2-9.チップだ。受け取れ
「ところで、ルリーは今晩どこで眠るつもりだ? 宿か? 誰かの屋敷か? 場所がわからないなら送ってやるが」
「寝る? ああ、寝床か! ……考えてもいなかった! この場合はどうしたらよいのだ?」
「…………」
残念なことに、予感は的中してしまった。
無邪気な顔が自分を見下ろしている。
こんな顔をされて平気でいられる者など、ひとりもいないだろう。
そんな感想に至った自分に、ミルウスは小さく苦笑した。
(これは……放っておけないよな)
答えを待つような、縋るような目で見つめられ、ミルウスは大きくため息をついた。
「宿の確保はしていないのか?」
「していないぞ?」
その答えに痛む頭を思わず押さえたら、「どうした? 気分が悪いのか?」とルリーに真顔で心配されてしまった。
「ルリーの護衛はいないのか?」
「ゴエイ? わたしはすごく強いのだ。そういうものは不要だ。同行者はいるだけで邪魔だから追い返した」
「…………」
なにをやっているんだ、と説教したいところだが、自分も同じことをしてしまったのだから、聞かなかったことにするしかない。
この時刻から宿を探すのは、帝都に詳しい者でも難しい。
ミルウスは大きく溜息をついた。
「仕方がないな……。オレの知り合いが経営している宿屋を紹介してやる」
「ほう! それは興味深い」
「ついてこい……」
「わかった」
再びふたりの手がしっかりと繋がる。
その感触に心が弾むのを、ミルウスは否定できなかった。彼は友人の実家が営む宿へルリーを案内した。
* * *
ミルウスがルリーに紹介した宿は、平民が利用できるなかでは最高ランクの宿だった。
爵位の低い貴族や貧乏貴族がこっそり利用しているという噂があるほど、巷では堅実で評判の良い宿だ。
料金はそれなりだが、従業員の教育は行き届き、客層も悪くない。
下手に安宿に泊まって盗難やその他の犯罪に巻き込まれる危険を考えれば、決して高くはない。
オーナーとも顔見知りなので、事情はすでに説明してある。
魔石を換金したばかりなので、金には困らない。数日分の滞在費に加え、チップも前払いするようルリーに指示すると、彼は素直すぎるほどあっさりと支払いを済ませた。
それはそれで、別の意味で心配になる反応だ。
金払いの良すぎる客に、ミルウスだけでなくオーナーも一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの表情に戻る。
そのやり取りだけで事情を察してくれたようで、「我々にお任せください」と頼もしい言葉が返ってきた。
身元不明の世間知らずなルリーを押しつける形になってしまったが、オーナーとしては「あのセイレスト家に恩を売る好機」とでも思ったのだろう。
オーナー自らが注意を払ってくれるなら、宿泊客とのトラブルも未然に防げる……はずだ。
ルリーを最上階の豪華な客室に押し込み、ひととおりの説明をして立ち去ろうとしたとき……事件は起こった。
「ミルウス、待て」
「なんだ?」
バルコニーの戸締まりを確認して振り返ると、すぐ間近にルリーの顔が迫っていた。
「うわぁぁぁっ!」
まったく気配を感じさせないその動きに、ミルウスは驚いて後ずさる。
ガチャンと鍵が軋む音がして、背中が窓ガラスにぶつかった。
(ちかい! ちかい! ちかい!)
心の中でミルウスは悲鳴を上げる。
夜空色の瞳がすぐ目の前にあった。手を伸ばせば、その中で煌めく星に触れられそうなほどの距離で……。
「ミルウス、チップだ。受け取れ」
「はい? ちっぷ?」
「さっき、ミルウスが言っていただろ? 期待していた以上のことをしてもらった者に感謝を伝える最良の手段がチップだと」
「あ……。まあ、そういう説明……したよな?」
コクコクと頷く。
ルリーはミルウスの右手を取り、その中に一枚の硬貨をそっと置いた。
「だからチップだ。わたしが持つ貨幣の中で、最高に素晴らしく、綺麗で美しいものを選び抜いた。どこに出しても恥ずかしくない。わたしからのチップを受け取ってくれ」
「いや、別に……オレはそういうつもりじゃ――って。ええええええ!」
手の中のコインを見て、ミルウスは悲鳴を上げた。落としそうになって慌てて握りしめ、そして恐る恐る手を開く。
これは見間違いだろう……そう思いたかったが、残念ながら間違ってはいなかった。
「る、る、ルリー⁉」
オマエはなんてものを取り出したんだ――その叫びは声にならなかった。口を閉じることも忘れ、手の中の硬貨を凝視する。
それは通常の黄金に銀が混じり、より高貴な輝きを放っていた。
金貨ではない。小さなコインなのにずっしりとした重みがあるのは、硬貨そのものに保護魔法が埋め込まれているからだ。
初代皇帝フォルティアルトの横顔が刻まれている。ということは、裏側には帝国の紋章――黄金の樹と、それを守る剣と盾――が彫られているのだろう。
(ひぃっ! はっ、白金貨ぁっ⁉)
本の挿絵でしか見たことのないコインが、今まさに手のひらの上にある。その価値に思い至り、ミルウスは口をパクパクさせるしかなかった。
ルリーの顔に浮かんだのは、これまででいちばん美しく、そして獰猛な笑みだった。まるで狙っていた獲物を巣穴に持ち帰り、満足している猛獣のような表情……。
そう思った瞬間、ミルウスの肌が粟立った。
(ひいいぃぃぃぃっ!)
なぜかわからない。だが彼の笑みに、ミルウスの本能が警鐘を鳴らした。
背中が冷たく感じるのは、逃げ場を失い、窓ガラスに背を押し当てているせいだろうか。
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