浮草稼業
たまぞう
第1話 常山から来た男 1
強い風に煽られた雲が形を変えつつ空を流れていく。耳元で唸る風の音の向こうで遠雷のような音が轟いている。敵の蹄の音だ。
敵の兵士の数は五百ほどだろう、対する彼らはその半分にも満たない。しかしそれでも彼らは逃げるわけには行かなかった、彼らの背後には直に収穫を迎える畑と農民たちがいるのだ。
男は白馬の背に跨り、副官である従弟や私兵たちと共に丘の斜面を駆け下りていく。
「右手に回れ!」と彼は叫んだ。
おう、と仲間たちが返事をしながら馬を右へと展開していく。敵の異民族は馬の扱いが巧い、領内に入れずに押し返せればまずは成功と言える。完全勝利は拝めまい、それは彼の配下の兵士の数の少なさに原因がある。彼我の戦力差は明らかだ。
彼は馬の尾を赤く染め上げた穂飾りを翻しながら、鋭く槍を突き上げた。
「この先はお前たちの来るべき場所ではない! 帰れ!」
敵の異民族の隊長と思しき男がその挑発に憤って馬を寄せてきた。
「吾は欽栄盛、この隊の隊長だ。漢人よ、貴様の名は?」と烏丸族の男は刃幅の広い刀を振り被った。
「常山の趙子龍!」
応じるが早いか、二人は馬をぶつけるような勢いで肉薄し、欽栄盛の刀が趙子龍の肩口を袈裟懸けに狙いすまして振り下ろされる。しかし子龍も黙ってはいない、馬を飛び退らせてその刃をかわすや、槍の穂先を鋭く突き込む。栄盛はうっと短く呻り、一歩退いたが、その左肩には槍の傷跡が残り、ぱっと花咲くかのように血が飛び散る。
「やるな、漢人め!」と男は短く言い、「喰らえ!」
彼らは数合にわたり攻防を繰り広げ、数の多さに油断している異民族の男たちは隊長の動きにやんやと声援を送り、その隙に子龍の配下たちは副官の指示に従って丘陵地の稜線に身を隠しながら馬を移動させていた。
栄盛は配下にも信が厚いのだろう、兵士たちは息を呑むように彼を見守っている。対する子龍は動きに花があり、敵でなければ彼らも心を奪われたに違いなかった。彼らの一騎打ちは兵士たちの視線を釘付けにしていた。しかし、いつまでも続ける訳にはいかない、先に焦れたのは肩口に小傷を喰らった栄盛の方だった。馬を寄せるや、一声叫んで威圧し、刀を高く振りかぶった。
だが、大仰に揮った刀の刃は空を切り裂いた。子龍が馬から落ちんばかりに身をかわしたのだ。栄盛はその隙を突いて更に刀を振り下ろす。しかし子龍は馬から身を乗り出した不安定な姿勢のまま石突で地を叩き、その反動で体を起こしながら、槍棹をしならせて栄盛を突き上げた。
棹が呻りを上げ、赤い穂飾りが激しく閃く。その鋭い突きは狙い違わず栄盛の喉元に突き立てられた。
「ぐぁああ!」と一声断末魔の叫びと共に血飛沫を上げるや、栄盛の体は地面に転じた。
隊長の敗北に慌ててどっとばかりに敵兵が馬を駆けさせてくる、が、既に回り込んでいた子龍の従弟は、その機に乗じて配下の兵士たちを突撃させた。
「行け!」
「おぉおお!」
両者は人馬入り乱れての戦いとなった、が、さすがに隊長を失った敵兵たちは寄る辺もなく、やがて馬を転じると、敗走を始めた。
「趙隊長!」と兵士。
子龍は近くにいた敵兵を屠り終えると、
「深追いはするな! 馬を回収してここを離れるぞ」と命じた。
どの道兵士は少ない、戦力差は如何ともし難く、残った兵士たちもここ数日の行軍で疲労の色が濃い。下手に追撃して敵に囲まれたりすれば全滅してしまう。このまま敵兵の馬を城に連れ帰れば味方の利となる。
彼は兵士たちが手際よく馬をまとめるのを監督しつつ、馬を寄せてきた従弟の顔を見た。
