第4話 食べるしかない


 それから、奇妙な共同生活が始まった。


 おれと少女は、白い壁に囲まれた小さな部屋で寄り添うように生きていた。壁は無機質で、天井の古びた蛍光灯がぼんやりと冷たい光を放っている。窓はひとつだけ。そこから見えるのは、いつも変わらぬ灰色の空だけだった。家具は何もなく、ただ床に置かれた薄汚れたマットレスがあるだけ。最初は白かったそれも、今では俺の体温と少女の血で薄赤く染まっていた。


 少女は、左腕と右足を失っていた。それでも彼女は、残された片足で器用に立ち、日常の些細なことを淡々とこなしていた。床に膝をつき、赤く染まった白い床を丁寧に拭き取る。窓の外をぼんやりと眺め、そこに広がる空虚な灰色に目を落とす。おれは、そんな彼女の姿を見ながら、じっと息を潜めていた。


 少女の首筋に浮かぶ青白い血管、細い手首の鼓動、そのすべてがおれの渇きを刺激した。喉の奥から込み上げてくる飢えを、おれは必死に押さえ込んでいた。


 けれど、おれはこれ以上彼女を食らうことはできなかった。自らの魂とそういう取り決めをしていた。しかし、その誓いは決して簡単なものではなかった……だって腹が、減る。生物誰しも腹が減る……


 少女の香りは、いつも甘かった。空腹のときは、まるで焼きたてのパンのように鼻腔をくすぐり、理性を曇らせた。喉の奥が熱くなり、口内に唾液が滲む……我慢するほどに……人間であろうとするほどに、おれは益々獣に変貌していくようだった……


 ある夜、少女が珍しくおれに話しかけた。


「おなか、すいているんじゃなくて?」


 そう言って差し出しされたのは、手首だった。細く、脆いその手首には、かすかに青い血管が透けていた。


「……いいんだ……もう」


 少女の声は優しかった。でも、おれは知っている。彼女はおれを理解し、おれを許しているわけではない。ただ、従っているだけだ……そういう風にできているだけ……


「それは……だめだ、だめなのだ」


 彼女の手首をそっと押し戻した。少女は少しだけ寂しそうに微笑んだ……まったく良くできている……




 それから数日が経った。

 三日に一度——おれの家に、無機質な音を立ててロボットが現れる。金属製の脚が床を叩く音は、神経質なおれにすら届かないほど静かだった。朝も夜も無くなったおれにピンポーンと三日に一度鳴るインターホン……それがおれの生活リズムとなっていた。


 扉を開くと、ロボットの無表情なレンズがおれを見据え、冷たく淡々とキャリーケースほどの箱をおれに渡す。「食用」とだけ書かれた簡素な箱……


 開くとそこに入っていたのはやはり年端もいかない少女だった。血色のいい頬、柔らかそうな手足。目を閉じたその顔には、まだ何の恐れも刻まれていなかった。


 おれは、最初の少女が目覚める前に、ロボットが運んできた少女たちを見えない所に隠した。そして、おれは毎回、少女の見えない所で平らげた。喉の奥に流し込むように、無心で、ただ貪る。肌の柔らかさ、舌に広がる甘み、喉を滑り落ちる温かさ——収まる飢えの激情……


 最初のうちは、それで飢えをしのぐことができた。だが、日が経つごとに、何かが変わり始めていた。


 喉を通る肉の温かみは同じはずだった。けれど、何かが満たされなかった。最初の頃は、ロボットが運んできた少女を小分けにし、次の配給の三日後までバランス良く食べた。一口大食べるだけで、一時的に腹は満たされた。だが、次第にそれでは足りなくなった。


 一人、二人……三人。段々と足りなくなっていった。挙げ句の果てには、届いた瞬間にロボットから箱を奪い取り、その場ですべてを平らげた。そうすると、次の日からロボットは毎日やってくるようになった。在庫切れを起こしているのか、中には美しい少年も混じっていた……けれど、まるで美食家のように、おれは味の違いを確かめながら食べていた。


 しかし、満足するまで食すことで、おれは人間でいられる気がした。そのおかげか、少女とおれは仲良くなり、色々なことを語らい合った。まるで恋人のようだった……


 ただ、一日に三体の少女が詰め込まれた箱が届くようになった頃には、ロボットが運んでくる少女たちをすべて呑み込んでも、飢えが満たされなくなった……味は変わらないが、どこか冷たい。喉を通っていく少女たちの体温すら、徐々に薄れていくようだった……興奮も、満足感も、すべてが遠のいていく。


「……どうして、満たされない……」


 窓の外には、相変わらず灰色の空が広がっている。白い壁には、俺が吐き出した絶望が染み付いていた。少女は、そっと隣で眠っていた。彼女の細い胸が、静かに上下していた。耳元に届く寝息は、かすかに温かかった……コレで満たされるはずだったのに……俺の内側ではまだ獣がうずいていた。


 腹の奥で、牙を剥き、肉を求め、血の香りに飢えていた。


 その声は、誰にも届かず、白い部屋の闇に溶けて消えた。少女の寝顔は静かで——あまりにも無垢だった。そんな少女を見ながら、胸の奥に広がる冷たい空虚に囚われ続けていた。その空虚を、満たす術はもう……

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