口”を二本描き、ローザリアへ左の喉の主導を視線で託す。

 「——礼は短、足は縁、語は後」彼女は木札を喉元に当て、面目返の文を三段で低短に置く。指先で“縁”をなぞって誰の目にも道筋を見せ、見物の呼吸が一斉に落ちる。

 サーシャが低く二打で“落ち着け”を作り、ミロは盾の面を半寸寝かせ、カムロは鞘の口で光を落として「ここは痛い」を床に示し、エリオは肩で楔を作って角を丸める。

 香具の列が噴水の縁を回る瞬間、香炉の鎖が一つだけ短く鳴って傾ぎ、炭の赤が水面に映って揺れ、子どもの歓声が帯を上げかけた。紙と声では半拍足りない。俺は重心落としを香炉の下へ半拍、薄く短く置く。

 鎖の揺れは自分で沈み、炭の赤は水に落ちず、第三者にも「安定した」が見える形でおさまる。俺はすぐ解き、掌の痺れを握り潰して白を細く戻す。未使用は未練にしない。

 列の最後尾が抜けると、噴水左の帯は細いまま保たれ、礼は短く、子どもの笑いは小さく丸い。——一本目、維持。

 門楼下へ移る。短い石段は音がよく響き、言葉は長くなりやすい。上からは最終礼の光景がよく見え、下からは“もう一目”が募る。押しは育ちやすい地点だ。

 俺は白を胸で長く保ち、顎で“口”を描き、段差の角に目を走らせる。石の目地は浅いが、湿りが残る。滑りの芽はある。紙——麻布を係から借り、最上段の角へ一枚敷く。

 「——上は礼、下は待、歩合わせ」ローザリアが帯を置く。声は蜂蜜を落とすみたいに短く、冷たい。

 その時、門楼脇の布の合わせ目で柔い擦過音。赤房ではない、色のない布だが、結び目に触る手の角度は昨日と同じ匂い。面目を潰して気持ちよくなる手——“滞らせ”。

 追わない。名指ししない。面目は先に返す。ローザリアは木札を伏せ、約束文を低短に置く。「——壇は角、刻限四半、語短。今は結びに触れない」

 同時に俺は硬化を結び目の芯へ半拍だけ置き、ほぐれかけた芯を“鈍い骨”に変えて第三者にも効きが見えるよう埃の粒が円で止まる形を作る。すぐ解く。詰所の兵が視線で拾い、影は一度で退く。

 石段の中ほど、老いた楽師が足を止めかけた。肩で息をし、楽器箱の重みに膝が揺れる。押しは「助けたい」の群れで育つ。紙と声を先に。

 「——礼は短、手は少。道はこちら」俺は白で老楽師の“退路”を顎で描き、エリオが楔で脇道の角を作り、ミロが面で押さずに壁、サーシャが低く一打、リィナが蜂蜜水を一滴。楽師は自分で足を再開し、列は太さを失わない。

 夕鐘が三つ。最終礼の合図。王城の旗が深く垂れ、広場の帯が揃い、声は短く、手は少なく、礼は同じ高さになる。

 俺は白を胸の高さで細く掲げ、顎で二本の“喉”の出口を示す。ローザリアの帯は最小になる。「——礼は今、道は後」。

 祈りの言葉が短く落ち、広場は自分で息を吐く。押しは育たない。喉は二本とも切れずに通る。面は押さずに壁。楔は角。音は低く、確か。

 詰所の板札が掲げられた。「学生補助 本日の任 完了。記録官へ三件報告:香炉傾き/布綱/幕合わせ」

 俺たちは白を下ろし、図譜に三行を縫い記す。『香炉=重心落とし半拍/布綱=重心落とし半拍/幕合わせ=硬化半拍+約束文』。欄外に小さくもう一度、『未使用は未練にしない』。

 広場の灯が一つずつ濃くなり、人の声は高いところから低いところへゆっくり降りてゆく。見物は散り、露店は片付けに切り替わり、巡回の兵は面の角度を浅くする。

 ローザリアが木札を胸に当て、縫い目を指で確かめる。横顔は灯の蜂蜜色を受けて静かに光り、瞳は朝よりも深い色だ。

 「——選ぶのですね、ライナー。責任のある自由を」

 「ああ。紙→声→退路→術(最後)。戻る道を先に縫ってから、選ぶ」俺は胸袋から白墨の欠片を取り出し、角を指の腹で丸める。

 彼女は細い白糸を巾着から出し、俺の掌へそっと乗せる。「白と糸、忘れないで。——わたくしの面目返は、いつでもあなたの退路を縫えるように」

 言葉は短いのに、胸の奥で長く響く。俺は頷き、白と糸を入れ替えるように掌で受け取る。

 ミロが盾の縁で俺の肘を軽く叩く。「例(れい)は置けた。明日、君らがいなくても流れる」

 サーシャは弦を指で撫で、「見える正しさが増えた」と目だけで笑い、カムロは「手は少なかった」と親指を立て、エリオは「楔は角だった」と肩を回し、リィナは匂い表の末尾に『祭礼/完』の印をつけて、蜂蜜水の栓を柔らかく閉めた。

 俺は木剣の柄に触れて、祖父の声を胸の裏で繰り返す。(打つより先に間を見ろ。相手の面目を折るな。勝ちは、相手の道が残る勝ちであれ)

 詰所で監督印を受け取り、簡潔な口頭報告を済ませる。記録官は羽根ペンを置いて言う。「学生補助、合格。明日からは“模範喉”の巡回図を城壁に貼る」

 扉を出ると、夜の王都は昼とは別の骨を見せていた。灯の列が新しい“喉”になり、影は別の“角”を作る。俺は白を胸の位置で一度だけ掲げてから落とし、図譜を閉じる。

 「——お疲れさま」ローザリアが短く言い、護衛のOKが出たのを見計らって、ほんの一瞬だけ俺の袖をつまむ。

 「ありがとう」俺も短く返す。

 寮への道すがら、風はパン窯の甘い残り香を運び、石畳は一日の熱を少しだけ手放し、空には薄い月がかかった。

 (惹かれている、では足りない。選ぶ。選んだなら、骨にする。——紙→声→退路→術(最後)。未使用は未練にしない。面目は先に返す。白は細く、手は少なく)

 明日の授業は学内の模擬戦だ。街で覚えた“見える正しさ”を、剣の間合いへ移し替える番が来る。

 俺は胸の中の白糸を指で確かめ、数息観を十までたどる。吸う、止める、吐く。

 祭礼の一日は終わった。——けれど、自由へ伸びる俺の手順は、今ようやく始まったばかりだ。


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