第2話 紫苑さんの『旦那様♡宣言』

「おはよ、悠!」


 朝の教室。机につっぷしている俺の背に、柔らかい二つの感触が押し付けられた。ぐにゅうと肉のつぶれる質感に、内心ドキンと心臓は跳ねるが、いつものことなので飛び起きることはない。


 俺は眠い目をこするフリをしながら顔を上げ、平静を装って背後を振り返る。わかっていた通り、後ろから抱き着いていたセミロングヘアのニマニマ顔が、そこにはあったのだった。


「よう! 今日も元気かね?」


 人懐っこい顔を俺にぐぐいっと近づけてきたのは佐倉晴さくらはる。幼稚園からの幼馴染で、昨日の誤爆ラブレターの本来の宛先人だ。モブの俺をかまってくる女生徒は、この晴くらい。小柄で童顔。でも、愛嬌のある顔と凹凸のあるカラダが魅力的な、学園の人気者。間違いなく、美少女の部類に入るだろう。


「眠そうな顔してるね? 夜は早く寝なきゃ色々育たないよ。年頃の男の子だからって、ヘンなことしてないでしょうね?」


 後ろから、ぐいぐいとカラダを押し付けてくる晴。出ているところの主張が激しいので、強烈なインパクトがある。


 俺は、親密な証拠である密着が嬉しいという本心を隠して、ぶっきらぼうに答えた。


「近い! 重い! 暑いから離れろ!」


「えー!? 女の子がスキンシップで挨拶してるのに、それはないんじゃない?」


「そういうことは、好きな男にしろ」


「だからやってるじゃん、いま」


「…………」


 俺は、ジト目で晴を見やった。にへら~と、幼馴染ながら、本心だか嘘だかよくわからない顔。今まで、晴の気持ちを確かめるタイミングというかチャンスが、なかったわけじゃない。でも、いつも決まってそういう真面目な雰囲気は続かない。この親しい関係が壊れるんじゃないかという怖さもあって、好きだという気持ちを言い出せないまま、ふざけ合いの中に霧散していったのだ。


「……本気にするぞ」


 俺は、探りを入れるつもりで、改まって一言発する。と、晴はその主張の激しいカラダを俺から離して、パタパタと手を振ってきた。


「うそうそ。私が悠を男として見るわけないじゃん。悠は、ちゃんと私の幼馴染としての自覚を持ってよね」


「あー、はいはい。幼馴染ね、幼馴染。つーか、お前の言う幼馴染って、一体何?」


「……うーん」


 晴は、そのカラダに似合わない童顔の瞳を宙に泳がせてから、俺に言い放ってきた。


「私が、精神的物理的金銭的に困ったときに、何でも言うことを聞いてくれる便利屋さん、かな?」


「なんだそれ。俺はお前の下僕か?」


「いいじゃん。こんな可愛い子と仲良くできるんだから、お釣りがジャラジャラ出てくるでしょ?」


「自分でいうな」


「えへへ」


 そんな言葉のキャッチボール、というかいつもの漫才をしていると、教室後方の出入り口から爽やかな声が響いてきた。


「おはようございます、みなさん」


 クラスに吹き込む一陣の清涼の風。見やると、黄金比の体格に、黒髪のさらさらロング。濃紺のブレザー制服姿がまばゆいばかりの、とても手が届きそうにない雲上の女神様のような美少女が、教室内にしずしずと入ってきたのだった。


 立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん……と昔は言ったそうだが、まさにいま現実に目にしているのがそのご令嬢。


 暖かい太陽と清らかな水に育てられた、汚れひとつない、純白の花。


 その紫苑さんは、周囲からの返答に丁寧な挨拶を返しながら、俺の脇へ。そしてにっこりと、天使のような笑みを俺に向けて一言、言い放ったのだった。


「おはようございます、如月さん。今日からお付き合い、開始ですね」


「「「え?」」」


 男子も女子も、一斉に俺を見た。


「え、なんで紫苑さん、如月に……」


「お付き合いって……どういうこと……?」


「『姫宮様』の笑顔、何かすげぇまぶしいんだけど……」


 そんな会話が遠巻きに耳に入ってくる中、俺は胸中で叫んでいた。


 昨日の告白、やっぱりマジだったーーーーーーっ!!!!!!


 いや、朝起きて部屋とか家とか何も変わってなくて。登校も普通だったから、もしかしたら俺の勘違いというか妄想だったんじゃないかって……少しだけ思っ……期待してたんだが……。


 ああああああーーーーーーっ!!!!!!


 声にならない叫びをあげるが、問題が解決するわけではない。


「どういう……こと?」


 先ほどまで夫婦漫才をしていた、隣に立っている晴が、キョトンとした様子で俺の顔をのぞきこんできた。


「何で紫苑さんが悠に挨拶するの? いつもはしないよね?」


「いや……。それはだな……」


「お付き合い開始って、イミフなんだけど、どういうこと?」


「…………」


 脂汗を流しながら、無言で顔を伏せる俺。紫苑さんは、そんな様子の俺を気にすることもなく、手をとって「こちらです」と檀上まで。


 そして、縮こまった俺を脇に置き、正面から生徒たちに向けて言い放ったのだった。


「私、紫苑さやかと如月悠さんは、結婚を前提にお付き合いすることになりました。みなさま、よろしくお願いいたします。この方が……私の旦那様です♡」


 はにかみ声で締めた紫苑さんに、クラスは一瞬、時間が止まったように動きを止め、静まり返った。それから悲鳴と怒号がクラスに響き渡る。


「え? え? え……?」


「紫苑さん。それってどういう……こと、ですか?」


「ウソだウソだウソといってくれぇーーーーーーっ!!!!!!」


 地獄のような阿鼻叫喚の中、俺は驚き後ずさって、隣の紫苑さんを見る。両手をそろえて生徒たちに深々とお辞儀。それから、愛情の溢れた表情で俺を見つめてきた。


「これから末永くお願いいたします、旦那様♡」


 いやこれは違うんだと、大騒ぎをしているクラスメイトたちに言いかけて、呆然と立ちすくんでいる晴と視線が合った。


 晴は目を見開いて驚愕顔を硬直させ、石像のようにピクリとも動かない。


 収拾のつかない混乱の渦中、見つめ合う俺たちだったが……。晴は、時間が止まったかのように微動だにしない。

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