第5話 告白


 白い壁の部屋。

 天井には、ゆっくりと回る小さな換気扇の音だけが響いていた。部屋の片隅、血の染み込んだ床の上には、食べ残しの少女の骨が無造作に転がっている。


 ——ボリ、ボリ。


 おれは、何の感情もなくその骨を噛み砕いていた。牙が骨の髄まで届き、温かい血と髄液が口の中に広がる。けれど、その味に何の感慨もなかった。


 ロボットによって運ばれてくる「食用」の少女たち——少女を傷つけないため、おれは少女たちを喰らい、渇望を誤魔化していた。少女たちの肌は柔らかく、肉は甘やかだった。それでも、喰らうたびに感じるのは、空虚なむなしさだけ。


 食べるたび、胸の奥が乾いていくようだった。飢えは癒えず、ただ無感情に喰らい続ける。次第に、おれは手っ取り早く済ませることを覚えた。肉を噛み締めても、血を啜っても、あの満たされるような感覚は二度と戻ってこなかった。


 そして——その日も、いつもと変わらぬはずだった。無機質な時間の中で、ボリボリと骨を砕く音だけが響いていた、はずだった。


「……なにをしているの?」


 ——おれの体は凍りついた。それは軽蔑、嫉妬、羨望、ホンモノの感情の乗った言葉だった。


 おれは口を血で濡らしながらゆっくりと振り返った。


 やはりそこには、少女が立っていた。足の指に力を込めてバランスを取りながら、片足でぐらぐらとしながら立っていた。三秒に一回、軸を失い細かく跳ねてバランスを取り直す……ふくらはぎの筋肉は、ぴくぴくと震えていた……


 少女は、無垢な瞳を見開いたまま、蒼白な顔で怒ッテいた。その頬は透き通るように白く、唇は青ざめている。細い指に握られた薄いガラスのコップは傾きと上下し、じゃばじゃばと水が溢れ続け床に広がっていた。


「……わたし以外が……そんなに美味しいの? わたしのことは食べてくれないのに……獣さんはわたしのこと、嫌いなのね」


 その声は、かすかに震えていた。やはり怒ッテいる……いや、よく見るとそれは怒りでも、哀しみでもなかった……それは、ただの問いだった。


 彼女の顔は無表情だった。まるで人形のように、感情の欠片も見せず、ただおれを見つめていた。それは、狂気と愛が入り混じった、壊れかけの人形の目だった。


「……ぁあ」


 おれは、かすれた声で何かを言おうとした……だが、もう遅かった……すぐに理性が吹き飛んで、体が勝手に動いた。


 気づけば、おれは少女に飛びかかっていた。

鋭い爪が彼女の細い肩を押さえつける。


「や、やめ……」


 彼女の小さな声が震えた。その瞳には、確かに恐怖が滲んでいた……けれど、同時に。


「……嬉しい……嬉しいわ……」


 震えながらも確かに響いた。少女は、獣のように襲いかかるおれを受け入れた。爪が彼女の肌に食い込み、細い血の筋が流れる。それでも少女は、おれの背中に手を回した。


「い、いや、いやだっ……デモ……でも、嬉しいの……嬉シイ」


 少女の指が、おれの毛並みに食い込む。

血が滲んでも、彼女はその手を離さなかった。


「……嬉しい……だって……ダッテわたしはあなたを……」


 壊れた人形のような声が、途切れ途切れに響く。おれは右腕に牙を立てた。皮膚が裂け、肉が裂ける音が聞こえた。温かい血が口の中に広がる。


「ん……あ……」


 彼女は苦痛に顔を歪めながらも、どこか恍惚とした笑みを浮かべていた……おれはそのまま肩口を喰らう。皮膚を突き破る快感、牙が骨まで届く。


 柔らかい肌が裂ける感触が、口の中に広がる。彼女は涙で濡れた瞳でおれを見つめていた。唇はまだ微笑んでいた。


「愛しているから……」


 震える声が、耳元に届いた。


「愛していますよ、愛していますよ……愛シテイマスヨ」


 その声は、壊れかけの人形のように単調に繰り返される。


 涙を浮かべていたはずの瞳が、ガラス玉のような無機質な光に変わる。貪るたびに、彼女の肌はさらに白く、陶磁器のように無機質な質感へと変わっていく。柔らかな肉は、やがて硬質な人形のような感触へと変わり、喰らうたびにその命は遠ざかっていった。


「わ、わ、わわたしはあなたを、愛シテイマス、愛シテイマス……愛シテイルカラ痛クアリマセン──愛シテイマス──愛シテイマスヨ」


 それは、もはや意思などではなかった。機械仕掛けの人形が、最後の音を奏でているだけだった。


 おれは喰らい続ける。既に左上半身は噛み跡の形に喪失していた。次に右腕を食う……左足も食う……下半身から上に向かってムシャムシャと全身に少女の血を浴びながら食い続ける。視界は赤く染まって、何も見えない。少女の絶叫が狭い部屋にこだまする。


「アイ、アイ、アイッ! シテますますマス──」

 

 長い時間をかけて血の一滴まで吸い尽くした。おれは、最後に残った彼女の生首を両手で血の海からすくい上げた。少女の瞳は、もう何も映していなかった……だが、唇はまだわずかに動いて、小さく音にならない言葉をひたすら繰り返していた。


 少女の持っていた……少女が唯一関心を示したガラスでできたコップは他人面して部屋の端に転がっていた。青白いガラスはおれたちの赤色を映しながら、ころころと部屋の外に出ていった。


「……ぁ」


 少女の絶命も近いようだった。遂に唇すら満足に動かせなくなったようだった。最後の最後まで愛の告白をし続けた少女の最期におれは満足すると生首に顔に近づけた。


「……おれも、愛しているよ」


 震える声でそう囁いて、キスをした。緑色の唾液を垂らしながらおれは獣としてキスをした。牙の内にあるザラザラと、長く分厚い舌を使って深いキス……硬い陶器のような少女の生首をみずからの顔に押し付けるように、少女の脳に向かって、べろべろと深く……深く……


 そして——最後、そのまま少女の生首をひと口で喰らった。


 肉汁が溢れるように、少女の液体が口に溢れた。噛みしめるたび少女との記憶が思い返される。おれの人形遊びに付き合ってくれた、一人の人形……


 そして次の瞬間。おれの体はみるみる縮んでいった。毛皮が剥がれ、鋭い爪が抜け落ちる。牙が小さくなり、手足が細くなる。血に濡れた指先が、人間のそれに戻っていく。


「やったぞっ! はは、やったぞ! 人間に戻ったぞ!」


 鏡に映るのは、もう獣ではなく——ただの人間だった。


 嬉しくて血の海でジャンプ……大の字に寝っ転がって両手足をバタバタと動かした。さながら、プールで遊ぶ子どものように、おれは久しくぶりの人間として感じる、冷たさ、暖かさ、硬さ、柔らかさ、匂い、鮮明な色、全ての感覚に癒やされた。


「…………」


 息を切らしながら、おれは自分の手を見つめると、細い指が震えていた。


 窓の外、灰色の空の向こうを見ると、遠くに微かに光が差し込んでいた。ただ、その光はどこまでも冷たかった。


 しかし今のおれには関係がなかった。おれは服を着ると、部屋を出た。血の饐えた匂いのこべりついた鼻に通る外の空気は澄んでいた。


 おれは走って、走って、街へ向かった──

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