花天月地【第105話 黄昏の二人】

七海ポルカ

第1話




 軒を連ねる建物の向こうに、一際荘厳な屋根が見えて来た。

 屋根の上に四つ足を立て咆哮を挙げている、大きな虎の彫像がある。

 立派なものだ。

 射し込んだ西日を浴びて、金色の全身が輝いている。



 歩いて来た陸議りくぎはそこで立ち止まってしばらく眺めていた。



 この辺りは市中になり、賑やかに人が行き交う。

 許都きょとにやって来てからは、城に籠ってばかりで城下には出たことがなかった。

 したがって陸議の街の記憶となると、建業けんぎょうまで遡る。


 建業もとても大きく賑やかな街だったけれど、洛陽らくようはもっと広大だ。

 市中でも道幅が広い。

 だから人通りが多くても混雑してる印象がない。

 建物が軒を連ねてるが、更に一本店が並び続いているのは出店なのだ。

 定められた時刻が来ると店をたたんで、通りは夜はすっかり広くなるはずだ。



(こんなに巨大な街だとは)



 陸家の当主としても、呉の中枢に関わる者としても、煌びやかなものには耐性はどちらかというとあると思っていたが、そんな陸議でも洛陽の街の巨大さと華やかさには驚かされた。

 許都きょとの都もそれは巨大で豪華な造りをしていたが、洛陽とは雰囲気はかなり違う。

 ゆったりとした雰囲気があるのだ。


(これが漢王室四百年の風格というものなのかな)


 少しずつ陽は傾いて来ていた。



「陸議君」



 立ち止まって街を眺めていた陸議は振り返った。

 馬に乗って、徐庶じょしょがやって来る。

 人は多いが、道は広いので難なく軽く駆けて来ると、側で馬から降りた。


「徐庶さん」

「ここにいたんだね」

「あ……すみません。少し街を見てみようかと……」

 徐庶が陸議の眺めていた方を見やって、ああ、と頷いた。


「あれが【九条院くじょういん】だよ」


「あれが……あまりに大きいから離宮の一つかと思っていました」

「大きいよね」

 陸議が目を瞬かせたので徐庶も笑っている。

「資料庫と同時に学務機関でもあるから」

「屋根の上に立派な像がありますが……何を表しているのでしょうか?」

 学務機関に虎の彫像など、珍しいなと思ったのだ。

「あれは洛陽の西を守る白虎びゃっこだよ」

「白虎……そうか、それで虎なのですね」

「うん。北の離宮の屋根の上には玄武げんぶ、東の洛中守備楼本部の上には青龍せいりゅうがいるし、南の洛門の上には朱雀すざくがいる。四神しじんを市中に配置して、洛陽の守りにしてるんだ」

 そうなのかと陸議がもう一度屋根の上の白虎を見上げた。


「金の虎だったから、分かりませんでした」

「はは……確かに」


 陸議は徐庶を振り返る。

「あの……徐庶さん、母君とは……」

「うん。挨拶を済ませたよ。突然帰って来たら用意が出来ないじゃないかとやっぱり文句を言われた」

 徐庶はそう言ったが遠い戦地から帰って来た息子を、ちゃんと迎えてやりたかったのだろう。徐庶も笑いながらそう返したので、文句と言っても優しいものだったことがちゃんと伝わって来る。

 良かった、と陸議は思った。


江陵こうりょうへ行かねばならないことは……伝えられましたか?」


 きっと徐庶が戻って来たことに安堵した矢先だと思うから、それだけが少し心配だった。

 しかし徐庶の顔は明るい。言い出せなかったという空気はなかった。


「うん。母は俺が軍師として従軍したっていうこともあんまりピンと来てなかったみたいだから、今度は江陵に行くといっても一体何をしに行くのかなって感じだったけど。誰かに必要とされるのは仕事がないよりいいことだとか言ってたよ。

