第4話 触れてしまいそう
朝の教室には、まだ数えるほどしか人がいなかった。
窓の外では木々がざわめき、初夏の風がカーテンを揺らしている。
私はいつものように机に突っ伏して、狸寝入りをしていた。
すっかり習慣になったこの儀式も、ここ数日は胸の高鳴りを抑えるための時間になってしまっている。
昨日、麗花が口にした言葉を思い出す。
「白川さんの髪に、触れたくて仕方なくなる」
その一言が頭から離れなかった。
私の黒髪をそんなふうに思っていたなんて。驚きと、どうしようもない嬉しさと。
思い返すたびに、心臓がきゅっと締めつけられる。
だから今日もまた、私は耳を澄ませていた。
机に顔を埋めたまま、二人の気配を探る。
「今日も、まだ寝てるみたいね」
鈴音のやわらかな声が聞こえた。
「……ええ。毎日、同じように」
麗花の低い声が続く。冷静を装っているけれど、わずかな熱が混じっているのを私はもう知っていた。
私の心臓が、また忙しなく鼓動を打つ。
麗花の声を聞くだけで、昨日の言葉が蘇る。
「麗花さん、昨日の話……忘れられなかったわ」
「昨日の?」
「ええ。綾乃さんの髪に触れたいって……あなた、あんなに真剣に言うから」
鈴音の声には、少し茶化すような柔らかさが混じっていた。
だが麗花は迷いなく答えた。
「本当のことだから」
短いその言葉に、私は思わず背筋を震わせる。
麗花の声は真剣で、嘘が一切なかった。
カーテンが揺れる音。
窓から吹き込む風が、私の髪をかすかに撫でる。
そのときだった。
「……風で揺れるたびに、やっぱり、触れたくなる」
麗花の声が、すぐそばで聞こえた。
息を呑むほど近い。机に伏せた私の肩のあたりに、彼女の影が落ちているのが分かる。
「麗花さん……近づきすぎじゃない?」
鈴音が小さく笑いを含んだ声で囁く。
「分かってる。でも……」
その瞬間、私は本能的に分かってしまった。
──麗花が、私の髪に手を伸ばしている。
空気が張りつめた。
肌がひりつくような緊張感が走る。
指先が髪に触れるか触れないか、ぎりぎりの距離まで近づいている。
私の黒髪は机の上にさらさらと流れ落ちていて、少し動けば麗花の手にかかってしまう。
私は目を閉じたまま、必死に呼吸を整えた。
動いてはいけない。狸寝入りをしているのだから。
けれど、心臓の鼓動が早すぎて、もしかしたら二人に聞こえてしまうんじゃないかと思うほどだった。
「……綾乃さんの髪、本当に綺麗」
囁くような声が、頭上から落ちてきた。
それは、吐息に混じるくらいの小さな声だった。
「触れてしまったら、きっと止まれなくなる……」
私は頭の芯まで真っ赤に染まっていくのを感じた。
どうしてそんな危うい言葉を、そんな真剣に言えるのだろう。
「麗花さん……本当に触れるつもり?」
鈴音が小さく問いかける。
「……駄目だって分かってる。でも」
一拍の沈黙。
「どうしても、手が……」
その声に、私は息を止めた。
ほんのわずかな間──私の黒髪の上に、彼女の影が重なった気がした。
けれど結局、その指先は触れてこなかった。
「……我慢する」
麗花の声が震えていた。
「まだ、今は」
「麗花さん……」
鈴音の声は、優しくも少しだけ安堵を含んでいた。
私は机に突っ伏したまま、胸が痛いほど高鳴っているのを必死で抑えていた。
触れられなかった安堵と、触れてほしかったという淡い渇望と。
矛盾する感情が同時に押し寄せて、どうしようもなくなっていた。
窓の外では鳥がさえずり始めていた。
始業のチャイムまで、あと少し。
二人は席に戻り、いつもの朝のざわめきが少しずつ教室に広がっていく。
私はまだ机に顔を伏せたまま、胸の奥で小さく呟いた。
──触れてしまいそう。
それは麗花だけじゃない。
私自身も、もう少しで心を隠しきれなくなりそうだった。
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