ねじれた渦

玉樹詩之

 学もない、才もない、他者の目を惹く美貌もなければ、抜群の運動センスがあるわけでもない。しかしだからと言って、何かが致命的に劣っているわけでもない。いわゆる平均値。アベレージ。ノーマル人間。そんな平々凡々な私は、無味乾燥な社会人生活を送っていたのだが、それはある日突然壊れた。私は、五年勤めていた会社を辞めた。


 会社を辞めた私は実家へ帰ることになった。仕事も失くし、喜怒哀楽も失った私がまともな一人暮らしを出来るわけがないと両親が判断して、こうなった。大学に入ると同時に一人暮らしを始めたので、実家に帰るのは約九年ぶりのことだ。別に一人暮らしのアパートと実家が遠かったわけでもないし、両親と仲が悪いわけでもないが、なんとなく、帰る気にならなかった。私はボストンバッグを片手に、九年ぶりの実家、九年ぶりの表札を見つめる。「佐藤」これもまた、どこにでもありそうな、私にピッタリの苗字。そんなことを考えながら門扉の前でぼーっとしていると、玄関ドアが開いた。


「おかえり。結依」

「うん。ただいま」


 顔を覗かせたのは母だった。私は笑顔を作ろうと努力したが、多分、そこに笑顔はなかった。


 帰郷してからしばらく、私は家から一歩も出ない引きこもり生活を送っていた。起きて、食べて、寝る。今の私に課せられている任務はこの三つ。これを繰り返すだけの単調な日々。しかしそれにも飽きて来た。この単調な日々が私の心身を癒したのか、若しくはさらに蝕んだのか、何にせよ、私は外に出たいと思った。数日着ていた部屋着を脱ぎ、まだ段ボール箱の中で眠っている私服を引っ張り出し、それに着替える。化粧台の前に座って数日振りに化粧をしようと試みるが、それは断念した。こうして最低限の準備だけ済ませると、最低限の手荷物、つまりは自宅の鍵だけ持って、私は一週間とちょっと振りに家の外へ出た。

 外に出た私は、まず最初に、日差しの強さに驚いた。エアコンの効いた部屋にこもり切りだったせいで、今が真夏だということをすっかり忘れていた。時折吹く風が多少の救いになるかもと期待したが、それも生温かく、一瞬で心が折れそうになった。しかしそれでも、どこかに行きたいという想いの方が強く、私は、行き先を決めずに歩き出した。

 思い出と共に家の周辺をブラブラと歩くこと数分。幼い頃によく遊んでいた公園に辿り着いた。ブランコと、滑り台と、鉄棒しかない、それなのにやたらと広い公園。そんな公園の奥には、地続きで自治会館が建っている。簡単に言うと、公園内に自治会館があるのだ。そして公園の左側には、大きな平屋が建っている。この平屋は一般の家で、公園の土地と平屋の土地とは背の低いブロック塀で仕切られており、一直線に並ぶブロック塀の真ん中辺りには、西部劇に出てくるスイングドアくらいの大きさの錆びた鉄の門扉が備わっている。この公園で友人や妹とバドミントンをした時は、決まって一回はシャトルがブロック塀の向こうに落ち、その度に、誰かがブロック塀をよじ登り、そそくさとシャトルを回収したものだ。私はそんな記憶を思い起こしながら、引き寄せられるように鉄の門扉に歩み寄り、そしてその前で立ち止まった。塀の向こう、視線の先に立つ大きな平屋。ここには、ついさっき想起したバドミントンの思い出より、もっと濃い思い出がある。


 ……私がこの平屋に初めて招かれたのは、小学校五年生の時だった。その当時、この家には一頭のゴールデンレトリバーがいた。彼は大体、平屋の玄関脇に設置されている犬小屋に鎖で繋がれていたのだが、私たちが下校してくる時間帯には、丁度遊びの時間なのか、散歩の時間なのか、この門扉から平屋に辿り着くまでに広がる大きな庭を自由に駆け回っていることが多かった。私たちはそんな彼を、毎日この門扉から見つめていた。するとある日、平屋の家主であるおじさんに声をかけられた。「コイツと遊びたいのかい?」と。友人たちはすぐに、「うん」と答えた。それ以降、近所の友人たちは、帰り道に彼と遊ぶことが日課になった。私を除いて。何故なら、おじさんに誘われた当日、私はたまたま熱を出していて、その場に居合わせなかったからである。私は初め、友人たちが許されているのだから、私も許されるだろう。くらいに思っていて、友人たちと一緒に門扉を抜けようとした。しかし、それは叶わなかった。それを阻んだのは、おじさんでも世間でもなく、友人たちだった。