 君のことも話しておいた。涼州に行ってから、君のこともとても気にしてたようだ。

 怪我はしてるけど元気だと話したら喜んでた。

 親子の再会に気を遣ってくれたんだろうけど、そんな気遣いは不要だから早く呼んで来てくれとせがまれたから、君を探しに来た」

「す、すみません。フラフラとこんなところまで来てしまって」


「いいんだ。気を使ってくれてありがとう。今、母が部屋を整えてくれてるから戻ろう。

 九条院くじょういんは明日以降、ゆっくり見れるよ」


「はい。すみません、母君は足の具合があまりよくないのに……徐庶さん、部屋の準備など私が自分でやりますからどうか先に戻って母君にそうお伝えして……」


「君が洛陽に来たのは休養を取るためだよ。

 何でも自分でやるのは駄目だ。

 俺だって母親に何でもかんでも世話させたりしないから安心して。

 本人がやりたいと言ってることだけしてもらってる。後のことは全部俺がやるし、心配しないでいい。一人で生きて来たから大概のことは何でも出来るから」


「……はい……」


 分かっているのに、やはりそう言われると心許なくなる。

 確かにこんな片腕の動かない人間にやらせた方がなんでも遅くなるから、それならば自分でやってしまった方が早いのだろうけど。


 陸議は陸家の当主だったが、孫家に帰順して建業けんぎょうに行った時は、元々孫家と戦った家柄で取り立ててもらったということもあり、あくまでも他の人間と同じように一族を引き連れて来たりせず、一人の人間として役に立てるようになろうと、そういう意識があったから一人で建業に来た。


 さすがに食事や細かい身の回りのことをする時間はなかったので、建業で侍女をつけてもらったけれど、一人か二人だ。彼女たちはそれが仕事だったので、頼んでも、あまり陸議も後ろめたい気持ちが無かったのである。


 しかし仕事ではなく単なる親切で世話を受けるとなると、全く心が落ち着かなくなる。


 陸議は陸家の当主でも、自分は孫家に仕える将官の一人だと考えている。

 かしずく相手はいた。陸議は彼らを守り、仕える立場だったのだ。

 

 だが普通の豪族だって、下働きの人間や補佐する人間は使うのだから、

 そう思えばいいのだろうけど、呉を離れては輪をかけて自分が人の世話を受けるのが苦手になっていると気づいた。

 ここでは陸家の当主でもなく、豪族でもなく、ただ司馬懿の庇護を受けている副官でしかない。

 そんな自分が他人の世話を受けて何もかも生きて行くのは、間違っているのではないかとつい考えてしまう。


「君は本当に誰かに世話をされるのが苦手なんだなぁ」

「す、すみません……」


 自分でも思っていたことを徐庶に指摘されて、陸議は答えに困った。

 これ以上何だかんだ言っていると、折角自分の家に迎えてくれた徐庶にも煩わしい、嫌な思いをさせそうだった。それは避けなければならない。

 いい加減にしないと。

 今は申し訳ないと助けを受け、いずれ腕が治ったら恩を返せばいいのだ。

 陸議は自分に言い聞かせた。


「でも……そういえば司馬孚しばふ殿に世話をされていた時は、君はそんなに気まずそうじゃなかった気がするけど」


 徐庶が首を傾げている。

 言われて陸議も気づいた。

 司馬孚は許都きょとで目覚めた時の、ボロボロの状態の時から世話をされているから何となく大丈夫なのだ。

 慢性的に熱を出したり、なんだか気分が優れないなどという理由で寝そべっていた情けない姿もすでに全部見られていた為、見栄を張ろうという気持ちに今更ならないというのもある。

 それに司馬孚の人柄もあった。

 彼は陸議がどんな状態であろうと、兄への忠誠心からそれを誰かに話したりする人間ではないからである。


「やっぱり司馬孚殿について来てもらった方が良かったかな……」


 洛陽で徐庶の母の家にお世話になるということで、大人数で押し掛けると迷惑になるため、それで司馬孚しばふは長安から許都に戻ることにしたのだった。

 当初は長安ちょうあんで、彼が引き続き陸議の世話をすることになっていた。

 徐庶がそんな風に言って、残念そうに小さくため息をついたのが聞こえて陸議は慌てた。


「いえ、あの、徐庶さん、すみません。私は……本当に、他人なのに私を快く迎えてくださった母君には深く感謝をしていて……つまり、だからこそ、やれることは自分でやりたいとは思うのですが、あの……はい、でも、今の自分の使命は傷を治すことだと分かってますので、勿論ありがたく、あの……助けていただけることは、申し訳なく思いながらも、嬉しく……」


