第7話 王佐の才 1

 荒涼とした荒れ地、軍馬に踏み荒らされ、塩を撒かれた農地。その上に横たわる累々たる屍の山……

 死者のほとんどは一般の領民のようだ。壊れた農具、家財をまとめて逃亡を図ろうとしたのだろうか、荷車には家財らしきものの一部が残っていた。しかしそれは略奪の取りこぼしに過ぎない。裂かれた袍、打ち捨てられた割れた櫃、踏み潰された行李。

 耳障りな鴉の声が辺りを支配し、野犬が群れなし、死臭が立ちこめていた。

 玄徳は顔をしかめ、その惨状を眺めていた。その傍らには義弟たちやその配下、そして彼らを従えてきた田楷の姿。

「……これが曹操という男の所業だ」と低い声で田楷が玄徳に告げた。


 公孫サンと袁紹の戦いは長らく続いていた。伯珪は袁紹の弟である袁術と同盟を結び、さらに袁紹の背後を突ける位置の徐州に領を構える陶謙とも手を結んでいた。本来ならば一気呵成に袁紹を攻めることも出来たはずだが、そうはならなかった。

 陶謙が別の敵を相手にしていたからだ。

 その敵とは曹操だ。その戦端が開かれる前には徐州は比較的安全な場所として、他の州からの避難民なども多かった。曹操の父親曹嵩もそのうちの一人だったのだが、曹操がエン州に本拠を築いたため、家族を伴って戻ろうとしたところを殺されてしまった。陶謙が護衛のために派遣した張ガイが、彼らの私財に目が眩んでしまったのだ。張ガイは彼らを殺して財産を奪って逃亡し、陶謙はそれを捕えることができなかった。

 曹操は名目上、張ガイとその主であった陶謙に対して、父の仇を討つためとして出兵した。しかしどれほど孝を重視する風潮だったとは言え、私怨での出兵を良しとするものだろうか、そして果たしてその行軍途中に虐殺に手を染めるものだろうか……


 陶謙は初老の男で、字は恭祖と言った。援軍として現れた田楷たちを見ると、少なからず失望した。もっと大軍を当て込んでいたのだ。だが、公孫家は袁家との戦いの最中、割ける人員は多くはなかった。

 初平四年秋。

 曹操の攻撃は熾烈で、徐州内の十を超える城を落とされるほど陶謙は負けが込んでいた。陣を奪われる虚しさと、領民が傷つけられる痛みと。曹操は道義を盾に強く攻め立て、徐州軍は士気が下がっていた。その中で現れた援軍に希望をかけたのだが。

 陶謙は田楷から紹介を受けた劉備なる人物をまじまじと眺めていた。噂によると幽州の片田舎で侠の頭目だったという。その噂の通り、砕けた印象の男だった。華美な装身具を身に着け、派手な女物の衣を肩にかけて粋を気取る。

 これは使えぬ、と陶謙は心中で呟いた。

 それでも盟友公孫サンから遣わされてきた援軍だ、それなりに扱わなくてはなるまい。彼はそう思うと田楷ともども、自分の幕舎の中に彼らを招き入れた。幕舎の中では既に配下の将たちが広げられた地図を見下ろしていた。

「親父殿、そちらは……?」と陶謙の息子の商と応が劉備を見やる。やはり彼らも現れた援軍がこの侠風情と知って失望を隠せてはいない。

「へへ、手前ぇ、生国は幽州タク県楼桑村の劉玄徳、以降お見知り置きを」と意に介さぬ玄徳は砕けた様子で自己紹介、周囲の将たちは無意識に眉をひそめた。田楷は慌てて劉備を軽く小突き、

「伯珪殿のご学友だ」と付け加えた。その言葉が冷えたその場の空気を温めたとはとても言えない。劉備を半ば無視する格好で恭祖は咳払いを一つして、

「まずは現在の状況だ……」と戦況の説明を始めた。


 玄徳は状況の説明を聞き終えるとその場を下がった。陶謙は彼を大して重要な拠点を守るためには使わず、適当な仕事を与えるに止めた。要するに、宛にはしていないのだ。しかし玄徳はそれを気に留めた風でもなく、仲間が待つ焚き火に戻ってくると、どっしりと腰を下ろした。彼の周りに自然と人が集まってくる。

 季節は秋、火の周りに腰を下ろした男たちは玄徳が口を開くのをじっと待った。彼の両側には義弟の関雲長と張益徳、簡憲和、そして趙子龍とその従弟の子実。他に兵士長などが連なる。玄徳は地面に棒切れで略図を書いている、それはどうやら地図のようだった。

「恭祖の親父さん、随分と城を落とされちまったもんだなあ……」と玄徳が低い声で呟いた。

 地面の上の地図を覗き込んでいた雲長が、

「曹操は戦上手と噂に聞きます」と告げる。

「ああ」と玄徳は頷いた。「……しかし、解せねぇなあ……」

 玄徳の言葉に隣りにいた益徳が、

「へぇ? 何が解せねえって?」と尋ねた。

「城を十数個も落とす勢いだ、兵士の数もそれなりにいるだろう? 城を落としたのは収穫よりも前、つまり、大して城の食料庫も潤っているたぁ、言い難い。恭祖の親父にはちゃんと確かめちゃあいないが、徐州の今年の収穫は戦のせいでボロボロだろうさ。……となりゃぁ、曹操の奴、どこから兵士の飯を引っ張ってくる?」

