恋の葬送

暁ノウル

第1話

風のような男に恋をした。

 春風のような、穏やかで心地の良い声色。切れ長の瞳に嵌る黒曜石の虹彩は、湖面のように澄み切っている。凛と伸ばされた背筋と意志を感じる力強い眼差し。

 いつだったか、彼は風になると口にしていたことがあった。

 極限を突き詰めてなにもかもを振り切り、視界が狭くなって息ができなくなる。そういうとき、自分が風になれたような気持ちになる。その感覚が好きなのだと、彼は語っていた。

 彼――風早颯太はまさに、風のような男だった。

 軽く、しなやかに、力強くグラウンドを駆け抜ける姿はまさしく風だった。颯太は陸上部のエースとして大会では常に好成績を収めていた。しかし彼の風のような性質はそれだけに留まらない。

 単純なくせに頑固で、一度決めたことには一直線。何事にも懸命に突き進む姿は、けれどふとした時に、風のようにひらりとどこかに消え去ってしまうような、そんな儚さを感じさせた。己の信念を通すためなら自らを犠牲にすることをも厭わない。そんな危うさすら時々感じるほどに。

だから、オレは颯太から目が離せなかった。


春のそよ風に、蕾を付けた並木の枝がさわさわと揺れていた。うららかな陽射しが降り注ぎ、新緑が光を帯びる。不透明なヴェールに覆われた空からは陽の光が滲んでいた。

その日、成宮秀也はいつものように颯太と他愛のない会話をしながら春に染まりだした道を並んで歩いていた。

「なあ、今週末映画見に行かね?」

「いいけど、何か観たいものでもあるのか?」

「おう。こないだCMで見たアクションものが面白そうでさ」

「またアクションか」

 呆れたように息を吐きつつどうせ付き合ってくれることは分かっている。

「いいじゃん。お前も好きだろ?」

 通学路を進み学校に近づくと徐々に周囲から生徒たちの声が聴こえてくる。颯太の姿に色めき立つ女子の声も、今ではもう聞き慣れたものだ。

夜空のように深く艶やかな颯太の黒髪が陽射しに照らされ、天使の輪が浮かび上がる。不意にさらりと髪が風に靡いた。その拍子に一房、耳から髪糸が零れる。

 颯太は髪糸を耳裏にかけながら、長い睫毛に縁取られた目をそっと伏せた。

秀也は思わず、その仕草に釘付けになった。視線に気付いたのか、颯太がふとこちらを振り向き、しっかりと視線が絡み合う。

黒曜石のような暗灰色の虹彩に惹き込まれる。ふ、と颯太が眦を細めた。

 どくり、一際大きく拍動した心臓を押さえるように、秀也はぐっと胸を握り締める。押さえつけても鼓動は尚バクバクと早鐘を鳴らし、うるさいくらい主張していた。これ以上見つめるのは危険だと警告するように。

 しかし秀也は颯太から視線を逸らすことが出来なかった。

 ひらり、どこからか風で散った花びらが颯太の髪に舞い落ちる。何かに導かれるように腕を伸ばしてそっと掬い取ると、颯太はぱちぱちと瞬き、ふわり、花が綻ぶように口元を緩めた。

――――それは、春になると自然と脳裏に浮かぶ光景だった。三年前の四月のある日、颯太と通学路を歩いていたときの記憶だ。

ありふれた、何気ない日常の一コマ。特別なことなど何も起こっていない。けれど、秀也にとってあの瞬間は、何ものにも代え難い特別なものだった。

 胸から血が溢れ出すような恋の苦しみを、秀也はあのとき、生まれて初めて感じたのである。

 

 秀也と颯太は家が隣同士の幼馴染で、高校生になった今でも何かとつるむことが多かった。出会ってかれこれ十五年以上は経つ。家族より何でも打ち明けられるような間柄だった。楽しいときも苦しいときも、そばにはいつも颯太がいた。

 ただの友達と呼ぶにはあまりにも距離が近い。苦楽を共にした悪友であり、腐れ縁と呼ぶのが最も相応しいような関係性だった。とにかく秀也にとって颯太の隣は居心地が良い。反対に颯太がいないと何となく落ち着かず、物足りない気分になる。

 ――――思い返せば、以前からその兆候はあった。形容しがたい感情が、明確になる前に知らず知らずのうちに抑えていたのだ。

けれどあの瞬間、それまで存在していなかった感情が瞬く間に胸に芽吹いた。花びらを取った際に見せた微笑みが、秀也の心臓をまっすぐ貫いた。それから三年間、秀也は颯太への想いをずっと胸の奥底に封印している。