「さすが兄貴、どうにかなったな……」と従弟の趙繁が言った。彼の顔は以前の戦いの時の返り血で薄汚れている。自分の姿も似たようなものだろうと子龍は思った。
「ああ」と頷き、「……もう少し兵士がいればなあ」と声を潜めた。
「まったくだ」と従弟。「どうして殿は我々に兵士を任せてはくれないのだろうか?」
子龍はその文句にそっと視線を逸らす。見当はついていたが、それは従弟にもわかっているはずだ、敢えて答える言葉はなかった。
「よし、馬を連れて易京に帰るぞ」と子龍は配下の兵士たちに命じた。
時は初平年間、華北の幽州。度重なる隣州からの侵略や北方異民族らの略奪から身を守るため、幽州の豪族公孫サンは軍を編成していた。彼らはその軍の一角に所属していた。
子龍の生まれ故郷の常山は幽州と冀州の境にある。実際は冀州寄りなのだが、かつてからその地は両州の領地の取り合いの舞台となっていた。
幽州の公孫家と冀州の袁家。
袁家は異民族に対して穏健策を取り、公孫家は度重なる略奪に業を煮やして強硬策を取っている。袁家と同盟を結んだ烏丸族は度々公孫家の幽州に侵攻していた。
彼らが生まれた趙家は、かつて常山ではそれなりの地位があったが、今や名ばかりの凋落豪族となっていた。彼らの一族の本家筋は皆袁家寄りで、その子弟のほとんどが袁家に仕官している。
しかし彼らはその領地の農民を異民族の略奪から護るため、僅かな財を投げ打って兵士を集め、異民族への強硬姿勢を貫く公孫家へと馳せ参じたのだ。
とは言え、落ちぶれた分家の次男が、僅かばかりの父の援助で得た兵士を率いて協力しに来たのは、幽州の公孫サンにしてみれば、少々疑わしいものと思わざるを得ない。
だから兵士が少なかったのだ。
弟同然に育った従弟がそれに気付かないわけはない、彼はただ単に愚痴りたかったのだろう……
易京に辿り着いた彼は従弟の趙繁を伴い、戦利品の烏丸族の残した馬や武器の類を預けるため公孫サンを訪ねた。しかし彼らの相手をしたのは役所の文官たちだった。
陽が傾き、夕陽に染まる易京の主城の一室に呼ばれ、彼らは戦果の報告を求められた。質素な机に向かう下級の若い文官たちは、大層な表情で彼らの持ち帰った馬の数を記し、報告書を作成した、まさに事務仕事と言わぬばかりに。肩を落とした趙繁は文官を掴まえると、
「主公にご報告したいことがある、何処においでか?」と尋ねた。
書類から目を上げた若い文官は、
「申し訳ありませんねえ、主公は今、来客中なのですよ」と応じた。
その返答に趙繁は少しむっとした。子龍は従弟の肩を軽く叩き、
「仕方あるまい、子実、主公はお忙しいのだろう」と宥めた。
しかし子実は憤懣やるかたないといった態で不機嫌な表情を見せる。そんな客将たちの反応に畏れたのか、文官たちはそそくさと奥へと去っていく。それを目で追った子実は諦めると、
「とりあえず兵舎に帰ろうか、兄貴」と従兄に向かって言った。
彼らは役所を出るとゆるゆると歩いた。褒賞の申請はしたものの、配下の兵士たちに希望するほどの褒美が出るかどうかは微妙だ。
それでも夏の終わりの黄昏は輝かしく、強い風に吹き払われた雲は千切れて黄金色に染まっていた。西の空に明星が輝き、風には実りの香りが交じる、収穫の時期はもうすぐだ。
子実はむしゃくしゃしていたが、その空を見上げれば多少は気が紛れる気がした。戦功を上げたかったのは事実だが、何よりも農民や畑を守ることの方が大切だと彼は思っていた。だからこそ、従兄とともに公孫家に仕えることにしたのだから。
「子実、何を主公に申し上げようとしたのだ?」と子龍が尋ねた。
従弟は肩をすくめて、
