春めく

作倉

第一部 藤棚の宅

(序)

 昭和九年、東京市——。


 柳並木もようやく芽吹きはじめた、土曜の昼下がり。銀座にほど近い映画館の客席は、幕間の人いきれに包まれていた。大声で笑う詰襟の学生たち、肩を寄せあって小冊子を覗き込む老夫婦、子どもを追いかける母親。みながそれぞれの熱をおび、開演のブザーを待っている。


 色とりどりの粒が、雑多にうごめく場内。その末席に、手元のビラ束を開いてはたたみ、あるいは銀幕のカーテンを見やってはまた視線を落とす、ひとりの女の姿があった。

 彼女——前野亮子りょうこは、日比谷の小さな商社に勤める職業婦人である。切れ長の目元に鼻筋が通り、すらっとした長身の二十七歳。しかし、萌黄の飾らないワンピースとつつましく結ばれた黒髪とは、そのレヴュー女優のような容姿をどこか抑えつけているようでもあった。周囲に、連れらしき人影はない。


 館内の灯が落ちた。鳴りわたるファンファーレにつづいて、大音響で銀幕いっぱいに広がる物語。美男美女が恋に落ち、笑い、闘う。目の前の世界が現実から遠ざかるほどに、彼女の感覚はとろけていった。


 足早に映画館を出たとき、街にはもう夕闇が迫っていた。柳の下、人ごみの流れに身を任せて四丁目の交差点に至ると、亮子はおもむろに時計台をあおいだ。なまあたたかい湿り気が、顔に触れて流れ落ちた。

 信号の赤い光を、ぼうっと見つめながら待つ。すると不意に、人の雲霞に埋もれ、呑まれていく小さな自分の図像が頭をよぎった。

 薄墨色を増した空から、かすかな雨粒が舞いはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る