元々同性が好きだったわけではない。初恋相手は小学生の頃の同じクラスのマドンナだったし、普通に彼女だって作ってきた。だが彼女らとは深い関係を築く前に別れていた。いずれも長くて三ヶ月程度で別れるような関係性。

お前、モテる割に長続きしないよな、と別れるたびに颯太によく言われていた。全くもって余計なお世話だ、と思ったが図星だったので言い返すことはしなかった。

向こうから言い寄られたから付き合った、というだけで、本気で好きになったわけじゃなかった。

だから、颯太に惹かれたのも何かの間違いだと思った。だが気づけばどんどん惹かれていった。知らず知らずのうちに颯太を視線で追ってしまい、まるで乙女のようだと自嘲した。颯太を視界に収めるだけでどうしようもなく胸を掻き乱される。いい加減認めようと秀也は観念した。

颯太はその美形な見目から女子たちからの人気は常に絶えなかったが、颯太は陸上に集中したいから、と言い寄って来た女子を全て振っていた。

しかし颯太が女子に告白される場面を見るたび、秀也は胸を掻きむしりたくなるような衝動に駆られた。耐えきれなくなった秀也は、颯太に想いを寄せる女子に先回りして声をかけて、自分に好意を向けるように仕向けた。颯太ほどではないが、それなりに女子からの人気を得ていることは自覚していた。そのうち女子たちは恋愛事に疎く口下手な颯太より、口が上手く、他人の機微を察することが得意な秀也に乗り換えだした。本気で言い寄って来る女子には、「自分より他にいい人がいるよ」とそれらしいことを言って片っ端から振っていった。

声をかけたくらいですぐ乗り換えるような奴らに、颯太の隣を奪われるなんて耐えられない。秀也は常に颯太の隣をキープし続けた。進級してクラスが変わっても、休みごとに颯太の元に行き、登下校も必ず一緒にするようにした。

今日も秀也は颯太と共に帰路を歩いていた。

「そういやお前、今日の五限目、爆睡してただろ」

「うっ、バレてたか」

「ばーか。寝るならバレないようにしろよ。そのうちセンセーにしばかれんぞ」

 言いつつ秀也は颯太の顔を伺った。秀也はあの春の日から颯太の横顔を盗み見るのがなんとなく習慣になっていた。颯太は、男の自分からしても整った顔立ちをしていると感じる。

 切れ長の瞳に澄んだ瞳孔。すっと通った鼻筋と薄い唇。冬の夜空のよう深い黒髪……一見すると冷たい印象を抱く顔立ちだが、その表情は実に豊かに変化する。

 颯太の見た目だけで好きになるような女子は知らない表情。秀也だけが知っている顔。

 拗ねると頬を少し膨らませながら唇を尖らせる。傷つき哀しむときは、耐えるようにぐっと眉間に皺を寄せ、長い睫毛を伏せながら瞳を潤ませる。そして、うれしいときは、眉を下げて控えめに微笑む。涼やかな目元が緩み、花が綻ぶようにはにかむその表情は、普段の澄ました表情より、ずっと好ましい。変に気取らず、自然体な颯太の表情が秀也はいっとう好きだった。

「てかお前、そんなんで受験大丈夫なのかよ」

「大丈夫だ。スポーツ推薦狙うつもりだから」

 晴天の霹靂に秀也は虚を衝かれた。

「え、そうなの?」

「ああ、来年から上京して一人暮らしだな。そういうお前は?」

「……オレはそこまで部活に入れ込んでないし、普通に受験かな」

「そうか。じゃあお前とも当分会えなくなるな」

 颯太の呟きに秀也の胸は暗く沈んだ。

 大学からは互いに別の道を歩む。卒業すれば、幼い頃からつるんできた颯太と疎遠になる――今まで隣にいることが当たり前すぎて離れるなんて想像も出来なかった。突然のことに感情が追い付かない。



2話


『別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます』


 ふと、ある日の授業で習った一文を思い出した。この国の文豪である川端康成が、そんな言葉を世に遺したそうだ。何ともロマンチストだが未練タラタラで女々しい、と秀也は感じた。

 花を見るたびに自分を思って欲しい、なんて。そんな重い気持ちは相手からすれば鬱陶しいだけだろう――持て余すような執着を抱えているなんてあいつに知られたら、きっと困らせてしまうだけだ。