 折角厚意で自分の家に招いてくれたのに、しかも元はと言えば発案は郭嘉だったのだから徐庶に断りようもないのだから、徐庶も快く受け入れてくれたのに親切を遠慮しすぎて逆に面倒くさく思われてしまったと焦って陸議は弁明しようとした。

 しかし途中で隣で馬を引いてた徐庶が立ち止まって、一人で一生懸命話していた陸議が振り返ると、徐庶が笑いをこらえ肩を揺らしているのが目に入って来て、陸議は自分がからかわれたことにようやく気づき、赤くなる。



「徐庶さん!」



「ごめんごめん。いや君が世話をしてもらうのは申し訳ないと思ってるのも分かるし、かといって今は腕を治さなければならないことも分かり切ってるの、どっちも分かるからね。俺にはどうしようもないから。だったらそうやって板挟みになって困ってる君を助けるよりも、眺めて楽しもうかと」


「あ、遊ばないでください」

「悪かったよ。でも俺も母も迷惑だとか全く思ってないから気にしないでってことを伝えたくて」


 陸議はため息をついたが確かに今の一瞬の動揺で、徐庶にからかわれたことに気づいたので、胸につかえていた罪悪感や気まずさが少し消えたのが分かった。


「荒療治ですよ」


「君が意志の強い人だっていうことはもう涼州遠征でよく分かったからね。

 そういう人が生真面目じゃ説得は無理だ。からかって遊ぶしかないよ」


 まだ少し笑いながら、徐庶はのんびりとした足取りで馬を引いて歩き始めた。

 釈然としない表情を浮かべながらも、陸議はついていく。


「……徐庶さんも」


「ん?」


「人をからかって遊んだりすることあるんですね」


 徐庶が振り返った。


「あるよ。どうして?」

「そ、そういうことをする方だと、思ってなかったので」

「そうなの?」

「はい。私の生真面目を指摘されましたが……徐庶さんも……頑なで融通の利かないところはあります」

 思い切って陸議は言ったようだ。

「俺は元来流されやすい性格だよ」

 徐庶が苦笑して答える。陸議は少し驚いた。

「そ、そんなこと無いと思います!」

 自分でも少し大きな声が出たと思ったので、改めて静かに喋りなおす。


「徐庶さんは意志の強い方です。

 こうと決めたら、それを揺るぎなく守ろうとされる。

 徐庶さん。わたしが……涼州で風雅ふうがさんを説得するために貴方と向かったのは。

 貴方を私の言葉で説得することは出来ないと思ったけど、

 貴方はきっと風雅さんを説得出来る。そう思ったからです」


 徐庶が立ち止まったが、陸議は言葉を止めなかった。



「貴方は意志の強い方です。

 心を決めたら曹孟徳そうもうとくにさえ、何を言われても揺るがない。

 貴方が守ろうとしたものは、だから……必ず守られる」



 徐庶の表情は少し驚いたものだった。


 陸議は、母を洛陽に招かれただけで、別に脅しを強く掛けられたわけでもないのに劉備りゅうびの元を徐庶が去ったことを知っている。

 意志が強い人間だったらしなかったことだと徐庶は思っていた。


 それに彼は今、守ると言ったが、徐庶は結局陸議が毒で倒れた時も無力だったし、馬岱ばたいが魏軍に捕まった時も逃がすどころか、陸議の助力がなければ自分が牢からも出れなかったほど無力だった。

 なに一つ守り切ってはない。

 不思議に思ったのが、他の人間より陸伯言りくはくげんには余程自分はすでに「この人は自分の意志の弱い人だ」と思うような姿を見せているはずなのに、その彼がこんなに揺るぎなくそう言って来るのだろうということだった。