「ああ、あれは別に……」と言いかけて言葉を濁した。そして小さく溜息を漏らすと、「はぁ、来客、来客ね」と吐き出すように言った。
「うん?」
子龍の言葉のない問に従弟は顎をしゃくって答えた。子龍が目を上げると、子実の視線の先、主城の城壁の物見にいる人影に気付いた。遠く離れていてもかろうじて分かる、その人影の一つは彼らの主、公孫サン、字を伯珪、幽州の中郎将だ。夕映えに身に着けた錦の衣が輝いて見える。そして威風堂々とした背の高い公孫サンの隣、少し隠れる位置にもう一つの人影があった。
目を上げた子龍はそのまま視線がすっと吸い込まれるかのように感じて、公孫サンの隣に立つ人影を見つめた。
遠く離れた高い位置の物見に立つ姿は遠目には確とは見えないものの、その顔には髭は認められず、さらに身に着けているのは華やかな薄紅色の衣だ。
結わずに垂らした長い髪が夕映えの中、風になびきながら燃え立つように輝いていた。風に煽られる華やかな衣、その出で立ちは芸妓か何かだろうか、長い裾が風にたなびき、紗の袖が宙を舞い泳ぐかのようだ。
「……そりゃあ、新しいお妾さんを連れていちゃあ、俺たちなんかに会えないってもんだよな」と子実は軽く鼻を鳴らした。
公孫サンは何を話しているのか、相手と心の底から楽しげに寛いでいる様子で、時折体を揺らして笑っているのが遠目にも見て取れた。
「……」
彼はぼんやりと主の横に立つ人影を目で追い続けた。
「……兄貴、兄貴……」
「……うん?」
眺めたまま、彼は子実の呼びかけに虚返事を返した。
「おい、兄貴、見つかったらまずいぜ。そんなに主公のお妾さんをじろじろ見ちゃあ……」
子龍はようやく子実に視線を戻した。
「え? あ、ああ……」
子実はぷっと吹き出した。
「おいおい、しっかりしてくれよ、兄貴。堅物の子龍兄貴が主公のお妾さんに見惚れるなんて」
子龍はばつの悪い表情で誤魔化した。
「み、見惚れてなどいないぞ? 大体、ここからじゃあ顔なんてわからないし……」
「はいはい」と応じて子実は苦笑した。「しかし、何だな、どうして……」
「どうして、男のような格好をしているのだろう?」
従兄弟は異口同音に同じ問を口にした。
公孫サンの横に立っていた妾らしき人影は妙な格好をしていた。遠目なので確信はなかったものの、肩に芸妓が身に着けるような派手な花柄の衣を掛けて、その下に軽めの具足を着けているように見えたのだ。
従弟の目にも同様に見えていたのならば、おそらくは見間違いではあるまいと子龍は思ったが、子実の見解は違っていた。堅物な子龍が他人の妾の服装まで見ているとは。具足を付けた女よりも、その方が余程驚きと言えた。従弟は思わずまた笑う。
「やれやれ、何を見ているやら……」
子龍は従弟の反応に思い至り、思わず頬を染めた。
「な、なんだ……?」
「いや、その、兄貴もそろそろ身を固めちゃあ、どうだよ?」と子実は笑み混じりに言った。「主公のお妾さんに横恋慕する前にさ?」
「ば、馬鹿なことを。斉の国の霊公に晏子が仕えたとき、女たちが男装するのが流行っていたそうだが……」
子実はにやにやと笑って、
「別にいいんじゃないか、男装くらい? 主公のあのデレデレ振りを見れば、もう討ち取られちまってるさ! あのお妾さん、さぞや戦上手なんだろうさ、閨房では」
思わず子龍は更に顔を赤くした。
「ばか、仮にも主公の妾だぞ?」
子実は子龍の言葉に笑った。
「その主公の妾に見惚れたのはどこの誰だよ?」
「だ、だから、別に、見惚れたわけでは……」
子龍は耳まで赤くなってしまった。堅物で初で純情過ぎる従兄をからかうのは面白いのだが、さすがに可哀想になってしまった。
