第5話 SF小説

 近親相姦というのは、昔から、

「忌ななこと」

 ということで、

「禁断」

 と言われている。

 諸説あったり、場所や国によっても、その意味合いが違っているということもあるだろうが、古今東西にわたり、

「いいこと」

 ということであることはないといわれる。

 その中でもよく言われることとして、

「近親相姦によって生まれた子供には、曰くが付きまとう」

 ということで、さらに、

「遺伝する」

 という言い伝えもあることから、近親相姦は、

「忌み嫌われる」

 というのだ。

 しかし、実際に、近親婚というのは、昔からあったことでもあった。

 日本国においての、国家元首として長らく君臨してきた皇室においても、かつては、今であれば、

「近親婚」

 と言われた関係において、婚姻が発生し、子孫をつないできたということもあった。

 ただ、それが、果たして、

「子供に因果が襲ったという謂れがあったかどうかは怪しいところだ」

 ということだ。

 逆に、

「天才児が生まれる」

 という話もあるくらいで、いわゆる、

「都市伝説ではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 特に日本では、

「家を絶やさずに、存続させる」

 ということが、一番大切なことだとされてきた。

 江戸時代などは、

「跡取りがいない」

 ということで、

「お家断絶」

 ということから、

「改易」

 という名の、

「お家断絶」

 ということが行われてきた。

 それによって。形成してきた藩の役人や、民は、路頭に迷うことになる。

 それを考えると、いくら、

「藩の力を弱め、幕府の力を強力なものとする」

 というためとはいえ、実際に、

「浪人があふれる」

 ということから、

「江戸の治安が乱れる」

 という社会問題となったのも事実であった。

 そういう意味でも、

「家督の存続」

 というのは大切なことであり、特に、

「男子出産」

 は、必須事項ということで、

「たとえ近親相姦であっても」

 ということもあったかも知れない。

「それなのに、なぜ、法律でも、そこまで厳しいことになるのか?」

 というのが不思議でならないのであった。

 どこかに理由があるのではと考えると、最初に思いつくのは、

「宗教的な問題からきている」

 といえるのではないだろうか?

