窓辺に咲いた幻の虹
サンキュー@よろしく
【三題噺】「不思議」「左右」「幻」
僕はバイト先のカフェでカウンターに肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。雨上がりの薄曇りの空は、どこか物憂げな気分にさせる。
そんな中、カフェの窓側の席には、いつものおばあちゃんが座っていた。ブレンドコーヒーを一杯だけ頼み、いつも決まって窓の外、隣のオフィスビルを見つめている。彼女は常連さんで、毎日同じ時間に来て、同じ席に座る。来るたびに「あら、今日もいいお天気ね」と話しかけてくれるのが、僕にとっての日常の風景だった。
僕はいつものように、心を込めてブレンドコーヒーを淹れ、席に運んだ。
「お待たせしました、いつものブレンドです」
おばあちゃんはいつものように、にこやかに笑い、カップを受け取った。
「ありがとう。あなた、今日も元気そうね」
その言葉に、僕は思わず口を開いた。この数日間、ずっと気になっていたことだった。
「あの、もし差し支えなければ、お聞きしてもいいですか?」
おばあちゃんはゆっくりと僕の方に顔を向けた。その瞳は、いつもと同じく穏やかだった。
「なあに?」
「おばあちゃん、いつも窓の外を見ていらっしゃいますが……何か特別なものでも見えるんですか?」
僕の問いかけに、おばあちゃんは一瞬きょとんとした後、ふふっと小さく笑った。
「あら、そんな風に見えたかしら?」
「はい。なんだか、ずっと何かを探しているような……僕には、そう見えるんです」
すると、おばあちゃんは少しだけ身を乗り出した。テーブルの上のカップから、温かい湯気が立ち上る。
「そうね、探していると言えば、探しているのかもしれないわね」
彼女は窓の外を指さした。隣の、何の変哲もないオフィスビルだ。
「あなた、この窓から見えるあのビル、何か不思議なものに見えることはない?」
「え、特に……普通のビルですよね?」
ガラス張りの壁が太陽の光を反射して眩しい時もあるけれど、それ以外に特筆すべきものはないはずだ。
「そうね、普通のビル。でもね、光って不思議なものなのよ」
おばあちゃんは目を細めた。その視線は、僕の知らない遠い場所を見つめているようだった。
「たとえば、太陽の光が水滴に反射して屈折することで虹ができるでしょう? あれは、太陽と観測者と水滴が一直線に並んだ時にしか見えないのよ。だから、人によって見える虹の形は少しずつ違うの。自分だけの虹なのよ」
僕は初めて聞く雑学に、へぇ、と感心した。僕たちが普段見ている虹も、実は一人ひとりのオリジナルだなんて、想像もしていなかった。
「へぇ、そうなんですね。知りませんでした……僕、今までずっと同じものだと思ってました」
「そうでしょう?—世界は知らないことだらけよ。そして、このビルにもね、ある条件が揃うと見える『幻』のような光景があるの」
「幻ですか?」
僕はおばあちゃんの話にすっかり引き込まれていた。好奇心が、僕の心をくすぐる。
「ええ。特定の時間、特定の光の角度、そして特定の場所からじゃないと見えない、私だけの『幻の虹』よ」
おばあちゃんは、亡くなった夫とよくこのカフェに来ていたと話してくれた。その夫が、ある日この光景を見つけ、二人で「希望の虹」と名付けたのだという。
「夫がね、『もし俺がいなくなっても、あの光を見たら、俺が側にいるって思ってくれ』って言ったの。だから、毎日ここで待っているのよ……」
その「幻の虹」は、日の傾き、雲の有無、そして見る場所がほんの少し「左右」にずれるだけでも、現れたり現れなかったりするという。だからおばあちゃんは、毎日同じ席に座り、じっとその時を待っているのだと。その話を聞いて、僕はおばあちゃんの行動に納得がいった。
数日後、空が突き抜けるように晴れ渡った午後だった。おばあちゃんはいつもの席に座り、窓の外を見つめていた。僕がおばあちゃんのコーヒーを出し終えた、その時だった。彼女は突然、興奮したように指をさした。
「見て、あれよ!」
僕は急いで窓の外を見た。隣のビルの特定の窓に、太陽の光が反射している。その反射した光が、カフェの壁に複雑な模様を描き出していた。それは単なる反射光ではない。まるで、無数の小さなプリズムを通したかのように、七色の光が揺らめいている。壁に現れたそれは、まるで生きているかのように瞬き、そして脈打つ……まさに「幻」のような美しさだった。
「本当に……すごいですね!」
僕は息をのんだ。これまで何百回も見てきた窓の外なのに、こんな光景があったなんて、全く気づかなかった。
「これが、私の夫が見せてくれた『幻の虹』よ。本当に不思議でしょう? 特定の角度、特定の時間、特定の場所からじゃないと、こんな風には見えないの」
おばあちゃんの目は、僕が今まで見たことがないほどに、少女のように輝いていた。
「私たち夫婦はね、この光を見ては、二人で夢を語り合ったのよ。あの光は、希望の光だって」
おばあちゃんは満足そうに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。そして、僕の立っているカウンターの、真後ろにある壁を指さした。
「この光は、実はね……」
僕が振り返ると、その壁には小さな飾りが掛けられていた。それは小さなガラス製のオブジェで、僕が毎日、当たり前のように目にしていたものだ。
「あのビルの窓から反射した光が、さらにそのオブジェに当たり、屈折してこの『幻の虹』を作り出しているのよ。あなた、毎日その光の源のそばにいたのに、気づかなかったでしょう?」
「えっ!?」
まさか、毎日目にしていたオブジェが、こんなにも美しい、特別な現象を生み出していたなんて……。
おばあちゃんは、僕の驚きぶりに目を細めて、にこやかに笑った。
「人生って、そういうものよ。大切なものって、案外すぐそばにあるのに、気づかないことが多いの。でもね……少し視点を変えたり、誰かの言葉に耳を傾けたりするだけで、世界は全く違う色に見えるようになるわ」
「……はい」
僕は、おばあちゃんの言葉を胸に刻んだ。その日から、僕はそのオブジェを見る目が変わった。そして、おばあちゃんが来るたびに、僕はその「幻の虹」が現れるかどうかを意識するようになった。
おばあちゃんとの会話と、その「幻の虹」は、僕にとって、日常に隠された「不思議」と「希望」を教えてくれた。世界は、僕が思っていたよりもずっと、美しく、そして奥深い。そんなことを、おばあちゃんは僕に教えてくれたのだった。
窓辺に咲いた幻の虹 サンキュー@よろしく @thankyou_
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