「はいはい、これ以上見ていたら目の毒だし、さっさと兵舎に帰ろうぜ」と子実は言うと子龍の背を押し、歩き始めた。「斉の霊公じゃないが、女に男のような格好をさせるなんて、とんだ好き者なんだろうな。噂じゃあ伯珪殿はちょっと変わり者らしいぜ? いい家柄の子弟にいい官位を与えても、それが当然だと思うから十分に働かないと言ったとか言わないとか……」
従弟の言葉に子龍は応じた。
「なるほど、だから我々のような凋落した豪族を雇い入れて、賊を討つ小隊を率いさせているということか」
生真面目な子龍の平静な声音に、逆に子実は慌てた。
「お、おい、子龍兄貴、それ、言うなよ? そんな皮肉がましいこと……」
「事実だろう?」
「いやいやいや、そんなところだけ、妙に真面目になるなよ。……俺たちみたいに実績も大してない者を客将として扱ってくれるんだから、そこは文句も言えないよ」
子実の言葉に子龍は首を傾げた。
「でも、お前、さっき、文句を言おうとしたんじゃなかったのか?」
従弟は苦笑した。
「まあ、そうだけどな…… 文句、というほどのものでもないよ、もう少し兵士を回して欲しいなって……」
そこで子龍は小さく溜息を漏らした。
「それこそ、実績がものを言うだろう、子実。昔どうだったかなんて、言ってみても始まらない。働きで示すしかない」
子実は肩をすくめた。
「そうだな、そいつはわかっちゃいるんだけどさ……」と低い声で応じた。
彼らは主城の城門を出ると、兵舎に向けて更に進んだ。顔見知りの兵士たちが彼らの顔を見ると気さくに挨拶していく。子実は挨拶を返しながら従兄を見やると話題を変えた。
「……そう言やぁ、兄上は回復したのかい?」
子龍には同母兄がいる。背も高く、臥体のいい子龍とは逆に、兄は子供の頃からあまり体が丈夫ではなかった。兄は文官として袁家に勤めている、それがまた、公孫サンの不信を買っているとも言えた。
「心配ない、ただの夏風邪らしい、もう体調も戻ったようだ」と子龍は従弟に言った。
「そうか、良かった」と子実は応じた。
彼は早くに親を亡くし、子龍の父親に面倒を見てもらっていた。そのため彼ら兄弟の弟同然に育てられていたのだ。子龍は横に並んで歩く子実を見やり、しみじみと言った。
「……お前も兄上のように袁家に仕えた方が良かったのではないか?」
従弟はその言葉に少し膨れて見せる。
「何を言い出すやら。子龍兄貴を放っておけるかよ。まるで世間ずれしてないんだから!」
「ええ? そうか?」と本人は首を傾げる。
呆れた子実がさらに何か言い募ろうとしたところに、顔見知りの兵士が歩み寄ってきた。
「おう、聞いたぞ、勝ち戦だったんだろう?」
「いやぁ、勝ちってほどでもないよ。戦利品は馬と武器くらいだ」と子実が応じた。
「なんでも酒が振る舞われるらしいぞ?」と相手の兵士は言った。
「へえ?」
「まあ、お前らの勝利とばかりも言えないがなあ」
兵士の言葉に子龍が促す。
「うん?」
「主公のご学友とやらが来たんだとさ!」と兵士。「歓迎の宴のおすそ分けらしい」
「なるほど」と子実が肩をすくめる。「俺達の働きに対してってわけじゃないのか……」
「まあまあ」と子龍は苦笑した。
しかし子実は意に介さない様子で、急ににやにやとし始めた。
「……と、宴ならさっきの芸妓の舞を拝めるかなあ!」
「芸妓?」と兵士も顔を輝かせた。
「ああ、さっき主公が連れ歩いているのを見かけたよ! 主公ってば、デレデレになってたぜ」
子実は俄に元気になってきた、それを見ていると、子龍は主のことを揶揄するのを留める気にもなれなかった。