 特に、

「血のつながり」

 であったり、

「血にまつわる」

 ということに宗教がかかわっていることは結構あったりする。

 宗教によっては、

「輸血を許さない」

 ということから、注射すら許さないとして、伝染病が流行った時、

「ワクチンも打ってはいけない」

 あるいは、

「戦争などの被害を受けた重傷者であっても、輸血を受けることは許されない」

 ということで、まわりが、輸血を拒否して、そのまま死んでしまうということも普通にあったりするというではないか。

 宗教というのは、世界各国にたくさんある。

 大きなものとして、

「仏教」

「キリスト教」

「イスラム教」

 などとあるが、

「元々は、同じものだった」

 という話がある。

 それなのに、特に、

「キリスト教」

 と

「イスラム教」

 は、確かに一つだったといわれているにも関わらず、太古から、戦争の元になってきているではないか。

「十字軍」

 しかり、

「今の時代での、中東戦争」

 などにおける、

「アラブとイスラエル」

 というような問題などがそうであろう。

 もっとも、昨今の中東戦争の火種を撒いたのは、

「欧州の国」

 による、

「二枚舌外交」

 というものが、その災いの種であったが、へたに、中東では、資源となる、

「石油」

 が出ることによって、その利権をめぐっての争いが、今の時代では、

「ゲリラ」

 などによって、紛争として、絶えず残っているということになるのだった。

 そういう意味で、

「宗教ほど、うさん臭いものはない」

 と考える人もいるだろう。

 特に、新興宗教などは、

「宗教団体」

 ということで、金を貪ったり、国家転覆を狙うための隠れ蓑としている連中もいたりして、許しがたいものであろう。

 今回、長瀬が書こうと思った小説は、そんな

「近親相姦」

 という発想に、

「宗教団体」

 といううさん臭さを交え。さらに、SF的な、

「未来の時代」

 というものを描こうと考えたのだった。

 なかなか、未来というものを考えるのは、正直、難しいものであった。

「SF小説というものに、過去からつながる未来にかけての話」

 というのは、付き物であり、本当は、

「歴史を知らずに、未来のことを書く」

 ということは、

「ご法度だ」

 とすら思っているのであった。

 ただ、

「小説というものは、あくまでも、架空の話」

 つまりは、

「自由な発想が、幅を広げる」

 ということで、

「必ずしも本当のことを書く必要はない」

 というのが、長瀬の発想だった。

 もっといえば、

「本当のことを書かないでいい代わりに、いかにも本当のことであるかのように思わせるだけの書き方が必要になる」

 という考え方だった。

 もちろん、

「嘘をいかにも本当のことのように書くわけではなく、曖昧で分かっていないことを、もっともらしく書く分には問題ない」

 と思っている。

 だからこそ、架空の話として、

「過去であったり、未来の話」

 というのは、そもそもが曖昧なのだから、

「うまく書くことができる」

 といってもいいだろう。

 しかし、長瀬の場合は、

「歴史に対して造詣が深い」

 ときている。

 だから、真実と思えることも分かっているので、それを、

「いかに曖昧に、そして本当のことのように書けるか」

 ということだ。

 本当のことを本当に書くのではなく、

「はっきりと分かっていないことだ」

 ということを匂わせながら、

「まるで本当のことのように思える」

 という言い方と、

「そこに信憑性を抱かせるだけの考えを植え付けるという手法を使いこなせるか?」

 ということが、

「小説家」

 ということで、

「プロであろうが、アマチュアであろうが関係ない」

 ということであった。

「プロかどうか?」

 というのは、あくまでも、

「本が売れるかどうか?」

 ということであり、

「本が売れるのは、あくまでも、その時のブームにのっとっているか?」

 ということであったり、

「その時の大衆に受け入れられるか?」

 というだけのことで、

「ブーム」

 というのは、数十年もすれば、すたれてしまうものだ。

 もちろん、それが本物であれば、またしばらくすると、またブームになったりするもので、それは、よくわからない。

 分からないからこそ、

「未来」

 というものなのだろう。

 過去のことでもそうである。

「過去の人が、必ず、正しいことを書いている」

 と限らないし、

「現代の人が、過去のことを、本当に正しくその時代の人に伝えるとは限らない」

 というのは、

「その時代時代において、その時の政権や。元首にとって都合のいいように、改ざんする」

 というのは、当たり前のことである。

 特に、

「豊臣の時代から、徳川になった時」

 あるいは、

「徳川幕府から、明治政府に変わった時」

 というのは、

「それ以前の政権を擁護するような書物であったり、言い伝えというものは、抹消されたりする」

 というものである。

 だから、徳川になった時、

「豊臣にまつわるものはすべて焼却されたり、大名も取り潰しにあったりなどということが起こったりした」

 さらには、

「徳川から、江戸時代になった時、そもそも、武家政権で、幕府を作ってきたのが、源氏ということで、源氏に対しては、いいことが言われてきたが、平家に対しては、あまりよくは言われていなかった」

 だから、平家筋である織田信長が、徳川時代にはあまりよく言われていなかったが、

「明治時代になってからは、見直されるようになったりした」

 ということである。

 そもそも、明治政府が、徹底的に倒幕を行ったのも、

「政権交代の時、反乱分子となりかねないものを徹底的に排除する」

 ということからの考えであった。

 そういう意味で、今では、

「武力による政権交代というのは、日本ではありえない」

 ということであるが、実際に、クーデターなどが起これば、新しく起こした政権は、前の政権を徹底的に破壊し、

「まるで、この世に存在していなかったか」

 のような形にすることは必定であった。

 だから、

「過去というものを、政府がいかに伝えるか?」

 ということで、教育などは特に、

「どこまでが正しいというのか?」

 ということである。

 今の時代であれば、そこまでひどいことはないだろうが、へたをして、

「過去の歴史が変わることで、政権運営ができない」

 などという大発見があれば、政府はきっと、死に物狂いで、誰にも分からないように、策を弄するに違いない。

 それを考えると、

「過去のことが分かった」

 といって、学校で習う歴史が本当のことなのかどうか、怪しいといえるかも知れない」

 ただ、実際に、

「過去言われてきたことが間違いだった」

 ということは、今普通に起こっている。

 というのは、

「政治的な打算」

 ということではなく、あくまでも、

「考古学研究」

 というものによる、

「発掘の成果だ」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「未来において、今の状況を把握できような装置ができていれば。それが正しいのか間違いなのか、証明してくれることであろう」

 昔見た映画で、確か、クーデターの話だったと思うが、クーデターに失敗した青年将校が、自分が連れ出し、反乱軍としてしまった部下を原隊に返す時のこと、

「歴史が答えを出してくれる」

 といっているが、

「果たしてどうなのだろう?」

 と感じた。

「どうせ、鎮圧を行った方が、反乱軍が間違っている」

 という歴史を吹聴するに違いないからである。

「歴史というものが、勝者によって変わってくる」

 ということは、今に始まったことではない。

 どの時代にもあることで、

「勝てば官軍」

 とは、よく言ったものだ。

 だから、

「歴史というものが、正しいのか、間違っているのか?」

 という答えを見つけるとすれば、それは、

「世界が終わった時でしか分からない」

 ということであり、それを考えると、

「世界が終わっても、次の世界に続く」

 ということで、その時生き残った人だけが、答えを知っているということになるのかも知れない。

 いや、もう一つの考え方として、

「世界が終わるということは、人類がすべて死滅した」

 ということになるのだろう。

 ただ、これは、

「人類の世界」

 ということで、他の動物が人間に代わって。君臨するという場合も、

「世界の終わり」

 といってもいい。

 ということは、

「誰も生き残っていないのだから、その答えを見ることはできない」

 ということになるとすれば、少し考え方がおかしいといえるのではないだろうか。

 それを考えると、

「いや、答えを見ることはできる」

 と考える。

「それはどういう理屈で?」

 というと、

「死んだ人間であれば、あの世から見ることができる」

 ということで、ただ、それも、

「世界が終わってしまった」

 ということであれば、

「輪廻転生」

 において、人間に生まれ変わることはできない。

 そうなると、あの世で生まれ変わることができずにさまよったり、地獄しかないということになると、この世の教えとして、

「世界の終わりを導いてはいけない」

 ということになる。

 その教えがあることは、元々、

「死んでからのあの世で、幸せになるために、この世で功徳をしたり、我慢をする」

 ということだという教えも、

「どこか納得がいく」

 というものである。

 それが、

「未来や過去」

 という時系列であったり、

「宗教の教え」

 ということでの、あの世とこの世というもののつながりであったり、バランスなどというものが、いかに結びついてくるのか?

 それが、今回の小説でのテーマであり、

「近親相姦」

 というのは、あくまでも、

「テーマへのプロローグ」

 であった。


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