 少し下の手で火に当たっていた子龍が、

「曹操の本拠はエン州でしたが……」と口を挟んだ。

「ああ、そうだ、が、奴さん、エン州を全部治めているわけじゃねえ。それに…… エン州はそんなに豊かとは思えねえ」

 夜の中、焚き火の火が揺らめきながら周囲に座る者たちの顔を照らす。その中で意味ありげに雲長が頷いた。

「エン州は近年不作続きで、随分と荒廃していると聞きました。司隷に近いところは度重なる戦乱で領民が逃げ出し、土地を耕す者も少ないと……」

「だろう?」と玄徳。「てぇことは、他に支援があるってぇことさ」

 焚き火の周りの男たちは頷いた。そこで玄徳は地面の一点を棒で突いた。

「徐州の陶謙がもしも曹操と戦っていなければ?」

「無論、公孫殿の援軍として戦線に加わっていたでしょうな」と雲長。

「それだ。袁紹にとっちゃぁ、徐州は頭痛の種だ。伯珪と遣り合ってるときに背後を突かれる。それを避けるには陶謙に別の敵を当てる、そういうこったぁ」

「……なるほど」と雲長。「……つまり、兄者は袁紹が曹操の援助をしていると考えておいでなのですな?」

 玄徳は大袈裟な物言いに肩をすくめて、

「そのくらいしか、ねぇだろう?」と応じた。「袁紹の奴、極秘裏に曹操に支援物資を送っているに違えねぇ。そいつを断たねぇ限り、曹操の攻め手は緩まねえよ。恭祖の親父は実は袁紹と曹操の二つの軍を相手にしてるようなモンさね、挟撃みたいなもんだ」

 子龍は彼の言葉にじっと耳を傾けていた。袁紹は徐々に力を盛り返し、既に彼の故郷の常山は公孫家の領ではなく、すっかり袁家に取り戻されていた。袁家と直接対決すれば、彼と同郷の幼馴染たちが敵軍に見え隠れする、そうなれば彼の配下の士気は下がる。それもあって彼らの隊は劉備を守護しながら徐州にやって来たのだ。

「……では、どうやってその支援を断ち切りますかな?」と雲長が尋ねた。「人を配して物資の搬送路を調べましょうか?」

 玄徳は困ったように苦笑を見せて、

「おいおい、冗談じゃねえよ、このだだっ広い河南のどこに人を配置するって? 兵士がいくらいても足りねえよ。だからって、袁家に間者を潜り込ませるなんざぁ、危険極まりねえしなぁ」と言って顔を憲和に向けた。「よお、憲和」

「へえ?」と焚き火に当たっていた憲和が目を上げる。

「俺はまだ、平原の相だよな?」

「ああ、そうだよ、親分」

 玄徳は少し物思いに耽り、それから口を開いた。

「袁紹に息子がいたよな…… そう、二十歳前後くらいの……?」

 憲和はきょとんとしたまま、

「ああ、確かいたような…… で?」

「孝廉に推挙する」と玄徳はあっさりと言った。

「は? はいぃ?」

 憲和は目を丸くした、親分は敵であるはずの袁紹の長男を孝廉に推挙するなどと言い始める。

 良い官位に就けるかどうかはすべて郷里の評判次第のこの時代にあって、孝廉に推挙され、高い評価を受けることは非常に重要なことだった。

「どういう風の吹き回しだい、親分?」と憲和が尋ねて返す。

「ほれ、奴さん、ちょっと前に劉何某って御仁を帝に推そうとしていただろう?」と玄徳。

「ええ、劉……?」

「劉伯安殿のことですね?」と子龍が助け舟を出した。

 劉虞、字を伯安、漢王室に名を連ねる人物だ。袁紹は劉虞を帝に据えて董卓に対抗するつもりだったのだが、本人が固辞したため、その計画は頓挫していた。劉虞は伯珪とは対異民族外交的立場が合わず、袁紹派寄りだ、そのため幾度か小競り合いを繰り返していた。

「ああ、思い出したよ」と憲和も頷いた。

「さすがの袁家も劉姓には弱ぇと見える。そこをくすぐってやるのさ!」と劉備は言った。

 そこで子龍は、どうして玄徳が光武帝の後裔の劉虞と自分とを同列に扱っているのか、不思議に思って首を傾げた。その様子に気付いた憲和が、

「親分はさぁ、こう見えて中山靖王の後裔なんだぜ」と耳打ちした。

「は? ええ?」と子龍が思わず声を上げる。

 玄徳はからからと笑い、

「こう見えて、は余計だぜ、憲和!」

「ちっ、聞こえてたか」と憲和は応じ、火の周りの一同は軽く笑みを漏らした。

「何でもいい、どうにかして袁紹と口を聞けるようにするんだよ」と玄徳は言った。


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