公孫サンが芸妓らしき女を連れ歩いていたという噂は瞬く間に広がった。夜にはささやかではあるが酒食が振る舞われ、兵士たちの集団のあちらこちらで芸妓の話が持ち上がった。下級の兵士たちにとってみれば、そんなわくわくするような噂話に花を咲かせるくらいしか、大した娯楽らしい娯楽もない。
夜もやや更け、そろそろ酔いが回ってくる頃になると、兵士たちは主城での宴が気になって仕方がなくなってきていた。
「主公のご学友とやらはともかく、芸妓の舞が見たいよなあ!」
「そうだ、そうだ!」
酔いも手伝って配下の兵士たちが騒ぎ始める。子龍は苦笑しながらそれを宥めた。
「いい加減にしておけよ、常山の兵士はガラが悪い、なんて言われたくはないぞ?」
「ええ?」と子実が他の兵士をかき分けて歩み寄ってきた。「何を言ってるんだよ、兄貴、今日の立役者は兄貴だろう? 賊の隊長を倒したんだからな!」
「おおお!」
「やるじゃねえか」
別の隊の兵士たちも口々に囃し立てる。酔った勢いで子実は腕を振り上げた。
「常山の趙子龍、烏丸族の欽栄盛を討ち取ったりぃ!」
「おおお!」周囲の兵士たちが高らかに声を上げる。
「ほら見ろ、兄貴! みんな讃えてくれるだろう、それだけの働きをした兄貴がこんなところで燻ってるのはおかしいぜ! これからひとつ、城の宴席に芸妓とやらを拝みに行こうじゃないか!」
「おう!」
「そうだそうだ、主公に隊長の手柄を教えてやろうぜ!」
「俺も行くぜ」
酔った兵士たちは勢い騒ぎ立て、続々と子龍を囲む。
「お、おい、みんな、いい加減にしろってば……!」
子龍は普段は大していい扱いを受けていない配下の兵士たちが、酔って気が大きくなっているのがわかるだけに注意しにくい。おまけに面白がった他の隊の兵士たちまで集まって来て、彼の身をすっかり囲いこむ。逃げ場を失った子龍はそのまま兵士たちの一団に囲まれたまま、城へと運ばれてしまった。
宴は広間ではなくて主城の中庭で行われているらしく、しばらく進むと見覚えのない兵士たちが行き来したり、酒を飲んでいる姿を見つけた。中庭では肉が焼かれる香ばしい香りも立ち込め、酔った兵士たちは思わず舌なめずりをした。
「くう、美味そうな匂いだなあ! 俺たちも肉にありつきたいぜ」
「なあに、向こうの兵士に紛れ込めば、バレないよ!」
生真面目な子龍は酔った兵士たちが羽目を外し過ぎるのを警戒していたものの、主の学友の配下と思しき兵士たちはなかなかに野趣味溢れていた。
いや、むしろ、子龍の配下の私兵の方が上品に見えると言っても過言ではなかった。
相手の兵士たちはどこか凄みがあり、一歩間違えればゴロツキのような連中だ。これが主の学友とやらの護衛兵かと思えば、少々違和感が拭いきれない。
「……ゴロツキみたいな連中じゃないか……?」と兵士の誰かがこっそりと漏らす。
「主公のご学友とやらは侠の親玉らしいぜ!」と他の隊の兵士が言った。
「へえ、豪族のお坊ちゃんかと思えば、侠のお友達がいるとは、主公もやるなぁ!」
侠とはいわば地域の若者の組織集団だ。
賊の跋扈が激しい地域では自警集団となるのはもちろん、思想や学問の同士集団であったり、はたまた単なる不良少年のたまり場だったり。地域や構成員によってその活動内容は異なるのだが、いずれの場合にも共通点としては男伊達が基本とされる。とは言え多くの若者はそれを喧嘩早さや腕っ節と誤解し、組織自体が暴力的な反社会集団となりがちだった。
つまりいわゆる堅気衆とは一線を画した集団だ。
そういう目で見れば確かに兵士たちの野性味は理解出来た。子龍は配下の兵士たちと客人の兵士たちが喧嘩などするまいかと俄に心配になった。
