雨宿りのベンチ
ヒイロ
第1話
ぽつ、ぽつ、と肩に落ちた雨粒が、あっという間に土砂降りに変わった。
鞄の中を探しても傘はなく、私は公園の東屋へと駆け込む。
そこには、先客がいた。
スーツ姿の男性がベンチに腰かけ、空を見上げている。
「……すみません」
思わず声をかけると、彼は小さく笑って「どうぞ」とベンチの端を空けてくれた。
見知らぬ人と二人きり。
雨音が、沈黙を埋める。
「今日は、ついてないですね」
勇気を出して話しかけると、彼は少し驚いたように顔を向けた。
「本当に。傘を持ってこなかった自分を責めたいです」
その表情はどこか疲れて見えた。
「お仕事帰りですか?」
「ええ。今日は大事なプレゼンだったんですが……正直、あまりうまくいきませんでした」
彼は小さくため息をつき、手にしていた資料の束を鞄にしまう。
「私も似てます。面接に行ったんですけど……全然ダメで」
口にした瞬間、気まずさが込み上げた。けれど、彼は驚いたように目を丸くして、柔らかく笑った。
「なるほど。じゃあ、今日は“負け組同士”の雨宿りですね」
冗談めかしたその言葉に、思わず吹き出した。雨音に紛れて、少し気が楽になる。
「でも、不思議ですね」
彼は雨を眺めながら言った。
「こんなときに限って、普段なら絶対言わないようなことを、口にしてしまう」
「わかります。知らない人だから、余計に話せるのかも」
ふと、彼がこちらを見た。
「あなたなら、大丈夫ですよ。面接なんて数打ちゃ当たる。今日がダメでも、明日はうまくいくかもしれない」
軽い励ましのはずなのに、なぜか胸にじんと響いた。
「あなたこそ。プレゼンがうまくいかなかったとしても、それで全部決まるわけじゃないですよ」
「……そうですね」
彼は少し照れくさそうに笑った。
10分ほどの会話だった。
雨がやんで、雲の切れ間から夕焼けがのぞく。
「そろそろ行きますね」
立ち上がると、彼も同じように腰を上げた。
「お互い、また頑張りましょう」
名前も聞かなかった。ただ、それだけの言葉を残して、二人は別々の道を歩き出した。
数日後。
私は新しい職場のデスクに座っている。
あの日、彼に言われた「大丈夫ですよ」という一言が、面接の緊張を和らげてくれたのだ。
窓の外に夕立が降っていた。ふと、公園の東屋のことを思い出す。
ほんの10分間、見知らぬ人と過ごした時間。
名前も知らない。二度と会うこともないかもしれない。
それでも――。
もしかしたら、またどこかで出会える気がする。
あのときよりも少しだけ前を向いた自分なら、今度はきっと、ちゃんと名前を聞けるだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が温かくなった。
夕立の音が、未来の合図に聞こえた。
雨宿りのベンチ ヒイロ @hiiro4215
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