第3話 小さき日常の煌めき

 エーデルワイス邸の朝は、貴族の誇りと格式を映す鏡のようだった。

 長い回廊を行き交う使用人たちは一糸乱れぬ動きで床を磨き、窓を開け放ち、庭の花々に水をやっていた。足音は石畳に規則正しく響き、声は抑えられ、秩序が支配していた。


 そんな屋敷の一角、まだ六歳の俺――ライナーは、母に連れられて日常の「見回り」に出ていた。

 母は、家族だけでなく使用人たちとの関わり方もまた学びの一部だと考えていたのだ。


「ライナー、よく覚えておきなさい。この屋敷が清らかに保たれているのは、彼らが心を尽くして働いてくれているから。感謝の心を忘れてはいけません」


「はい、母上」


 母の声は柔らかく、それでいて凛としていた。

 俺が廊下を歩くと、使用人たちは一斉に膝を折り、恭しく頭を下げた。


「おはようございます、若様」


 まだ小さな俺に向けられるその声には、畏敬と親しみの両方が混ざっていた。前世で「道場の小さな子」として扱われた頃の記憶がよみがえり、少しだけむず痒い気持ちになった。


「おはようございます」


 母に教えられた通りに返すと、彼らの顔にわずかな笑みが浮かぶ。

 それだけで胸が温かくなった。


 昼下がり、庭の噴水のそばで一息ついていると、使用人の子供たちが遊んでいるのが見えた。年の近い少年少女たちが、鬼ごっこをして走り回っている。

 俺の姿を見つけると、一瞬立ち止まり、互いに顔を見合わせた。


「若様……?」


 ためらいがちに、少女が声をかけてきた。手は泥で汚れ、頬には汗が光っている。


「一緒に、遊びませんか?」


 その言葉に胸が跳ねた。貴族の子弟として、彼らと同じように遊ぶことは本来ならあり得ない。だが俺は、前世で友人たちと竹刀を振り合った日々を思い出していた。


「……いいのか?」


「もちろんです!」


 少女が笑顔を見せると、他の子供たちも次々に頷いた。

 気づけば俺は靴を脱ぎ捨て、彼らの輪に加わっていた。


 鬼ごっこは単純だが、全力で走れば息が切れる。

 芝生を駆け、噴水の周りを回り込み、笑い声が庭いっぱいに広がった。

 前世では味わえなかった「無邪気な遊び」が、今は何よりも楽しかった。


 転んで膝を擦りむいた子が泣き出すと、俺は慌てて駆け寄り、手を差し伸べた。


「大丈夫か?」


 ハンカチで血を拭いながら声をかけると、その子はぐすりと涙を拭き、笑顔を見せた。


「ありがとう、若様」


 その瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。剣を握るときに燃える炎とは違う、優しさのようなもの。

 母が言った「人を思いやる心」。その意味が少しだけ理解できた気がした。

 庭で子供たちと遊んだ後、汗に濡れた体を拭きながら、俺はふと彼らの暮らしに興味を覚えた。

 同じ屋敷に住んでいても、彼らと俺とでは見えている景色が違うはずだ。


「なあ、君たち。普段はどんな仕事をしているんだ?」


 唐突な問いに、子供たちは一瞬目を丸くした。貴族の子供からそう尋ねられるとは思っていなかったのだろう。やがて、一人の少年が恐る恐る口を開いた。


「僕は馬小屋の掃除を手伝ってます。朝早くから糞を片づけて、干し草を入れ替えて……それから馬の水桶を洗って」


 言葉を続けるうちに、彼の顔は生き生きと輝いた。

「父さんは厩番で、すごく馬のことを知ってるんです。僕も早く、父さんみたいに馬を扱えるようになりたいんだ!」


 その瞳の輝きに、俺は思わず頷いた。前世で剣に打ち込んでいた自分と、どこか重なるものを感じたのだ。


 別の少女は、小さな手を広げて見せた。


「私は洗濯場でお母さんを手伝ってます。大きな桶で服を洗うの、大変だけど……干した服が風に揺れると、すごくきれいなんです」


 無邪気な笑顔がまぶしかった。

 俺はその光景を頭に描き、少し羨ましく思った。自分には決して経験できない日常。貴族として守られる側にいる俺には、彼らが背負う労働の重みが遠い世界に思えた。


 そんな中、一番年下の少年が小声で呟いた。


「でも……冬はつらいんです。手がかじかんで、桶の水が氷みたいに冷たくて」


 他の子供たちが慌てて彼の口を塞いだ。

「こら、そんなこと言うな!」

 叱る声に、俺は胸がざわめいた。


「いや、いいんだ。教えてくれてありがとう」


 そう言うと、子供たちは驚いた顔をして俺を見た。

 きっと“貴族の子供に愚痴をこぼすなどもってのほか”と教えられてきたのだろう。


(そうか……彼らには彼らの苦労がある。俺が当たり前に与えられているものは、彼らにとっては努力の果てにようやく手に入るものなんだ)