しかし兵士たちは彼の心配などどこ吹く風の様相で、肉や酒を見ると子龍らを置いてさっさとそちらに行ってしまった。残ったのは子龍、子実、そして顔見知りの兵士たちばかりだ。
「さあて、女、女っと。主公のご内儀がお冠になっちまったとかいう、別嬪の芸妓とやらを拝みに行こうぜ」
どうやら噂に尾鰭がついたらしい。別嬪も何も、誰も顔を見てはいないはずなのだが。
「おい、勝手に入ったのがバレたらまずいぞ、子実……」生真面目な子龍はそわそわしながら帰ろうとするのだが、従弟は悪戯な表情で笑う。
「いいからいいから。兄貴は立派な働きをしたんだから、芸妓の舞くらい、ご褒美だろう?」
「そうですよ、隊長、なんだったら、かっ攫ってモノにしちまったらどうですかい?」
「ば、馬鹿、何を言い出すんだ……」
人目を避けるようにしていたものの、悪いことは出来ないものだ、そこに護衛兵を伴った公孫サンが偶然にも通りかかった。公孫サンは驚いたように子龍たちを眺め、
「おや?」と腑抜けた声を上げ、「おお、常山の……」
「あちゃ、見つかっちまった」と子実。
こうなれば妙に逃げ隠れするよりも、堂々としていたほうがマシだ、子龍は肝を据えた。しかし主はどうやらほろ酔いで機嫌がいいらしい、勝手に入ってきた彼らを咎め立てする気はないようだ。それどころか、
「聞いたぞ、今日は大層な働きだったらしいな?」と子龍に声を掛けてきた。
子龍は咄嗟に、
「烏丸族の欽栄盛を討ち取りました」と答えた。
伯珪は破顔し、
「おお、そうか、そうか、よくやってくれた! 常山辺りでは皆、こぞって袁家に仕える者が多いと言うのに、お前は私を選んでくれた、常々嬉しく思っているぞ」と言った。
子龍はその言葉に、
「私は民を守り、仁政を望むだけです。別に主公を思ったわけでも、袁家を嫌っているわけでもありません」と応じた。
「あ、兄貴!」慌てた子実が小声で制した。
伯珪はその答えにきょとんとしている。
「え? あ、ああ、そうか……」といささか酔いが覚めた面持ちで伯珪。「うむ、まあいい、配下の兵士にも酒を届けさせ……」
主の言葉を、だが、子龍は最後まで聞いてはいなかった。主の前をさっさと立ち去ると、その後方に走って回り込む。その顔は俄に怒気を帯び、眼光は雷のように鋭く……
「そこのお前!」といきり立って、彼は公孫サンの背後を歩いていた男たちに食って掛かった。
「へ?」と無視された主は間抜けな声を漏らし、
「あ、兄貴!」と子実は従兄を追い駆けた。
その男たち、一方は顎髯の大男、もう一方は背はやや低いもののがっしりとした体格の、いかにも喧嘩慣れしていそうな男。その男は肩に大きな荷物を抱えていた。荷物、いや、人間だ。
それは夕刻に見かけた芸妓のようだ、薄紅色の紗の衣がひらひらと舞っている。その体をズタ袋でも担ぐような態で、二つ折りにして尻を上に向けて肩に乗せている。垂れた乱れ髪で顔を見ることは出来ないものの、それはどう見ても、いかがわしい目的で女をかどわかそうとしている図にしか見えなかった。
子龍は怒りのあまりに顔を真っ赤にして吠える。
「貴様、その女性を降ろせ!」
「はぁ? てめえ、何言ってやがるんだ?」と相手の男は彼を一瞥した。少し先を歩いていたもう一人の髯の大男も眉をひそめて振り返る。
「この狼藉者め! 早くその女を解放しろ、さもないと……」
「さもないと、なんだ、えぇ?」
相手の男は喧嘩慣れしている、そう判断した子実は近くにいた兵士たちと共に、
「目に物見せるぜ!」と言うが早いか、従兄の助太刀に馳せ参じ、男の胴に体当たりを食らわす。
「ぐっ!」
