私たちの愛は病でできている
舞夢宜人
第1話 祭りの夜への誘い
夏の強い日差しがようやくその勢いを弱め、キャンパスを吹き抜ける風に微かな涼やかさが混じり始めた、そんな日の午後だった。講義棟の壁に長く伸びた影のそばで、私は親友である白木早苗(しらきさなえ)に声をかけられた。
「ねぇ、翼(つばさ)。来週の土曜日、恋染川(こいぞめがわ)で花火大会があるんだけど、一緒に行かない?」
肩を出した白いブラウスに、風に揺れる濃紺のスカート。いつもより少しだけ上気した頬で、早苗は屈託なく笑いかけてくる。その完璧な笑顔を前にして、私は頷くよりも先に、彼女の瞳の奥を覗き込んでいた。喜びと同時に、言いようのない切実さのようなものが、その奥で静かに揺らめいている気がしたからだ。
「ほんとにあるの、その花火大会」
「ほんとだってば。翼と二人きりで行きたくて、一生懸命調べたんだから」
悪戯っぽく唇を尖らせる早苗に、私はスマホを取り出して確かめてみる。彼女は私をからかうのが好きで、私はそれを疑いもせずに信じてしまう。だから最近は、こうして少しだけ調べる癖がついていた。検索結果には、確かに「恋染川花火大会」の文字が躍っている。
「……ほんとだ。あるね」
「でしょ? ここの花火、すごく綺麗なんだって。特に終盤のスターマインが空を埋め尽くすくらい圧巻なんだってさ」
そう語る彼女の声は、いつになく熱を帯びていた。
不意に、私たちの会話に割り込むような声が響いた。
「なんだ、楢崎(ならさき)と白木で花火見に行くのかよ」
声の主は、一つ上の井岡先輩。顎髭にピアスという見た目通りの軽薄さで、へらへらと笑いながら近づいてくる。
「えぇ、来週にでも」
私が当たり障りなく返すと、先輩の視線はすぐに早苗へと移った。
「なぁ白木、俺と一緒に行かねぇ? すっげぇ夜にしようぜ」
馴れ馴れしく肩に回されようとした手を、早苗は水が流れるような自然な動きでかわす。
「ごめんなさい、井岡先輩。私は翼と二人きりで行くって約束したんで」
笑顔は崩さない。けれど、その声には有無を言わせぬ響きがあった。なおも食い下がろうとする先輩に、早苗はもう一度、完璧な笑みを向けた。
「……先輩、しつこい人は嫌われますよ」
その一言で、井岡先輩は引きつった笑いを浮かべてすごすごと去っていった。その背中を見送りながら、私は改めて早苗への憧れを強くする。私だったら、きっと怯えて俯いてしまうだけだ。先輩が完全にいなくなったのを確認すると、早苗は私の方に向き直り、悪戯っぽく片目をつむいだ。そして、私の耳に顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で囁く。
「翼と二人きりで、秘密の話がしたいな」
甘く、少しだけ湿り気を帯びたその声に、私の心臓が大きく跳ねた。秘密の話。その言葉の響きが、これから始まる夜への期待を否応なく高めていく。
そして、花火大会当日。地元の駅で待ち合わせると、そこに立っていたのは、私の知らない早苗だった。
白地に、鮮やかな青いハイビスカスが咲き乱れる浴衣。いつもは下ろしている長い髪は綺麗に結い上げられ、普段は見ることのない白いうなじが夕暮れ前の光に照らされている。その艶やかさに、私は息をのんだ。ピンク地に黄色い朝顔という、高校生の時に買った私の浴衣が、ひどく幼く、色褪せて見えた。
「翼、すごく似合ってるよ。翼らしくて、好きだな」
私のコンプレックスを見透かしたように、早苗は優しく微笑む。そして、私の右手を取ると、その指をそっと絡めてきた。
「ほら、行こっか。はぐれないようにしないと」
手を引かれ、私たちは祭りの喧騒の中へと足を踏み入れた。人の熱気、屋台から漂うソースの香ばしい匂い、どこからか聞こえてくる賑やかな祭囃子。五感を刺激する情報の洪水の中で、ただ一つ、絡められた早苗の手の温かさだけが、やけに鮮明だった。高揚感に包まれながら、私はこの楽しい時間が、何か特別なことの始まりであるという予感を、強く、強く感じていた。
花火がよく見えるという、少しだけ人の少ない川辺の斜面に、私たちは並んで腰を下ろした。祭りの喧騒が少しだけ遠くに聞こえる。空には最後の茜色が残り、川面がそれを映して静かに揺れていた。
「楽しい時間って、すぐ終わっちゃうね」
名残惜しくて、私はぽつりと寂しげに呟いた。すると隣で、早苗が私の手を、さっきよりも強く握った。私は驚いて彼女の顔を見る。
「ううん」
早苗は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど、静かに、そして意味深に微笑んでいた。
「これからが始まりだよ、翼」
その言葉が、私の鼓膜を震わせた瞬間だった。
ヒュルルル、と甲高い音が夜空を切り裂き、私たちの頭上で、巨大な音が炸裂した。今年最初の花火。闇を祓う眩い光が、強い決意を宿した早苗の瞳を、一瞬だけ、鮮やかに照らし出した。
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