黒崎探偵事務所-ファイル03 湖底の歌声
NOFKI&NOFU
第1話 悪夢の再開
九月の終わり。東京の空は薄曇りに沈み、街路のざわめきに混じって、なぜか『水の滴る音』が耳にこびりつく。
黒崎はその違和感に目を細めた。都会の乾いたアスファルトの上に、水の気配などあるはずがない――それでも、どこか遠くから「歌う声」がわずかに響いてくるような気がした。
「……また、夢を引きずってるな」
独り言のように呟き、探偵事務所のドアを押す。
中では、美咲が湯気の立つマグカップを手に、
ソファで不安げに待っていた。
「おはようございます、黒崎さん……」
「おう、寝不足か?」
黒崎は薄く微笑む。
「昨夜もあの夢か?」
美咲は小さく頷く。
「はい……鏡の中に横たわる自分の死体が……。あの裏通りの祠で見た光景が、まだ脳裏に焼きついていて……」
黒崎は椅子に腰掛け、マグカップを片手で持ち上げた。
「無理に忘れようとするな。俺もまだ、
あの眼の数が頭に焼きついて離れん。…お互い様だ」
美咲は少しだけ肩の力を抜き、静かに息をつく。
「……でも、黒崎さんは……あの街路の中で、
よく冷静でいられましたね」
「経験だ。だが、あの時だって心臓はバクバクだった」
黒崎はわずかに肩をすくめ、笑いながらも目は鋭い。
その時、階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、
古びた扉がノックされる。
「どうぞ、こちらに」
黒崎が老眼鏡を押し上げて応じると、一人の若い男が憔悴しきった顔で入ってきた。
彼の目は血走り、スーツはよれ、まるで何かから逃げてきたかのようだった。
「すみません……ここが、黒崎探偵事務所ですか」
美咲は黙ってカップを差し出した。
男は小さく礼を言い、両手でカップを握りしめた。
「弟が……一週間前から行方不明なんです。
警察はもう、事故か、家出だと……」
美咲は静かに耳を傾け、心の中で思った。
(また、無力な目の前の家族か……。あの湖底で何が待っているのだろう。…弟さんは本当に、あの歌声に引き寄せられたのだろうか……)
「弟は、あの湖のそばでキャンプをしていたんです。それで……夜になると歌声が聞こえるって、冗談めかして言ってたんです」
「歌声?」
美咲の背中に、ぞわりと悪寒が走る。
(あの裏通りの囁きに似ている……いや、もっと深く、
抗い難い誘惑に満ちている……)
「はい……『妙に心が安らぐ声が聞こえるんだ。お母さんみたいな声で……』って。それで、夜になったら撮って送るって……。でも、それが最後のメールでした」
男の言葉に、美咲は息を呑んだ。
黒崎は老眼鏡を外し、地図を丁寧にたたみながら、低く呟いた。
「わかった。我々で調査する」
「本当に……ありがとうございます!」
男が深々と頭を下げた。
黒崎は煙草をもみ消し、穏やかだが低い声で付け加えた。
「ただの溺死じゃねぇな。…行くぞ、美咲」
「はい……」
美咲は小さく息をつく。心の中で繰り返す。
(またあの湖……またあの歌声……。私たちは、前回の呪いをまだ抱えている。それでも、誰かが助けを求めている……)
二人はその悪夢の再開に、静かに身を委ねた。
次回 第2話 「水底の呼び声」
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