屈強な男とは言え、肩に大荷物を抱えている、たまらず僅かに呻きを漏らして半歩退いた。
「やっちまえ!」と配下の兵士たちも続々と相手に向かっていく。
「え、益徳、これは一体、どうしたことだ?」と髯の大男は突っかかってきた子龍を咄嗟に阻んだ。
「知るかよ!」と男は一声返し、芸妓を抱えたまま片手で飛びかかってくる兵士たちの相手をする。
髯の大男は殴りかかってきた子龍を突き飛ばし、数人の兵士に囲まれている弟分に駆け寄った。子龍はよろけたが身を立て直し、更に叫んだ。
「女を降ろせ!」
「へ? 女?」
兵士たちも黙ってはいない、力及ばずながらも相手の脚や胴にすがり、どうにかして肩に乗せた女を助け出そうとした。しかし片腕とは言え、その男の力には並々ならぬ物があった。
「おぉい、あまり揺らすなよ、益徳! 気分が悪くなっちまう……」
肩に抱えられた者は不機嫌に声を漏らしたが、騒然とした男たちの怒号にその声が届くことはない。
「この野郎、女を離せ」
「隊長、早く助けてやってくれ!」
兵士たちがやっとの思いで男の動きを止めている、子龍はもう一方の髯の男の手をかわし、抱えられた女を助け出そうとがっしりした男に肉迫した、と……
「うぷっ!」と肩に担がれた人物が口元を手で抑えた……
夜更けの主城。少し離れた中庭からは未だに宴の賑やかな声が聞こえてくる。
子龍はその裏手、人影もまばらな厨房にほど近い井戸端にいた。掲げられた松明のため暗くはないのだが、彼の気分は重く暗かった。人気のない井戸端で盥に水をため、彼は黙々と自分が着ていた袍を洗っていた。古びた盥の水面に月の光が映っている。
男が担いでいたのは…… 有り体に言えば芸妓ではなかった、いや、女でさえなかった。それは公孫サンの学友、劉玄徳だったのだ。
「なあ、その…… 悪かったよ……」と彼の近くに佇む者が声をかける。
それは袍の上に軽めの具足を身に着け、その肩に薄紅色の芸妓のような衣を引っ掛けた姿で、薄暗い井戸端に手持ち無沙汰な様子で立っていた。
その衣の華やかさに騙されてしまったが、見れば一目で男とわかる。いや、むしろ抱えられていて顔が見えなかったとは言え、女などと見間違えてしまうなど、本当はありえないような体格の男だ。薄紅色の衣と、独り歩きしてしまった伯珪の妾の美貌の芸妓という噂話のせいで、皆誤解してしまっただけだ。
髯の大男とその弟分は大層強かった。郷里では偉丈夫と讃えられていた子龍だったが、まるで歯が立たなかったのが口惜しい。
子龍はならず者が芸妓をかどわかそうとしていると誤解し、酔い潰れた義兄を抱えていた張益徳は突然喧嘩を売られたと勘違いし、小競り合いとなったのだ。当の本人はといえば、ただでさえ酔っていたのに益徳の肩の上で揺さ振られ、吐き気を催してしまった。
その被害に遭ったのは助け出そうとして近付いた子龍だった。彼は被害の痕跡を井戸水で洗い流しているというわけだ。
子龍は盥の中の袍をすすぎながら、
「……いえ、勘違いした私のせいです、お気になさらず」と応じた。仮にも相手は主の学友だ、あまり不遜な態度をとるわけには行かなかった。
「いやあ、俺、酒にはあまり強くなくてさぁ。伯珪のヤツが勧めるもんで、うっかり酔い潰れちまったんだよなぁ。まあ、吐く物吐いちまったら、ちっとは醒めたかな、なんて…… ははは……」
子龍は黙々と袍を洗いでいる。
「まあ、こんな派手なもの着てりゃ、勘違いもするぁね。昨日の宿場の女郎屋でさ……」
そのままその話題を続ければ、馬鹿げた自慢話のようになってしまう。言いかけて玄徳は口を噤み、すぐに話題を変えた。
