春めく
作倉
第一部 藤棚の宅
(序)
昭和九年、東京市——。
柳並木もようやく芽吹きはじめた、土曜の昼下がり。銀座にほど近い映画館の客席は、幕間の人いきれに包まれていた。大声で笑う詰襟の学生たち、肩を寄せあって小冊子を覗き込む老夫婦、子どもを追いかける母親。みながそれぞれの熱をおび、開演のブザーを待っている。
色とりどりの粒が、雑多にうごめく場内。その末席に、手元のビラ束を開いてはたたみ、あるいは銀幕のカーテンを見やってはまた視線を落とす、ひとりの女の姿があった。
彼女——前野
館内の灯が落ちた。鳴りわたるファンファーレにつづいて、大音響で銀幕いっぱいに広がる物語。美男美女が恋に落ち、笑い、闘う。目の前の世界が現実から遠ざかるほどに、彼女の感覚はとろけていった。
足早に映画館を出たとき、街にはもう夕闇が迫っていた。柳の下、人ごみの流れに身を任せて四丁目の交差点に至ると、亮子はおもむろに時計台をあおいだ。なまあたたかい湿り気が、顔に触れて流れ落ちた。
信号の赤い光を、ぼうっと見つめながら待つ。すると不意に、人の雲霞に埋もれ、呑まれていく小さな自分の図像が頭をよぎった。
薄墨色を増した空から、かすかな雨粒が舞いはじめた。
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