ひとくちの温度

ひとひら

ひとくちの温度

 



夏の名残が揺れる9月の午後。

風は少し涼しくなり、通り過ぎるたびに金木犀の香りがふわりと混じる。

教室の窓から差し込む光はまだまぶしいけれど、どこか柔らかく、淡い影を壁に落としていた。


机に座る僕の前に、三年生の先輩がアイスを手に微笑んで現れる。



「よかったら、食べる?」


差し出されたのは、ほんのり溶けかけたバニラアイス。

甘いものは嫌いじゃないけれど、先輩と二人きりで向かい合うだけで、息が少し詰まる。



「いいです……」


少し俯いた僕に、先輩は肩をすくめて柔らかく笑う。

 


「半分食べない?」


「……ううん、大丈夫です」



「……ひとくちだけでもどう?」


その声に、鼓動が早まる。

断る理由はないのに、勇気を出すのに少し時間がかかった。



「じゃあ……ひとくちだけ」


先輩はにっこり笑い、そっとアイスを僕の口元に寄せる。

冷たい甘さが唇をかすめると、胸の奥がきゅっと締め付けられ、同時に不安も溶けていく。

アイスと一緒に、僕の小さな緊張も静かに融けていった。



「まだちょっと暑いけど、秋の空気も混ざってきたね」


先輩の声に、僕は小さく頷く。

視線は交わせなくても、心の奥でそっと繋がっている気がした。


残り半分のアイスを先輩が口に運ぶたび、心がまたざわつく。




好きだと、知らぬ間に胸が覚えてしまった。



でも、先輩は僕のことを恋の対象には見ていない。

叶わない恋だと分かっているのに、それでもこのひとときの温もりを、ひとくちの甘さを、静かに噛みしめたくなる。




先輩の瞳に映るのは、僕じゃなくて――


あの人。



小さな胸の奥に、淡い痛みが広がる。



夏の名残を抱えた風が頬を撫で、秋の匂いが教室に流れる。

光は淡く、木々の影もゆらゆら揺れる。


差し出される柔らかな手の温もりと、甘い香り。

ひとくちだけ口に運ぶ冷たさが、胸のざわめきをほんの少し和らげる。


先輩の笑顔はまぶしくて、触れられなくて、胸に残る――


映っていない僕と、映るあの人。


それでも、ひとくちの甘さと淡い優しさが、静かに心を満たす。

この瞬間だけは、僕もここにいていいのだと、儚く、切なく、少しだけ温かく思えた。



僕は小さく息を吸い、窓の外の風に目をやる。


金木犀の香りが遠ざかるように、先輩の想いもまた、僕の届かない方へと流れていくのだろう。



それでも――今だけは。


ひとくちの甘さと、先輩の笑顔が胸に残っている限り、僕は生きていける。


届かない想いでも、この放課後の温度をそっと抱きしめていたかった。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひとくちの温度 ひとひら @neirohakimi123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画