「ああ見えて、義弟たちは気のいい連中だ、誤解が解けたらアンタのところの連中と一緒に飲み直しに行ったぜ。お互い水に流そうぜ」と玄徳は言い、ちらりと顎をしゃくる。「井戸だけに」
「……」
生真面目な男のようだ、ちらりとも笑わない。愛想が悪い。
「はっはっは、しっかし、なんていうか、俺、女の子と見間違われるような歳でもないぜ? さては男所帯で飢えてなすったね? どうだい? 一緒に女郎屋にでも繰り出すかい?」
ちらりと子龍は目を上げ、相手の顔に視線を走らせる。
「……」
「おぉ? なんだ、俺の顔に何かついてるか? いや、言いてぇことはわかるって! ついてるんじゃねえ、生えてねえって言いたいんだろ?」
言いながら玄徳はからからと笑った。
その顔の口元にはほとんど髭がない。髭一本すら親から授かった大事な宝と躾けられる彼らにとって、髭を剃ったり抜いたりするのは、親に対して不孝なことだとされている。だと言うのに彼の口元には髭がない、だからこそ遠目に女と誤解してしまったというのもあるのだが。
玄徳はわざとらしく自分の口周りを掌で撫で回した。子龍は慌てて視線を逸らす。
「髭のことは言ってくれるな! 宦官じゃねえぜ? 付いてるモンは付いてるぜ。爺さんも親父も髭が薄かったんだよ。俺の髭が生えてねえのは生まれつきだ。あ、いや、生まれたときに髭が生えていたら、怖ぇな! さすがの雲長もガキの頃は髯なんぞ生えてねえよな!」
子龍は不審な顔で首を傾げた。
「ああ、ええと、関雲長っていうのは髯の大男の方で、俺を担いでいたのは張益徳。どっちも俺の義弟だ。なかなかに頼もしい連中だろう?」
「あ、は、はい……」
「あはは、しかし連中相手に突っかかってくるなんて、アンタもなかなかやるじゃねえか! 大体の連中は奴らを見ると逃げちまってさ!」
「……」
汚された袍を脱ぎ捨て、上半身裸になった子龍はそこそこに育ちが良い、元より肌を晒す習慣を持たないというのに、見慣れない相手の前で晒さざるを得ない、その状況が恥ずかしく、妙に緊張してしまった。
結果、黙々と袍を洗い続けた。
しかしいつまでもバシャバシャとやっているわけにも行かない。彼は袍を絞り、ようやく立ち上がった。それを見ると相手は歩み寄ってきた。妙に重い沈黙に耐えかねたのか、
「本当に済まなかったよ、ごめん……」と繰り返す。
彼は子龍の袍を自分で洗うと申し出たのだが、そこは主の学友、客人なのだからそんな手間を掛けさせる訳にはいかない。さっさと立ち去らずに洗濯に付き合うくらいだから、おそらくは本当に悪いと思ってはいるのだろうと子龍は思った。しかしじろじろと眺められるのは落ち着かない。
そこで玄徳は月光に映える相手の上半身を見て、はたと思いついた。服の代わりを貸してやればいいのだ。
「なあ、アンタ、これ、貸してやるよ!」
言いながら彼は肩に掛けていた女物の衣を手に取った。子龍はそれに目をやり、
「い、いえ、結構です……」と応じた。
「ウン、そうか……?」
またもやいたたまれない空気が漂う。
子龍は湿った袍を広げて、ぱん、と水気を振り払った。ひやりとした湿気が晩夏の熱気を帯びた肌に冷たい。
「なあ、よかったら飲み直そう、な?」と玄徳。
見たところ、風体の割には悪人ではないのだろうが、だからといって腹を割って盃を共に傾ける付き合いは出来そうになかった。
「いえ、明日の朝も早いので、これにて……」と彼は主の学友に礼を失しないように生真面目に会釈し、その場を去っていった。
これが彼らの出会いだった。
続
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