未来を知る僕と、感情を探す君

ヤナギハラマイ

第1話 揺らぎの始まり

朝の教室


「おい相川! 購買、今日からコロッケパン増量だってよ!」


 朝の教室に飛び込んでくるなり、小田切翔

 後ろのドアを乱暴に閉めたせいで、クラス全体が一瞬振り返る。その視線をものともせず、翔はそのまま僕の席にずかずか歩み寄ってきた。


「……お前、朝から油ものの話やめろよ」

「いやいや、青春は油と糖分でできてんの! 常識だろ?」

「誰のだよ、その常識」


 突っ込みながらも、思わず笑ってしまう。翔の声はでかいけど、不思議と耳障りじゃない。明るさが空気を変えるからだろう。


「でさ、今日の昼休み。屋上で食わね?」

「……弁当あるし、教室でいいよ」

「またそれ? せっかくの春なのに、屋上デビューもしねえでどうすんの」

「別に。静かに食えればどこでもいい」


 翔は「ったく」と肩をすくめた。

 その後すぐに、別の友達の輪へ歩いていく。彼の背中を見ながら、胸の奥で小さなざわめきが生まれる。


(……明日、あいつ休むんじゃないか?)


 布団に潜り込んで咳をしている翔の姿が、突拍子もなく浮かんだ。

 根拠なんてない。ただ、妙に鮮やかで、笑って振り払えない。



体育館にて


「相川ー! 次の試合、真ん中入れよ!」

「え、無理だって! 俺走れねえし!」

「走れ! 男だろ!」


 翔の無茶ぶりはいつも通りだ。

 体育館の床は眩しいくらい光っていて、シューズの音が反響する。今日の授業はバスケットボール。僕はこういう球技が苦手だった。


 試合が始まる。

 翔は声を張り上げ、クラスの中心でボールを追う。僕はといえば、ただボールの動きを目で追っているだけだった。


 そのとき。


 相手の手で弾かれたボールが、床に激しく当たり、軌道を変える。


(……ここに来る)


 考えるより先に足が動いた。

 次の瞬間、ボールは僕の手の中に収まっていた。


「ナイス!」

「おお、相川やるじゃん!」


 翔が笑い、クラスの数人が声を上げる。

 僕は無言でパスを返した。胸の奥で心臓が早鐘を打っていた。


(偶然……だよな?)


 でも、その後も同じことが繰り返された。

 誰かが転びそうになるのが分かる。ボールの跳ね方が先に頭に浮かぶ。

 そのたびに体が勝手に動いてしまい、ゲームが終わるころには膝が重く、呼吸は乱れていた。


「おい相川、顔色やばいぞ。大丈夫か?」

「……うん。ただちょっと疲れただけ」


 水を飲むと冷たさはあるのに、胃のあたりで鉛みたいに残った。



放課後


 夕日が差し込む教室。荷物をまとめていると、背後から声がした。


「……相川くん」


 振り返ると、篠宮彩花が立っていた。

 黒髪を後ろで結び、落ち着いた目をしている。クラスでも浮かず、沈まず、けれど印象に残る存在。


「さっきの体育……反応速かったね」


 彼女は淡々と告げた。褒めているわけでも、詮索しているわけでもない。事実をそのまま並べたような声。


「……偶然だよ」

「そうかもね」


 彩花は小さく笑った。

 その笑みは薄いのに、妙に心に残る。僕は一瞬、返す言葉を失った。



帰り道


「なあ相川、明日さ、メロンパン勝負しようぜ」

「……またパンの話かよ」

「いいだろ? 男の勝負はパンから始まんだよ!」

「くだらねぇ……」


 思わず笑いながら、翔が突き出した拳に、自分の拳を軽く合わせる。

 その音は小さいはずなのに、やけに耳に残った。


 校門を出ると、夕焼けの色が街全体をオレンジに染めていた。

 部活帰りの声が遠くで響き、自転車のブレーキがきゅっと鳴る。道の脇には夕飯の支度の匂いが漂い始め、カレーのスパイスと味噌汁の湯気が入り混じって、どこか懐かしい。


「なあ、相川。もしさ、明日購買でメロンパン買えなかったら、俺んち寄ってカップ焼きそば食おうぜ。親もたぶんいねーし」

「お前んち行ったら、絶対ゲームになるだろ」

「おう。そんで俺が勝つ」

「……いや、負けねぇけど」


 笑いながら歩いているのに、胸の奥は重かった。

 ほんのさっき、くだらない妄想だと思った“予感”が、どうしても消えてくれない。


(なんでだろ……変な想像をしただけのはずなのに)


 オレンジに染まる影の中で、翔はいつもの調子で笑っている。

 けれど僕の中では、明日の教室に彼がいない姿が、ありありと浮かんでしまっていた。

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