 胸の奥に重たいものが沈んだ。同時に、それを知れたことが嬉しくもあった。


 その時、背後から声が飛んだ。


「ライナー!」


 振り返ると、姉クラリッサが立っていた。

 扇子を片手に、厳しい視線を俺に向けている。


「庶民の子らと泥まみれになって……あなた、何をしているの?」


 子供たちは一斉に頭を垂れ、震える声で「申し訳ありません」と謝った。

 俺は慌てて前に出た。


「姉上、彼らに謝らせないで。僕が遊びたくてお願いしたんだ」


 クラリッサは眉を寄せたまま、じっと俺を見つめた。

 やがて、扇子を閉じてため息をついた。


「……あなたは本当に変わっているわね、ライナー。でも、その優しさを失ってはいけないわ。貴族が庶民と違うのは、立場や力だけじゃない。“導く心”があるかどうか。それを忘れないで」


 厳しい声の中に、わずかな温もりがあった。


(導く心……か。俺は彼らのようには働けない。でも、もし強くなれたら――彼らを守れる存在になれるのかもしれない)


 胸の奥に新たな決意が芽生えた瞬間だった。


 その日の午後、母に連れられて厨房を訪れることになった。

 屋敷の心臓部ともいえるそこでは、十人近い料理人や女中が慌ただしく動き回っていた。

 鉄鍋で肉を焼く音、香草を刻む匂い、パンを窯に入れる熱気。すべてが渾然一体となり、外の世界とは別の熱を帯びていた。


「ライナー、今日は厨房の働きを見学してごらんなさい。彼らがどうやって家を支えているか、知るのも大事なことです」


 母の言葉に頷き、俺は足を踏み入れた。

 料理人たちは驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げ、仕事に戻った。


 ひとりの年配の女中が、大きな桶の中で野菜を洗っていた。

 俺が近づくと、彼女はにっこりと笑った。


「若様のお口に入るスープも、こうしてひとつひとつ手で洗うところから始まるのですよ」


 皺だらけの手が水をすくい、泥を落とす。

 その手には長年の労苦が刻まれていた。


「指が赤くなってる……痛くないの?」


 思わず尋ねると、彼女は首を振って笑った。


「痛みよりも、若様が元気に食べてくださることのほうが嬉しいのです」


 その言葉に胸が熱くなった。

 俺が食卓で何気なく口にしていたスープの一杯には、こんな思いが込められていたのだ。


 奥では若い料理人が汗を拭いながらパン生地を捏ねていた。

 額に白い粉を付けたまま必死に生地を押し、折り、また押す。


「こんなふうに毎日?」


 問いかけると、彼は手を止めずに答えた。


「はい。パンは毎日欠かせませんから。生地を仕込み、焼き上げるのは骨が折れますが……若様方が笑顔で食べてくださるのを見ると、不思議と疲れも消えます」


 その瞳は真っ直ぐで、誇りに満ちていた。


 さらに奥、火の前では別の料理人が鍋をかき混ぜていた。

 炎が揺れ、熱気が肌を刺す。

 彼は俺を見ると額の汗を拭い、軽く笑った。


「若様は剣を振られるそうですね。私どもは剣は扱えませんが、この鍋ひとつで家を守っている気持ちです。食が絶えれば、人は戦う力も保てませんから」


 言葉は謙遜していたが、その背中は堂々としていた。


(剣で人を守る者もいれば、食で人を守る者もいる……どちらも欠かせない。俺は今まで、力ばかりを求めていた。でも本当は、誰もが自分の場所で戦っているんだ)


 心に深く刻まれた。


 見学を終えて母と廊下を歩いていると、使用人の子供たちが皿を運んでいるのに出くわした。大きな銀の皿を抱え、必死に歩いている。

 そのひとりが石畳に足を取られ、皿が大きく傾いた。


「危ない!」


 思わず駆け寄って手を伸ばした。皿は辛うじて俺の腕に受け止められ、床に落ちることはなかった。

 子供は蒼白になって震えていた。


「ご、ごめんなさい、若様! もし割れていたら……」


 涙声に、俺は首を振った。


「大丈夫だ。誰だって失敗はする。気にするな」


 皿を抱え直して差し出すと、子供は呆けた顔をして俺を見つめ、やがて涙をこらえて笑った。


「ありがとうございます……!」


 母はその様子を見て、柔らかく微笑んだ。


「ライナー、あなたは人の心を軽くする力を持っているのね」


 その言葉に、胸が熱くなった。

(剣で強くなるだけじゃ足りない。人を守る力、心を救う力も必要なんだ)


 心の奥で、強い思いが芽生えていた。


 夕刻、庭は一日の熱気をゆっくり冷ましつつあった。

 西の空は茜色に染まり、噴水の水面が黄金にきらめく。庭師が花壇の水やりを終え、鳥たちが巣に帰っていく。屋敷の中では晩餐の支度が進められているが、庭にはまだ子供たちの笑い声が響いていた。


