花天月地【第104話 晴れの都】

七海ポルカ

第1話




洛陽らくようの街が見えました」



 外から声が掛かり、馬車の中の卓に地図を広げて話していた陸議りくぎ徐庶じょしょは顔を上げ、窓を開いて外を見た。

 覗く、丘を幾つか越えた合間に、確かに洛陽の優雅な全景が見えた。


「……綺麗な街ですね」


 思わず、穏やかな陽の光の中に佇む都市を見てそう呟いたが、それを聞いて対面に座っていた徐庶がくす、と笑ったのが分かった。


「行きも側を通ったけど、さすがに眺める余裕は無かったかな」


 確かに洛陽の側を涼州遠征に出発した行きに通ったのに、陸議の街には今、初めて見る印象で入って来た。

 一瞬何故かなと思って、行きはそれどころではなかったのを思い出す。

 思わず陸議は赤面した。


「その節は大変失礼を致しました」


 声を出して徐庶が笑った。


「いいんだ。気にしないで」

「はい……」


「確かに大変だったけど、あれで気づけたよ」


「えっ?」


「君は俺より年下だけど、俺なんかよりずっと強い意志と覚悟で涼州遠征に従軍している人なんだって。

 あの出来事がある前までは、君のことはまだあまりよく分かってなかった。

 大人しく、ただ司馬懿しばい殿の命令だけに従う人かと。

 でも違う。

 君は魏軍や、司馬懿殿のために自分が何を出来るか、常に自分で考えて行動する人だ。

 君に比べれば、俺の方が遥かにいい加減な気持ちで洛陽の側を通ってた」


「いえ、そんなことは」

 陸議は首を振った。


「徐庶さんは長安ちょうあんで行政に携わっていらっしゃったのに、急に涼州遠征に抜擢されて、戸惑いがない方が不思議です」


「……」


 徐庶がもう一度、外の景色を見た。

「あの頃は、また自分が無事に洛陽に戻って来るなんて、想像も出来てなかったよ」

「徐庶さん……」

「涼州遠征で自分が何をすべきかさえ、分かってなかったからね。

 命じられることをひたすら果たしても……そこに何があるのかさえ」


 従軍した将官も兵も、皆そうだ。

 命じられた役目を果たすだけ。

 そうすることで戦場の、個人としての勝利と充足感が得られる。


 徐庶だけが、

 魏軍の中で違う動きをしていた。

 それは彼が命じられた命令を果たすことに徹しなかったからそうなったのだ。


「徐庶さんは涼州遠征の中で黄巌こうがんさん……馬岱ばたい殿との友情に一番重きを置かれて行動されていました。

 そう自分で決められることで、自分の成すべきことが定まったのだと思います。

 貴方の助力で馬岱殿は今も生き延びておられます。

 あの方が貴方同様に、戦よりも平和を愛するお人柄であることは私にも伝わって来ました。

 郭嘉かくか殿は、馬岱殿のような方は戦時だけでは無く平時でもまた、果たせる役割は大きいと仰っていました。

 私もそう思います。

 貴方が今回友情に尽くしたことは間違っていなかった。

 だから貴方も、馬岱殿も、今もこうして生きている。

 たった一人でも、正しい道を選ばれた」


 徐庶が陸議を見る。


「郭嘉殿が貴方を江陵こうりょうへ伴われることをお決めになったのは、それが理由かと」


「……ありがとう。

 軍というものは一人一人が人間として正しい道を歩めば、それで万事が上手く行くというわけではないことは俺にも分かっているんだ。

 江陵で、郭嘉かくか殿が同じように友情に尽くすことを俺に求めてるわけでは全然ないことだけは理解してる。

 江陵でこそ魏の者として冷静に考え、行動出来るかを見定めようとしてるんだと思う」


 陸議は息を飲んだ。

 そこまで現時点で徐庶が察しているとは思わなかったからだ。

 そこまで分かっているのなら、江陵で徐庶が郭嘉の意にそぐわないことをする時は、相当な覚悟でするということになる。


 それを許すか許さないかは全て、郭嘉の判断だ。


 徐庶は、魏で何か望み通りのことを成すために、

 郭奉孝かくほうこうだけは避けては通れないと言っていた。


 郭嘉と徐庶は本気で江陵で遣り合うつもりなのだ。


 ――自分の未来を懸けて。


 魏の戦場でこれからは生きていくと心に決めた陸議は、魏の未来において郭嘉が果たすべき使命の大きさをよく理解していた。

 郭嘉だけは例え自分が死んでも守り、許都きょと曹丕そうひと司馬懿の許に帰還させなければならない人物だ。

 だから徐庶の背景にどれだけ同情しても、徐庶の行うことに感情で肩入れすることは決して許されなかった。


 しかし徐庶も、郭嘉が寛大さも冷徹さも持ち合わせた人物と理解した上で、自分を偽らず、律することも怠らず、全てを曝け出して相対しなければならない。



 陸議に出来ることは、無事に徐庶が江陵から帰還することをただ祈るだけだ。


 

 郭嘉が徐庶に求めるものは単なる忠義でも、有能さでも無い。

 野に例え解き放っても魏に牙を二度と剥かない人間か、それを見定めようとしている。

 大望や、逆にどこまで望みを捨てられる人間かも見るつもりなのだ。


 優秀さと、愚かさ、どちらもを。


 それが魏に祟るか、祟らないか。

 郭嘉の刃の理由はそれで決まる。


 

「君は俺に言ってくれたよね。自分の心を、俺は取り繕うべきではないと」



 陸議が徐庶を見る。

「俺もそう思うよ。俺のような人間は自分を取り繕えば取り繕うほど、他者に警戒されて他者からの信頼を失う。

 今回の涼州遠征で、君が俺に言ってくれた言葉で、俺が窮地から救われたことはたくさんある。君がいなかったら俺は多分、涼州で死んで今ここにはいなかっただろう」


「徐庶さん……」


 徐庶は馬車の中に射し込んで来た穏やかな陽射しの中で微笑った。


「大丈夫。救われた命を無駄に投げ捨てたりはしない」


 陸議はそれが、涼州遠征で自分が彼に投げかけた『生きて欲しい』という言葉の答えなのだと気付いた。


「あの時は君の言葉に何も返せなかったけど。

 ようやく返せた。

 大した、答えじゃ全然ないけどね」


 そんな風に徐庶が苦笑したので、陸議は慌てて首を振った。



 穏やかに長安ちょうあんで日々を暮らしていた徐庶を、

 表舞台に無理に引きずり出した、その要因を作ったのは自分だ。

 徐庶にはとても言えず口を閉ざしているが、その負い目が陸議はある。


 だからそういう理由にも関わらず徐庶が、絶望の涼州遠征を生き延びて、生きるために必要な光明のようなものまで見つけてくれたとしたら、とても嬉しいのだ。


 人の人生を、己の手の中でどうにかしようとするなんて間違っている。


 人としての喜びは、他人が、自分の予想もしない方法で、

 彼らの幸せに辿り着いてくれることだ。



 涼州遠征では、生き延びてくれることを徐庶に願った。

 江陵では郭嘉の慧眼に耐えきって、生きて戻って幸せになって欲しいと祈った。



 ……彼は少しだけ、背景が龐士元ほうしげんに似ている。




(どうか幸せになって下さい)




 外の景色を頬杖を付いて眺めている徐庶を見つめて、優しい表情で陸議はそう祈った。




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