Blue Moon Dance -Story of Capella-

ぱむ

se piace

♦︎♦︎♦︎



音が眩しい。


よくよく考えれば音は耳から入る情報なのに、視覚情報である『眩しい』という表現で例えるのはおかしいはずだ。

それでもその表現に違和感を感じないのは、きっと数多の人がその情景を体験してきたからだと思う。

本当に音が光り輝いて辺りを照らすのだ。


今、私が聴いている、いや、音楽は、まさにそれを体現しているものだった。


一つ一つの音が煌びやかに輝いて、漆黒のグランドピアノに反射する。

彼女の小さい右手が奏でる、跳ねた連符のメロディがそのまま空間に浮かび上がって、連なった光の球がはじけては消える。

低音を担当する左手からは、宵夏に打ち上がる花火が見えた。

心臓を直に叩かれているような重厚感のあるあの夏の音が、88の白と黒の部品から紡がれていると理解出来てしまうのは、やはり音と一緒に咲く火の花が確かに見えるからだろう。

私が今いるこの場所が、コンサートホールだということを忘れてしまうくらいに。


ステージと観客席を光と闇に強制的に切り離す舞台照明すらも照らしてしまう音。

何故ただの音にそこまで強い光が宿るのか分からない。

でもこの光はきっと私だけではなく、ホールにいる観客全員に見えているのだと思う。

誰かの咳払いも、姿勢を直した際に鳴る軋む椅子の音も、自分の呼吸の音でさえも聞こえない。

ただただステージから鳴り響く拙い演奏の音が光り輝きながら聞こえてくるだけ。


そう、拙いのだ。

選曲はショパンの

『ポロネーズ第11番 ト短調』。

難儀なテクニックが要求される曲ではないし、しっかり練習している小学生なら当たり前に弾ける曲だ。

そして彼女の演奏技術は決して高い訳ではない。

さっきからところどころ間違えているし、隣合った鍵盤を誤って押しているものだから、不協和音が鳴っている瞬間もあった。

これがコンクールなら減点されるレベルだ。


それなのにどうしてこんなに目が奪われるのだろう。

つい先程は、私もあのステージに立っていた。

自分でいうのもあれだが、私の演奏は完璧だったはずだ。

ミスタッチの一つもなく、作曲者が記載した演奏指示をきちんと守り、その曲が作られた時代背景すらも完全に再現してみせた。

感情を音に乗せ、9年の人生で培った全てを吐き出した。

演奏後に貰った拍手はこのコンサートホールを砕いてしまうのではないかというほど大きなものだった。

正直、今演奏している彼女より、私の前に元気よく弾いていた男の子のほうがよほど上手だったと思う。


ステージに出演する小学生みんなが同じピアノを使って、黒鍵も含めたドからシまでの12音の音を操り、先代の血と涙の結晶であるクラシック音楽を奏でている。

条件はみんな一緒じゃないか。

なのにどうして完全な演奏をした私の時より、観客が圧倒されているんだろう。

どうして私自身、身動きひとつできずに溺れそうなくらい次から次へと溢れる光に魅入ってしまっているのだろう。

我慢しないと涙が零れてしまいそうになるこの感情は一体なんなのだろう。

私は、練習で辛かったこと、思い通り描けない音との対話で泣いてしまったこと、それでもピアノに向き合ってひたむきに努力してきたこと、その全てをさらけ出して真剣に望んだ。

