第10話 六里へ
社殿の最奥、玉座の間。
灯りは低く、影が畳にやわらかく落ちる。悠理は膝をつき、簡潔に頭を下げた。
「遼原での任を終え、帰還いたしました。先ほど、言霊庫中霊の間より暴走が発生。先代・遥斗様、綴る者・遥花、従者・陽路と共に収束させました。」
簡潔な報告に、長老がうなずく。
「そうか……遥花は、どうであった?」
問いかけは穏やかだが、瞳には探る光が宿っている。
悠理は少し間を置き、戦闘の情景を思い起こす。
「力そのものは健在です。線を結ぶ本能は衰えていない。ですが……最後の詰めで迷いが出ていました。踏み込みが浅く、呼吸もわずかに乱れる。まるで、自分の力を信じ切れていないような――そんな印象でした。」
その他の重鎮たちは互いに目を交わし、やがて天響の里の長老が口を開いた。
「やはり……伝えておかねばなるまい。遥花は、異界から戻った折に記憶を失っていたのだ。綴る者としての歩みも、多くを思い出しておらぬ。」
悠理の表情がわずかに揺れる。
(……そういうことか。迷いの理由は、そこにあったか。)
彼は静かに頭を下げる。
「納得しました。……ならばこそ、実戦に触れさせるべきです。封を描く感覚は身体に染みついています。務めを重ねれば、自然と思い出すでしょう。」
天響の里の長老は静かに目を閉じ、しばし考えた。
やがて重々しく頷く。
「……なるほど。おまえの進言は理にかなう。」
「――記憶を失ったとはいえ、遥花は綴る者である。」
「その詞脈を眠らせておくことは、久遠にとっても損失だ。実戦でこそ磨かれるならば……各里を巡らせる他あるまい。」
「異を唱える者は?」
静寂。誰も声を発しない。
「決まりだ。遥花には六里を巡らせ、務めを助けつつ記憶を呼び起こさせる。陽路は従者として同行。禍ツ者の件もあるので、悠理はこの里に残ってもらうが、必要に応じて合流し、経過を見てもらうとしよう。」
「承知。」悠理が一礼する。
翌日。
陽路と遥花は玉座の間に呼ばれ、正座していた。
遥花の胸は緊張で速く鼓動する。陽路は隣で姿勢を正し、ただ落ち着いた気配を崩さない。
長老が口を開く。
「遥花。おまえは記憶がないまま戻った。だが綴る者の力は確かに宿っている。これを眠らせておくことはできぬ。」
淡々とした声に、厳しさがにじむ。
「よって――おまえを六里へ巡らせる。各里の綴る者を助けながら務めを果たし、その中で力の扱いを取り戻せ。」
遥花の瞳が揺れる。
「……六里を……巡る……?」
陽路がすぐに一歩進み、深く頭を下げた。
「お言葉、確かに承りました。遥花様を必ずやお守りし、務めを全うさせてみせます。」
長老は短く頷く。
「旅立ちの前に、詞神殿にて武器を授かれ。綴る者としての器を示す儀だ。」
遥花は唇を引き結び、恐れと覚悟を胸に抱く。
(……私にできるだろうか。でも、やらなきゃ。)
その横で、陽路の背筋は凛と伸びていた。
久遠の中心にそびえる「詞神殿(しじんでん)」。
古より綴る者が務めに就くとき、神々に己が器を示し、武器を授かる儀がここで執り行われてきた。
遥花は白衣に袖を通され、陽路に伴われて本殿へと進む。
荘厳な香の匂いが漂い、幾重もの祭壇の奥、巨大な詞鏡が鎮座している。
その面は透き通るように輝き、映るものの本質を映すと伝えられていた。
――遥花は、祭壇の前に立ちながら、ふと前夜のことを思い出していた。
「綴る者の武器は、ただの武器ではありません。」
縁側で月を眺めながら、陽路は静かに言った。
「言霊を扱うための“器”であり、詞脈そのものを映すもの。儀式で神鏡が応じ、綴る者に最も相応しい武器を授けます。先代の遥斗様は槍を、悠理様は弓を……そして、遥花様は薙刀を。」
「……薙刀。」遥花は小さく反芻する。
その言葉の響きに、かすかな既視感がよぎる――だが、形にはならなかった。
陽路は、そんな遥花の横顔を一瞥し、穏やかに続けた。
「大切なのは何を選ばれるかではなく、どんな想いで振るうかです。神が授けるのは、“今”の遥花様に必要なものなのですから。」
遥花は黙ってうなずき、胸の奥にその言葉を刻み込んだ。
「綴る者・遥花。」
祭司が名を告げる。
「詞脈を宿す証として、神前に立ち、その器を示せ。」
遥花は深呼吸をし、一歩進み出る。
両の手を合わせ、詞を口にする。
静寂を裂くように、詞鏡の面が波打った。光が溢れ、空気が震える。
その光の中から――薙刀ではなく、黒地に銀の文様を刻んだ鉄扇がふわりと舞い降りた。
「……扇?」
驚きの声が祭殿に広がる。
扇を受け取った瞬間、掌にしっくりと重みが馴染んだ。
遥花の心に、説明のできない確信が走る。
(これが……今の私に与えられた武器……。)
陽路が一歩進み出て、静かに言った。
「遥花様らしい。風を導き、言霊を操る器……きっと今の遥花様にこそ相応しい。」
長老は深く頷き、言葉を紡ぐ。
「武器は神が選ぶ。おまえ自身が変わった証でもあろう。――その扇を携え、六里を巡るがよい。」
鉄扇を抱く遥花の胸には、不安と共に、ほんの少しの誇らしさが芽生えていた。
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