山手西洋館の幽霊教師

はらいず

第1話 洋館の門

 坂の角を曲がった瞬間、風が塩の匂いを運んできた。

 横浜・山手の斜面は、春でもどこか冷たい。並木の影が石畳に細い縞を落とし、その先に、くすんだ白壁の洋館が眠っていた。学生課の掲示板で見つけた求人票の文言を、佐久間直哉は頭の中で反芻する。


《至急・家庭教師募集 時給四千円 場所:山手 詳細は面談にて》


 金額の桁は何度見ても変わらない。怪しいに決まっている。けれど、家賃と光熱費を足した数字のほうが、怪しさより先に胃を締め付けてくるのも事実だった。

 住所は観光地として名の知れた西洋館群の一角。だが依頼主の老人は電話で「観光に回る前の空白の家でしてね」と言った。空白、という言い回しが耳に残る。


 黒ずんだ鉄の門には蔦が絡まり、錆の赤がところどころ浮いている。両脇の石柱は雨で角が落ち、誰も触れないまま長い時間を過ごした物だけが持つ鈍い光を帯びていた。

 直哉は、ためらいを飲み込むように片手で門を押した。ギィ、と腹の底で鳴るような音が、坂道の空気を震わせる。


 敷地に入った途端、風の温度が変わった。街路の上を通ってきた潮風が、塀の内側で急に重たくなる。広い庭は手入れが途絶え、芝は枯れ、噴水の鉢は水を失って口を開けたままだ。

 玄関へ続く石畳には、乾いた土の靴跡がいくつか残っていた。古い。けれど昨日とも言い切れない曖昧さで、つい足をその上に重ねてしまう。


 両開きの木製ドアは分厚く、上部のステンドグラスは色を忘れた目のように曇っている。ノックを三度。

 短い沈黙ののち、屋内の奥から、床板のきしむ音が近づいてきた。


「どうぞ……」


 開いた隙間から現れたのは、十二歳ほどの少年だった。前髪が目にかかり、顔色は紙のように薄い。細い首に、不釣り合いなほど大きな瞳が乗っている。

「今日から来てくれる先生ですか?」

「ええと、佐久間直哉といいます。よろしく」

「僕は玲司。……前の先生も、そう言ってました」


 その言い方には悪気がない。ただ、事実を並べた音の手触りが、玄関の冷気よりも冷たかった。


 中は外よりさらに寒い。春の光は窓の内側で弱くなり、広いホールの天井から下がるシャンデリアは煤をまとっている。壁紙はところどころ剥がれ、手すりに触れると粉が指先にうつった。

「こちらです」

 玲司の声は乾いた廊下を滑り、階段の影へ消えた。直哉はスニーカーの底が絨毯に沈む感覚を確かめながらついていく。


 二階の角部屋。南向きの大きな窓があり、港の方角がわずかに開けて見えた。部屋には古い木の机と椅子、それから壁際に黒板が立てられている。黒板と言っても学校のものより小さく、家庭教師用に持ち込んだのだろう。

 机の上には国語と算数の教科書、ノート、濃い鉛筆。片隅に、見慣れぬ単語が鉛筆の薄い線で書き込まれていた。


 ——Stay。


 直哉は小さく眉を寄せる。「君が書いた?」

 玲司は一拍おいて、横に首を振った。「違います」

 嘘をつくときの揺れが、その目にはない。むしろ、触れてはいけない場所に触れた子供のような慎重さがあった。


「今日は体験って聞いています。学校の宿題からでいいかな」

「はい」


 算数の文章題から始める。条件を線で結ばせ、式を自分の言葉で立てさせる。玲司の頭の回転は速い。答えは出せるのに、途中を言葉にすると詰まる。その空隙を埋めるのが家庭教師の仕事だ——直哉は自分に言い聞かせるように、丁寧に板書をした。


