第5話 知らない世界
「……お嬢ちゃん、冒険者を舐めるのもいい加減にしろ」
ナナの皮肉に顔色を変えた男たち。
一人の大柄な男が、彼女の目の前まで詰め寄ってくる。
「……お前らみてぇのがいるから、ギルドのレベルが落ちんだよ。とっととお家に帰んな!」
男から強い酒の臭いがして、その呼気を吸うだけで頭痛を誘う。
ナナはその臭いに、顔を
「……言葉が通じない上に、お酒に溺れる暇はあるのね。レベルを落としてるのはどっち?」
「こいつッ……!」
ナナの腕を男が荒々しく掴む。痛がる彼女の声を聞いて――反射的に体が反応する。
「……いっ……痛い!!」
「――離してください」
オリビアは怯むことなく、男の手首を掴んだ。
その行動に憤りはない。
自分たちの
「……相手は、女性ですよ?」
「お前も女だろうがッ……!」
細身の女に手首を掴まれただけ――それだけなのに、男の腕は動かない。
『おい、冗談だろ?』と周囲から野次が飛び、腕を掴まれた男の顔に焦りが募る。
「――邪魔すんじゃねぇッ!!」
男は強引に腕を振り払った。
乱暴にナナを突き放し、左の剛拳でオリビアの顔を狙う。
しかし、次に見えたのは――
「……ぐぁッ!」
男が豪快に、床に沈められた姿だった。
殴りかかってきた男の腕に、オリビアが両手を添え――足を払っただけ。
最小限の動きでの制圧。
筋肉隆々の男が倒された大きな物音で、ギルド内の喧騒が一気に静まり返る。
『無装備の女に、ベテラン冒険者が倒された』
その状況は、他の冒険者から好奇の目が集まるには十分すぎた。
奥のカウンターで慌てた表情をしている、受付嬢がちらりと視界に入る。
涼しい顔でナナを心配するオリビアに、男の仲間が取り乱し始めた。
「……こいつ、
「俺も、何が何だか……」
倒された男ですら状況を掴めていない。
――その時。
「……すみません」
突如、差し出された手。
「なるべく危険が少ない方法でやったんですけど――お怪我はありませんでしたか?」
周囲にいる者は、それをただ見ていることしかできない。
粗暴な態度の男に対して、オリビアが見せたのは労りだった。
その行動を受け止め切れなかったナナが、そっと引き止める。
「リヴィ、そんな奴の心配なんて……」
「どうして?」
「えっ……」
オリビアの真剣な表情に、彼女の瞳が揺らぐ。
「私は、別にこの人を傷付けたいわけじゃない」
湖に一粒の雫が落ちるように、言葉の波紋が広がっていく。
(……人と人が争わずに協力できるなら、その方が世界のためになる。ただ……)
「まず手荒に突き飛ばしたことを、彼女に謝ってください。それから――」
「……お前、舐めてるだろ?」
壁掛けの掲示板の前にいた青年が、オリビアの声を打ち消した。
彼は使い込んだ鉄の
前髪をかき上げた、赤い短髪。
髪と同じ色をした燃える
騒動を見ていた冒険者のようだ。
「ライゼル、お前もギルドに入ったばっかの新参者だろ!? 引っ込んでろよッ!」
「……あ?」
青年――ライゼルは、野次を飛ばしてきた男の胸倉を
「――雑魚に用はねぇんだよ。失せろ」
「なッ……」
呆気に取られた男を突き飛ばすと、ライゼルはオリビアに近付いてきた。
「傷付けたくない? ふざけてんのか。そんなんで、一体何が守れんだよ?」
吐き捨てるような言葉。
彼が何故そんなに不機嫌なのかは分からない。
しかし、オリビアはこの街に訪れたばかり。
これ以上騒ぎを大きくしたくなかった。
「……あの、これ以上事を荒立てたくないのですが――」
「今度は逃げんのか。腰抜けも良いとこだな」
「ちょっと! さっきから聞いていれば……」
ライゼルの言葉にナナが食いつく。
オリビアの制止にも『だって!』と、彼女は納得がいかない様子だ。
「リヴィは腰抜けなんかじゃない。すっごく強いお師匠様のもとで修行してたんだから!」
「ふん。この世界のことなんて何も知らねぇ、綺麗事ばっか。どうせその師匠もロクなもんじゃ――」
「やめてください」
オリビアは彼の声を無理やり遮った。
(どうして初対面の人に、そこまで言われなきゃいけないの……?)
『綺麗事』――それは旅立つ前に師匠からも言われたことだったが、また選択を間違えたのだろうか。
しかし、どうしても耐えられない。
(……師匠を馬鹿にされることだけは)
「私のことはどうに言っても構いません。でも、師匠のことは馬鹿にしないでください」
「……はッ! んなら、言ってみろよ。お前みたいな奴を育てた、ご立派な師の名前を」
ライゼルの挑発は、更にナナの神経を逆撫でしていく。
『アイツに言ってやってよ!』という彼女の圧に押され、オリビアは名前を呟いた。
「……アテナ・ルシィー」
「あ?」
「私の師匠は、アテナ・ルシィーです」
その名を聞いた者たちは全員、息を呑む。
ギルドから全ての音が消えた。
ライゼルやナナ。オリビアに絡んできた男たちも、他の冒険者も呆然としたまま動かない。
「アテナ、だと……?」
「は、はい? そうですけど……」
「ちょっと待って、リヴィ! あなた、剣聖の弟子だったの?」
オリビアの肩にナナが掴みかかる。
(彼女は何を言ってるんだろう……?)
「剣聖の弟子……?」
「アテナって『剣聖のアテナ』だよね? ほら、竜車で話したでしょ。あれは、全部アテナ様の逸話だよ!」
「私の、師匠が……剣聖?」
師匠のアテナが、伝説の剣聖だったなんて。
そんな話、一度も聞いたことがなかった。
しかし、この騒然とした空気が何よりの証拠。
興奮するナナをよそに、ライゼルはより一層眉間に皺を寄せた。
「……アイツは、剣聖なんかじゃねぇ」
彼は拳を微かに震わせていたが、それに気付く者は誰もいない。
「戦いの前線から姿を消した、名ばかりの老いぼれだろ。――弟子が腰抜けなら、師も腰抜け。あの女も逃げやがったんだよッ!」
何故ライゼルが、師匠を罵倒するのか。
相手が怒っているのは、どうしてなのか。
いつもの自分なら、それが疑問として頭に浮かぶはずだった。
しかし、この瞬間。
縁取られた棘のある言葉だけが、世界から切り取られたように鼓膜の奥まで打ち付ける。
そして異様に静かなオリビアの頭の中で、何かがぷつんと――切れた音がした。
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