 俺はそっと芝生に近づき、輪になって座る彼らを覗き込んだ。

 今日は鬼ごっこではなく、歌遊びをしているようだった。年長の少女が手を叩きながら調子を取り、他の子供たちが順に歌を繋げていく。


「赤い花の咲く丘で 羊飼いが歌をうたう~♪」

「青い空を渡る鳥 明日は遠くへ飛んでいく~♪」


 素朴な旋律だったが、胸の奥に沁みるような温かさがあった。

 前世では稽古や試合に追われ、こうした遊び歌に触れることはなかった。歌の中に流れる庶民の暮らし――花や羊や鳥と共にある日々。その一端を垣間見た気がして、思わず聞き入ってしまった。


 歌が終わると、年少の子供が俺に気づいた。


「あっ、若様もやってみますか?」


 突然の誘いに周囲がざわついた。

「そんな……若様に庶民の遊びを……」と躊躇する声もあった。だが、俺は笑って輪の中に腰を下ろした。


「ぜひ教えてくれ。俺はこういうの、知らないから」


 子供たちの目がぱっと輝いた。

 最初はぎこちなかったが、手拍子のリズムに合わせて歌詞を覚え、声を重ねていく。

 やがて俺の声も輪の中に溶け込み、皆の笑顔と笑い声が混ざり合った。


 ひとしきり歌った後、年長の少年が得意げに小石を取り出した。


「今度はこれです! 石投げ遊び!」


 彼が芝生に石を並べ、指で弾いては跳ね飛ばす。単純な遊びだが、狙いを定めて力を調整しなければうまくいかない。


「若様、やってみますか?」


「うん、任せろ」


 石を指で弾いた瞬間、竹刀を握ったときの感覚がよみがえった。狙いを定め、力を正確に伝える。小石は的の石を見事に弾き飛ばした。


「すごい!」

「若様、上手い!」


 歓声が上がり、俺は思わず笑みをこぼした。剣の稽古では得られない種類の達成感があった。

 庶民の遊びは単純だが、そこには工夫や知恵、そして仲間との一体感があった。


 遊びの後、年少の少女が俺に小さな花冠を差し出した。


「若様に……」


 不格好で、花もまばらな冠だった。だがその瞳は真剣で、差し出す手は震えていた。


「ありがとう」


 受け取って頭に載せると、子供たちが一斉に笑顔を見せた。

 その瞬間、胸に温かいものが込み上げた。


(俺の世界は、もっと狭いものだと思っていた。でも違う。剣や魔術だけじゃない。歌も遊びも、こうして人と心を通わせることも、俺を強くするんだ)


 夕焼けに照らされた庭で、そう実感した。


 その夜、晩餐が終わった後。

 暖炉の炎が揺らめく居間に、母と二人きりで座っていた。窓の外では風が木々を揺らし、虫の声が小さく聞こえている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った屋敷は、広すぎるほどの静寂に包まれていた。


 母は刺繍をしていたが、やがて手を止め、俺に視線を向けた。

「ライナー。今日はたくさん遊んだと聞いたわね」


「はい。使用人の子供たちと……歌も、遊びも教えてもらいました」


 思い出すだけで頬が熱くなった。泥にまみれ、花冠を被って笑っていた自分は、貴族の子供としてはあまりにも無作法に思える。だが母は眉をひそめることなく、優しく微笑んだ。


「いいことです。身分に関わらず、人と心を通わせるのは尊いこと。ですが、覚えておきなさい。貴族は庶民と同じではいられません」


「……どういうことですか?」


 母は糸を指に絡めながら、静かに言葉を紡いだ。


「庶民は汗を流して生きています。彼らにとって働くことは日常であり、誇りでもあるわ。でも貴族は立場が違う。力を持ち、導く責任がある。もし同じように遊び、同じように笑うだけなら、彼らにとっての“よりどころ”はなくなってしまうの」


 俺は思わず拳を握った。

「じゃあ……俺は彼らと遊んじゃいけないんですか?」


 母は首を振り、そっと俺の手に触れた。


「いいえ。あなたが今日感じた喜びは大切なもの。でも、それを胸に抱きながら、彼らを守る存在でいなければならないのです。貴族は高みに立つためではなく、人々を支えるためにいるのだから」


 その言葉は、重みがあった。剣で人を守るだけでは足りない。庶民の心を思いやることこそ、貴族としての在り方だと教えられた気がした。


 暖炉の炎が静かに爆ぜる。

 俺は膝の上で小さな手を固く握りしめた。


(剣で強くなるだけじゃない。魔術でも、心でも強くなる。そしていつか、この屋敷の人々を、庶民を……みんなを守れる存在になるんだ)


 胸の奥に燃える炎は、今日一日で確かに大きくなっていた。

 自由に生きたい――その願いは、責任を果たしてこそ叶うのだと、幼いながらに理解したのだった。

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