第二話 裏切りと幻の崩壊

 冷たい石の感触で、エルナは意識を取り戻した。身体を起こそうとするが、手首と足首に重い鉄の枷がはめられている。彼女がいたのは豪華な聖女の寝室ではなく、冷たく硬い石畳の上だった。壁の小さな窓から差し込む細い光が、ここが城の地下牢であることを示していた。

 純白だった聖衣は汚れ、かつて神々しく輝いていた金の髪も艶を失っている。そして何より、あの温かな治癒の力が、彼女の内から完全に失われていた。


「いったい、何が……?」


 何が起きたのか、理解が追いつかない。朦朧とする頭で必死に記憶をたどる。


「儀式は成功したはず。その後――」


「お目覚めですか、元聖女様」


 聞き慣れた声に顔を上げると、鉄格子の向こうに大司教バルドルが立っていた。しかし、その表情はもはや慈愛に満ちた聖職者のものではない。勝利者の冷酷な笑みを浮かべている。


「大司教…様? ――なぜ私が、こんなところに?」


 かすれた声で問いかけるエルナに、バルドルは愉快そうに答えた。


「なぜ、ですって? 決まっているでしょう。あなたはもう用済みだからです。聖女としての力も失い、価値のない抜け殻となった今、生かしておく理由はありませんからね」


 その言葉には、かつてエルナに向けられていた敬意など微塵も感じられない。冷え冷えとした侮蔑だけが込められていた。


「用済み? 私は王国のために、疫病を――」

「ああ、確かに疫病は浄化されました。――しかし、それは副産物に過ぎない。私が本当に欲していたのは、あなたの『聖なる涙』だったのですよ」


 バルドルは懐から、美しく光る水晶の小瓶を取り出した。その中に、わずかに残る透明な雫が、微かに金色に輝いている。


「これこそが、古代の遺物『創世の鍵』を起動させる最後の触媒。純粋な愛に満ちた聖女の涙です。あなたが儀式の最中に流した、あの美しい涙をね。ふふっ……」


 エルナの記憶が蘇る。儀式の間、アランを見つめながら確かに感極まって涙を流していた。愛する人への想いと、王国への献身の気持ちから生まれた、純粋な感情の結晶だった。


「それが…目的だったというの?」

「その通りです。聖女を召喚し、力を育み、そして最高の瞬間に最も純粋な愛の涙を流させる。三年という歳月をかけた、実に見事な計画でした」


 バルドルの言葉に、エルナの心臓が凍りつく。すべてが計画されていたというのか。


「でも……、アラン様は…アラン様だけは本当に私を――」


 その時、バルドルの笑い声が地下牢に響いた。それは今まで聞いたことのない、狂気じみた高笑いだった。


「アラン? ああ、あの騎士団長のことですか。残念ながら、彼は最初から存在しません」

「え……?」

「アラン・ヴァルディスという男は、私が創り出した精巧な“幻”に過ぎないのです。あなたの心を掌握し、愛を最大限に育むために作られた、完璧な恋人の幻影なんですよ」


 ――幻


 その一言が、エルナの世界を粉々に打ち砕いた。

 愛した時間も、交わした言葉も、頬に触れた温もりさえも。あの腕の力強さも、優しい口づけも、全てが偽り。ただ、聖女の力を引き出すためだけにプログラムされた、空っぽの虚構だったというのか。


「うそ…嘘よ! アラン様は確かにそこにいた! 私に触れて、温もりを感じて――」

「幻であっても、充分にリアルに感じられるよう作り上げたのです。あなたをこの世界に召喚した直後に、私自ら特殊な術を施した。まだ、この世界の右も左も知らぬ小娘に術をかけるなど私にはたやすいこと。その後は、その術を通じてあなたの求める理想を読み解き、より理想の男性に近づけるよう常に調整し、完璧な恋人を演じさせました。優しく、強く、あなただけを愛してくれる騎士を」


 バルドルは手を軽く振る。すると、奥の暗闇から、見慣れた姿が現れる。銀の鎧を纏い、優しい微笑みを浮かべたアラン。しかし、その瞳には何の感情も宿っていない。


「ほら、これがあなたの愛した男の正体です。私の意志で動く、ただの人形。感情など最初から持ち合わせていない。くくくっ……」


 アランがエルナを見下ろし、機械的に口を開く。


「愛している、エルナ」


 その言葉は、かつて何度も聞いた愛の囁きと全く同じだった。しかし、今は空虚で冷たく、エルナの心を切り裂く。


「ああぁ……、や、めて……、そんな…やめてちょうだい!」


 エルナの絶叫が地下牢に響く。しかし、当のアランは何の反応も示さない。


「あなたが流した涙、交わした言葉、感じた温もり、すべて私の掌の上での出来事でした。見事に踊ってくれましたね、愚かな聖女よ。――でも、もうこの偽りの男の役目も終えた。今ここで、処分しましょう」


 バルドルがパチリと指を鳴らすと、アラン姿が霞のごとく消えていく。


「あ、ああぁ……」

「塵から創られた存在が、塵へと返っただけのこと。くく、くくく……」


 バルドルは黒い笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「さあ、創世の鍵の力で、この世界を我が思うままに作り変える時が来ました。あなたの役目はこれで終わりです。せいぜい、ここで朽ち果てるまで、偽りの愛を悔やんでいることですね。ぬははは……」


 高笑いと共にバルドルが去り、エルナは一人地下牢に残された。


「偽り……、そんな、うそよ……」


 エルナの瞳から涙がこぼれた。その涙と共に、この世界に来てからの思い出が全て崩れ落ちていく……


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