 チョークの白が黒板に響く。はじめは粉の擦れる乾いた音だけが、部屋の空気に薄く残った。

 やがて、カタ、と紙が揺れるささやきが背後でした。窓は閉まっている。風はない。

 直哉が振り向くより先に、黒板の隅——自分がまだ手を伸ばしていない黒い面に、白い線が一つ、二つと浮きはじめた。ねっとりとした音。誰かが書いている音だ。


 ——出られない。


 目の前で、文字が完成する。直哉の指からチョークが落ち、板の端で鈍く砕けた。

「玲司くん、今の……」

「僕じゃないです」

 どこか遠いところから引っ張ってきたような声。少年は黒板を見ず、机の角を握っている。指先が白くなるまで力を込めて。


 笑ってごまかす余地はなかった。悪戯にしては手筋が悪い。鏡も、紐も、手品の種も見当たらない。

 直哉は息を整えた。「……続けよう。文章題の二つ目だ。図にしてみようか」


 授業を再開すると、現象は消えたように見えた。鉛筆の音、紙の擦れ、時計の微かな刻み。

 けれど、集中が戻るたび、部屋のどこかがわずかに軋む。天井の梁か、床板か、それとも自分の背骨か。黒板の端に残った「出られない」の粉が、視界の周辺で白く震えている。


 休憩を挟んだ。

「紅茶でいい?」と尋ねると、玲司は一瞬だけ目を上げ、「はい」と頷いた。

 廊下を歩くと、空気はさらに冷え、鼻の奥に古紙の匂いが張りついた。台所は意外なほど整っている。清潔に保たれた流し、乾いたカップ。誰かが生活を保っているのは確かだ。

 湯を注ぎ、戻る途中、壁に額装された古い写真が目に入った。庭の噴水の前で、帽子を被った男と、横に立つ若い女性。男の手には黒板拭きのようなものが握られている。顔はぼやけ、口だけが引き結ばれて見えた。


 部屋に戻ると、机上の国語の教科書が一枚、勝手にめくれていた。ページの下端が風を受けるように、ふわ、と浮いて落ちたのだ。

 空調は入れていない。窓も閉じている。湯気が細く立ちのぼるだけだ。


 開かれたページの余白に、また鉛筆の跡があった。さっきと同じ筆圧、同じ癖。

 ——Stay. Stay. Stay.


 同じ単語が、三度、書かれている。最初の一つよりも浅く、最後の一つは消しかけのように薄い。ここで誰が何度練習したのか、想像が勝手に輪郭を取っていく。


「玲司くん、この“Stay”は……」

「先生は、英語も教えられますか」

 質問に質問で返す。目は合わない。

「一応は。学校の範囲なら」

「『Stay』って、どういう意味ですか」

「留まる。残る。……いる、かな」

 その瞬間、黒板のほうで、ひゅ、とチョークの粉が落ちた音がした。書いたものが乾くときに出る、あの小さな呼吸の音。


 直哉は思い切って黒板の前に立った。指で「出られない」の最後の一画に触れ、粉の感触を確かめる。湿ってはいない。だが、つい先ほど書かれたもの特有の、柔らかい角が残っている。

「さっきの“前の先生”って、いつまでここに?」

 問うと、玲司は短く息を飲んだ。そして、ほんの少しだけ笑った——笑い方を忘れた人が口角の上げ方を思い出した、そんな笑い方で。

「夜まで、です」

「夜まで?」

「毎晩、来ます。黒板の前に立って、僕に問題を出します。……でも、答えを言ってくれません」


 紅茶の湯気が、ふっとひるがえった。窓の向こうで雲が太陽を横切ったのか、部屋の光が一段暗くなる。

 時計の秒針が、そこで一拍、止まったように見えた。


 この家は空き家だった。観光地に整備される前の、時間の隙間に残った一棟。

 だが「空き家」は無人を意味しない。

 人が住まないだけで、記憶と習慣と、言葉になりかけた音が、そこに住み続けることはある。


「今日はここまでにしよう。次は——」

 直哉が言い終える前に、背後の黒板が、勝手に鳴った。

 白い線が、また一つ、這い出す。ゆっくり、確かに。

 ——出られない。

 今度は、その下にもう一行。

 ——先生も。


 チョークの先端が折れ、床に白い欠片がばらまかれた。

 息を呑む音が二つ——直哉と、玲司。

 扉の向こうの廊下で、誰かの足音が、静かに止まった気がした。

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