卑怯なことをしてまで颯太の隣を譲りたくなかったのに、臆病な心が邪魔して、今の関係性を壊して踏み出す勇気は秀也にはなかった。

 だから、この身を焦がすほどの重い気持ちは死ぬまで抱えて生きていくと決めた。

 けれど、今になってその決心が揺らぎ始める。

 秀也が思い悩んでいるとふと、あ、と颯太が声を上げた。視線を辿れば歩道に面した花屋の軒先の花を見つめている。

「ん?どうかした?」

「いや、明日母さんの誕生日だから、プレゼントで渡そうと思って」

 颯太はイマドキの高校男子にしては珍しいほど孝行息子だった。というのも、颯太の父親は彼が生まれてすぐ他界してしまい、颯太の母は働きながら、女手一つで颯太を育てあげた。今まで苦労を掛けた分、母に恩を返したいと颯太はよく口にしていた。

「どんな花がいいかな」

「おばさんは颯太があげるなら何でも喜びそうだけど」

「うーん、そうは言っても花なんて詳しくないし……」

 店内の花たちを見て回りながら悩み始めた颯太を見かねた秀也は、自分も何か見繕ってやろうと周囲を見渡した。

ふと、視線の先の花に釘付けになる。中央に黒い雄しべが集結した、花びらのような萼を持つ花。

「かわいい花だな」

 いつの間に隣に来ていたのか、颯太が秀也の視線の先の花を見下ろしながらそう言った。

「アネモネって言うんだって。母さんがガーデニングするから、この時期になったらよく見かけてた」

「そうなのか」

秀也の言葉に母親想いな颯太の胸に響いたのか、眩しいものを見るように目を細めた。

「綺麗だな、この花。俺は特に赤色が好きだ」

 颯太は慈しむように眦を緩めた。その表情に、押し潰されるような痛みと苦しみが秀也の胸を圧迫する。鉛のように心が重苦しく沈んだ。


アネモネは色ごとに花言葉と、全体での花言葉がそれぞれ存在する。

赤いアネモネは「きみを愛す」。

 アネモネ全体での花言葉は「恋の苦しみ」

颯太の言葉に他意などありはしない。分かっていても秀也の胸は締め付けられた。

――秀也の胸には色とりどりのアネモネが咲いている。けれど、秀也が颯太に赤いアネモネを贈ることは決して出来ない。皮肉さに思わず自嘲の笑みが漏れた。


 なにも今ここで突きつけなくたっていいじゃん。ちゃんと分かってるんだからさ。


想い人と共にいるときに出くわすなんて、全くタチが悪い。それとも自分が過敏になっているだけなのだろうか。それとも無駄な期待はするなと警告しているのだろうか。

視線の先では赤や青、白や紫など色とりどりのアネモネが咲き誇っている。目を閉じると、瞼の裏に色彩豊かなアネモネの残像が警告灯のように鮮明に点滅していた。

このまま何も打ち明けず隠し通すと決めたのだ、なのに今さら動揺するなんて。

秀也は颯太に悟られぬように小さく息を吐き、意識を切り替えた。

「秀也?どうかしたか?」

「んーん。何でも。それより何にするか決めた?」

「ああ、このアネモネにする」

 秀也の心情的には複雑なチョイスだったが、そんな事情など知る由もない颯太に他の花を勧めることも出来ず、「先に外で待ってる」とだけ言い置いて店内を後にした。


会計を済ませた颯太は、プレゼント用にラッピングしてもらったアネモネの花を大切そうに抱えて店から出てきた。

「んじゃ、帰ろうぜ」

 言いつつ先に歩き出すと颯太も程なく追いついて並んだ。先程のことも相まって、いつもと変わらぬ距離に無性に安堵する。何も言わずとも自然と隣に立つ、この距離感がひどく心地良い。

 今はこんなふうに颯太がそばにいるのが当たり前でも、卒業してしまえば当たり前でなくなってしまう。今まで交わっていた道は分かれる。こいつと隣同士、肩を並べて歩いて、一緒に話をして。そんなありきたりな日常が、あと一年も経たず失われてしまう。

 そう悟った瞬間、颯太との思い出が、瞬時に脳裏を駆け巡った。

どんなときでも気づけば颯太がそばにいた。それくらい同じ時間を共に過ごしてきた。何気なく颯太と過ごした時間はかけがえのないものなのだった。自分にとって颯太がいかに大きな存在なのか、今更ながら思い知る。

 ずっとこのままでいられたら、どれだけいいだろう。

そんな柄にもなく感傷的な気持ちになったのはあの花を見たせいだろうか。

けれど、そんな願いは到底叶わない。せめて別れの日までは今の居心地の良い関係が続くように、最後まで未練を残さぬように、と秀也は胸の奥底に深く根を下ろす想いを摘み取った。


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