第10話 留まる理由
霧を裂いて飛びかかる霧隠れ
その巨体を、ラウガンは一歩も退かず迎えた。
カンッ!
刀が牙を受け止め、力を逃がすように刃筋を滑らせる。
次の瞬間、狼の喉を一閃。血飛沫と共に影は霧へ沈んだ。
「……すげぇ」
レオンが思わず息を呑む。
それはスキルではない。ただ研ぎ澄まされた技術の結晶だった。
俺とミリアも動いた。
「右は任せてください!」
ミリアが迅雷のように駆け、跳躍からの斬撃で一匹を切り伏せる。
俺は看破で赤点を見極め、弱点へ剣を突き立てる。レオンの火球が後方の一匹を焼き払い、順調に数を減らしていく。
――そのとき。
「ミリア、後ろだ!」
振り返った瞬間、霧の奥から一匹が死角を突いて飛びかかった。
――間に合わない。そう思った刹那。
「【
低い声と同時に、ラウガンの体が無理な角度からねじれる。
常識的には振り切れない体勢のはずだった。
だがそこから放たれた一閃は、まるで時間を置き去りにしたかのように速い。
狼の首が裂かれ、血霧を散らして崩れ落ちる。
「あ……」
ミリアはただ目を見開き、間近を掠めた閃光を呆然と追った。
あの姿勢から、どうしてあの速度が出るのか――理解できない。
だが、その一閃を見た群れは即座に脅威を察したらしい。
三匹、四匹と一斉にラウガンへ飛びかかる。
四方からの牙。退路はない。
「【
低い声が空気を震わせた。
途端に周囲の世界がわずかに沈み込んだような圧が走る。
足が鉛に変わったように重くなり、俺も思わず息を詰める。
飛びかかった狼たちは空中で姿勢を崩した。
爪は狙いを外れ、地面へ叩きつけられる。
霧の中で均衡を奪われたその瞬間を、ラウガンは見逃さない。
「……外れだ」
銀閃が霧を裂き、狼たちの身体を次々と斬り伏せた。
重力に絡め取られた獲物を、迅閃の速度が断ち切っていく。
霧に沈む森の中、倒れた狼の骸を見下ろす。
いまの一撃は、明らかに常識を逸していた。体勢を崩したまま放たれた斬撃が、どうしてあの速度を出せるのか――考えられる答えは一つしかない。
ラウガンは、あの刀に「迅閃」と呼ばれるスキルを宿していた。
さらに、群れが一斉に飛びかかった瞬間。
狼たちは空中で失速し、地に叩きつけられるように動きを乱した。剣を振るうより前に、均衡はすでに崩されていた。
「……今の、何をした?」
飛びかかってきた狼が、空中で軌道を崩した光景が脳裏から離れない。
ラウガンは肩をすくめ、刀を軽く払った。
「大したことじゃねぇ。周囲の重力をちょっと傾けるスキルだ。それだけで、相手は勝手に隙を晒す。あとは、どんな体勢からでも最速で剣を振り抜ける」
さらりと告げる声に重みがある。
【墜界】と【迅閃】。
重力を操り均衡を乱す一瞬の揺らぎ。それが、彼の圧倒的な剣速と噛み合えばどうなるか――戦場で出会いたくない相手だと、心底思った。
◆
濃霧の森は、相変わらずじっとりとした湿気と不快な暗さに包まれていた。
湿った枝葉をかき分けながら、俺は前を行く黒外套の背中に声をかけた。
「ラウガン。あんたほどの実力があれば、どのパーティーからも引く手あまたなんじゃないのか?」
ラウガンは足を止めず、ふっと笑った。
「そう思うか? まあ、誘われりゃ行くし、頼まれりゃ応じる。だが、自分から群れる気はねぇんだ。気楽にやれる方が性に合ってる」
「……じゃあ、ランクに関しては? あんた、確かDランクだよな。実力的にはもっと上に思えるんだが」
ラウガンは肩を竦めた。
「上に行きゃあ面倒が増えるし、若い連中も声をかけづらくなる。俺は誰にでも使いやすい駒でいる方がいい」
前を歩く背中から、不思議な温かさが伝わってくる。
ただの気まぐれじゃなく、意図してその立ち位置を選んでいるのだと分かった。
そのときラウガンがちらりと振り返り、ミリアに目を向ける。
「もっとも……嬢ちゃんには少し怖がられちまってるみたいだがな」
「っ……!」
隣でミリアが小さく肩を跳ねさせ、慌てて首を振った。
「そ、そんなこと……ありません!」
ラウガンは声を立てず、喉の奥でくつくつと笑った。
「いいさ。俺は牙を剥くのは敵にだけだ。……安心しな」
霧の向こうに溶けるようなその笑みは、どこか柔らかい響きを残していた。
◆
森の奥から、不気味な鳴き声が響いた。
ぎい、と金属を引き裂くような音が霧に反響し、途端に視界が揺らぐ。
「ッ……来やがったか」
ラウガンが舌打ちし、低く吐き捨てる。
「チッ……一番遭遇したくねぇヤツが出てきやがった」
赤黒い瞳を光らせる鳥影が霧の中を舞い、その声に合わせて世界が歪んでいく。
霧の中に浮かび上がったのは――王の冷たい瞳、玉座に沈む影。
「……今回の勇者はハズレか」
幻聴のような声が胸を刺し、背筋を這い上がる。
次に現れたのは、無機質な兵士たち。
押しつけられた刃こぼれした剣、吐き捨てるように言われた「ここから先はお前一人だ」。
さらに群衆のざわめきが襲いかかる。
「これが勇者?」「失敗だと……」
石畳を歩いたあの日の重さが、足にまとわりついて離れない。
背中に浴びせられた視線が、剣先より鋭く突き刺さる。
「……やめろ」
息が荒くなる。視界に浮かぶのはラウガン、ミリア、レオン――だがその顔が王や兵士に変わっていく。
剣を握る手が震え、胸が焼け付くように熱い。
逃げ惑った夜の森もよみがえる。
ゴブリンの棍棒が肩を掠め、泥にまみれながら必死で走ったあの絶望。
ただの失敗作として捨てられ、死ぬしかないと思ったあの夜。
「ハズレ勇者」
幻聴のように声が木霊する。
心臓が掴まれたように痛む。
剣を握りしめた俺は、一歩踏み出しかけて足を止めた。
だが――。
「……違う」
あの時、光のように現れた銀髪の少女。
ミラナ村でくれた温かい笑顔。
暁の環と共に訓練した日々。
剥ぎ取られたと思っていた俺の居場所は、確かにここで築かれてきた。
あの時切り捨てられたからこそ、ここに仲間がいる。
「……俺はもう、あの城にはいない。ここにいるのは仲間だ」
吐き出した声と共に、幻影が揺らぎ、霧に溶けて消えた。
目の前に現れたのは――怯えて剣をこちらに向けているミリアだった。
■■■
・ラウガンのスキル
【迅閃】:どのような体勢からでも最高速度で武器による攻撃ができる。連続では繰り出せない。
【墜界】:自分の近接戦闘範囲の重力を操る。敵が地に押し付けられ動けない程ではない。重くしたり軽くしたりすることでバランスを崩す程度。
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