「あの日、ゆいちゃんいなかったじゃん」

「さそわれてない子はダメだよ」


 都合がいい時だけルールを盾にする。無邪気で無知な子どもにも、残酷さの種は既に宿っていたのである。何もない私に唯一あった友人も、ここで失くなった。

 私が疎外されてから約一週間後のこと。あの日は雨が降っていた。友人たちは帰路を急ぎ、彼と遊ぶことはなかった。当然私も真っすぐ家に帰るつもりだった。しかし気付けば私は、門扉の前に立ち、彼を見ていた。すると、


「お嬢ちゃん、帰らなくていいのかい?」


 恐らく正門から帰宅したであろうおじさんが、門扉の前に立つ私に気付き、歩み寄り、そう問いかけて来た。そして、


「今日、アイツと遊ぶのは難しそうだから、特別に、家の中にいる友達を見せてあげようか?」


 と続けた。この時は私の中でも、地元でも、優しいおじさんとして有名だった彼の誘いに乗り、私は平屋に上がった。

 玄関から居間までは廊下が一直線に伸びている。その廊下の左右には一つずつ部屋が備わっているのだが、二つの部屋には何一つ物が置かれていなかった。居間には流石にちゃぶ台とテレビが置かれていたが、それ以外は何も無い。そんな居間の左方にはおじさんの寝室、真っすぐ奥に抜けると台所があり、その更に奥には風呂場があった。そしてお目当ての「友達」がいる部屋は、台所に入って左方に位置していた。


「この部屋だよ」


 おじさんがそう言って襖を開くと、一面に真っ黒い光景が広がる。おじさんはその黒い空間に手を差し入れると、空間を右に向かって裂き、中に入って行く。どうやら襖を開けてすぐに暗幕が引かれているらしい。


「さぁ、おいで」


 暗闇の中で暗幕を捲ったままのおじさんが私を誘う。私は小さく頷き、部屋に踏み入る。部屋の造りはおじさんの寝室と同じ八畳ほどであった。ということは、部屋の奥には縁側に繋がる障子があるはずなのだが、そこに障子は無く、その代わりに、暗幕が引かれていた。暗幕は、右の壁にも左の壁にも同様に引かれていた。つまりこの部屋は、おじさんが後天的に作り出した簡易的な暗室なのだった。その全貌を目にした私は、全身に鳥肌が立つのが分かった。それが未知に対する恐怖の鳥肌なのか、或いは、興奮の鳥肌なのかは分からなかった。


「それじゃあ、少し前に進もう」


 おじさんはそう言うと、暗幕から手を離した。すると部屋は一瞬にして真っ暗闇になる。おじさんは私の手を取り、一歩、また一歩と前進する。私はそれに倣い、一歩、また一歩と進む。この時私の視界には、おじさんの背中が薄っすらと映っているだけだった。そしてもう数歩前進すると、突然おじさんが立ち止まり、間もなく、目の前がぼんやりと明るんだ。おじさんがフロアライトを点けたのである。そのフロアライトの傍には、成人男性一人がすっぽりと収まるくらい大きな水槽が置かれており、その中には、それに見合わない、一匹の小さく細長い緑色のドジョウのような魚が泳いでいた。


「こいつが、君だけに見せる、特別な友達だよ」


 これが、私が初めて平屋に招かれた日であると同時に、私が初めて友達と出会った瞬間であった。


「こいつは雨の日が好きみたいでね、雨が降るとこうやって、元気に泳ぎ回るんだ。それと、人の話を聞くのも好きみたいでね。話し掛けると、嬉しそうにクルクル回るんだ。なぁ? 見せてごらん」


 私の方を見て話していたおじさんは、説明を終えると一言だけ、友達と呼ばれた魚の方を向いて声を掛けた。すると友達は、大きな水槽の中でこじんまりと、無限を描くようにクルクルと泳いだ。私は瞬く間に、友達が描き出す無限の二つの渦に惹き込まれた。


「面白いだろ? お嬢ちゃんが良ければ、また雨の日、ウチに来ていいよ。そしたらその時は、こいつにいっぱいお話を聞かせてやってくれ」


 私は小さく頷いてみせた。こうしてこの日以降、私は雨の日にだけ、おじさんの家を訪れるようになった。そしてそれと並行して、私の身の回りで不思議なことが起こるようになった……。

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