 何か、必ず言わなければならないことを言いきったように、そこまで話した陸議は、じっと徐庶が自分の方を見ていることに気づき、視線を逸らした。


「……私はそう思っています」


 誰かに誰かを重ねて、見てしまうというのは良くないことだとは分かっているけれど。

 陸議にとってはどうしても、徐庶は龐統と重なるものがあるのだ。

 陸議にとって彼らは捉えにくく、彼らの興味を引くものが自分の中には無く、腕を伸ばそうとしても繋ぎ留められなかった。

 

 彼らはいつもどこか、別のところを見ている。


 郭嘉でさえ、徐庶は命を懸けて、自分の才を封じて人並みの暮らしをしていく可能性があると言っていた。


 陸議もそうだと思ったのだ。


 龐統の真の願いが何だったのかは分からないが、

 ……彼はきっと、最後の時にはその願いに触れたのだと思う。

 宿命から解き放たれること、

 多分そんなものだっただろうけど。


 龐統も徐庶も、

 自分の願いを持てば必ずそれを守り抜く人だと、陸議は何故か無性に信じているのだ。



 ――信じたいのかもしれない。



 一度俯いた陸議が思い切って顔を上げる。


 ……そして息を飲んだ。


 洛陽の通りを、西日が温かく照らし出している。

 徐庶がかすかに微笑んでいた。


「……自分では、とてもそんな人間じゃないとは思うけど。

 でも……ありがとう。」


 陸議は小さく首を振った。

 からかってごめん、徐庶が再び並んで歩き出す。

 もう一度、強く首を振った。


 徐庶は、出会った時よりも遥かに心を開いてくれていると思う。

 その頃に見れなかった表情も見せてくれるようになった。


 陸議はそれが嬉しかった。

 徐庶が笑ってくれたり、時に冗談を言ったり、

 自分をからかおうなどと考えてくれるのは嬉しい。



龐統ほうとうが生きていたら、時をかければ、彼ともこんな風になれたのかな)



 陸議は龐士元ほうしげんの笑顔を一度も見たことがない。

 彼はどんなことを言えば笑ってくれる人だったのだろう。

 あの人も冗談など言って、人をからかうようなことがあったのだろうか。


 確かめる術はもう永遠にない。


 だが徐庶は生きて隣にいる。

 それだけで陸議は彼を大切にしたいと強く思うのだ。


 失われた人の代わりに彼を大切にして、出来るだけ助け、願いをかなえられるよう守ってやりたいと思う。

 江陵の地へ行ってもそれはきっと、変わらないだろう。


 誰かに誰かを重ねるのは、良くないことかもしれないが。

 胸に秘めていればいいのだ。

 口に出せば重ねられた人を傷つけるだろうが、胸に秘めておくならば陸議だけのものになる。

 

(私は、小さいころからそうだった)


 自分を守って死んだ陸康りくこうへの想いがあったから、陸家や陸績りくせきを大切にしたのだ。

 陸家を守ってやらねばならないから、建業に一人赴任することになっても夢中で頑張れた。

 そういう想いを誰かのせいにしたりしたことは一度もない。

 自分だけの生きる、原動力にして来た。


 龐統にしてやれなかったことを、徐庶にしてやりたいのだ。


 戦を忌み嫌う徐庶と、戦場こそ自分の生きる場所だと定めた陸議では、最終的に生きる場所は必ず異なる。

 いつか徐庶は陸議の側を離れて、彼にとっての理想郷に向かうだろう。

 龐士元ほうしげん諸葛亮しょかつりょうを求めて蜀に向かったように。


 彼らが動き出した時は、陸議には止められない。

 止めたくもない。


 ただ、願いたいのだ。


 たった一つの願いを、この乱世で胸に秘めている。

 彼らの願いが叶ってほしいから。


 見覚えのある家の門が見えて来る。


 門を二人でくぐると、ただいま帰りましたと声を合わせた。



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