それくらい本気だった。

本気でぶつかってきた音を、魂を削りながら全力でホールに届けた。

だから、悔いは無い。

今までの努力が全て報われるような音を奏でた自分自身が誇らしいくらいだ。

でも、今の私には、あの彼女が奏でる音は出せない。

細胞の隅々まで否応なく照らしてくるあの光は、私の音の中には見つけられない。


腹が立つ。本当に腹が立つ。

何より不愉快なのは演奏している彼女の顔だ。

そんなにミスをしているのに。

作曲者が意図したテンポや指示もめちゃくちゃなのに。

なんでそんなに笑っていられるんだ。

有り得ないくらいのミスの連続で笑うしかなくなっているのだろうか。

いや、そんな笑いではないだろうあれは。

心から笑っているようにしか見えない。

何を思って弾いているんだ。

何がそんなに楽しいんだ。

何で音が光るんだ。

分からない。

結局零れてしまった目から伝う温かい水が何なのかすらもう、分からない。


演奏がいつの間にか終わっていたことにも気が付かなかった。

ホールに流れている時間はきっと止まっていて、誰も動くことが出来なかった。

ぴょん、と演奏椅子から飛び跳ねた彼女がステージに華麗に足を着け、観客席側へと歩み寄った。

翻る白色のワンピースが、春を告げるスノードロップの花びらに見えた。

彼女はその場で深々とお辞儀をしたと思うと、すぐに勢いよく顔を上げ、満面の笑みで会場を見渡した。

その瞬間、止まっていた時間が一気に流れ出し、ぽつぽつと鳴り始めた拍手がミルフィーユのように重なっていって、世界が崩れるような大喝采が起きた。


自分がそのとき拍手をしていたのかどうか覚えていない。

自分が演奏していたときの顔を思い出そうとしても、失明するくらいに強く照らすあの光が邪魔をして思い出せない。


ただ、心の奥底で今もなお

光り続けるあの音だけが、

消えない。


気がついた時には、手元のパンフレットを開いていて、彼女の名前を探していた。










♢♢♢




幼少期から色々な事柄に興味が尽きなかった。

休日朝の女性ヒーローが活躍するアニメを見てヒーローに憧れ、おもちゃコーナーに売っている小さなコスプレ衣装を買って欲しいとせがんだり、料理番組が紹介する美味しそうな料理を作ってみたいと言い出して台所を凄惨な状態にしたりして、よく親を困らせていたものだ。

当時小学校で流行っていたデジタルペットを育成する携帯ゲーム機ももちろんおねだりして買ってもらったし、クラスメイトが家族とキャンプにいくのだと自慢してきたときは、すぐさま親に自分もキャンプに行ってみたいと告げ、渋る親に必殺の泣き落としを繰り出して連れて行ってもらったのを今でも覚えている。


あれこれやってみたい、と唐突に言い出す我儘な娘だったが、有難いことに両親は小さな自分が興味を示したものをキッパリと断ることなく何でもさせてくれた。

水泳教室やスキー教室、習字、一輪車(なぜか自転車ではなく一輪車で、大人になった今でも自転車には乗ったことがない)、バドミントン、ラクロス(これも今思えば何がきっかけでやりたいと思ったのか分からない)、など様々な習い事に通わせてくれた。

多感な時期に様々な経験が出来たのは間違いなく愛情深く育ててくれた両親のおかげであるし、そのことについては大人になった今も感謝している。


ただ、興味が薄れるのも人並み以上に早かった。

熱しやすく冷めやすい、という言葉があるがまさに自分のために作られた言葉だと思う。

興味が薄れるというよりかは、ある日突然ぱったりと興味を失うというニュアンスのほうが近いかもしれない。

なんで自分はこんなことやっているのだろう。

これを続けて何の意味があるんだろう。

そう思った瞬間に一気に身体から意欲が溶け出して地面に流れていく。

一度そうなってしまえば再び興味が再熱する可能性はほとんどなく、通わせてくれた習い事も上澄みだけを吸収し、何も身になることなく辞めてしまったものばかりだ。

一番長く続いたバスケットボールですらも、たしか高校生になる前には辞めてしまった。

買ってもらったヒーローの変身アイテムのおもちゃも、デジタルペットの育成ゲーム機も数ヶ月で押し入れの奥が定位置になった。


中学、高校とエスカレーター式に進学してほどほどの成績で卒業し、大学の講義はほとんど寝て過ごしたり、周りがサークル活動だの恋だのと浮かれている中、スマホにインストールしたゲームを少し触っては3日目には面白さを感じなくなりアンインストールするというつまらない日常を送っていた。

大人になった今も、それなりの仕事を毎日こなし、休日は友達と出かけるか、寝て過ごすか、そのとき自分がハマっているものに時間を費やしたりしている。


これが自分の中での当たり前。

惰性で生きていると言われればそれまでだが、未来を想像したところでどうせ何も分からないのだからなるべく考えないようにしている。

そしてこんな何の変哲もない日常でも自分は充分幸せを感じていた。

唐突に降ってくる興味は健在なので、今も新しいことにチャレンジ出来ているし何も問題はないだろう。

ただ長くは続かないだけで。



「うーん……」


友達から借りたミステリー小説を読んでいたら、いつの間にか考え事をしてしまっていた。

自分の幸せとか、小さい頃のこととか、興味がどうとか全然小説の内容とは関係ないことばかり考えていてこれっぽっちも小説の中身が入ってこない。

なんなら考え事をしながら自分の茶色いショートヘアの毛先に出来た塊をほどいていたくらいだ。

そもそもなんで自分の興味についての話を考え出したのか、と思考を巡らせてみるが思い当たる節がないので単純に小説の内容が難解だったのだろう。

どうやら自分にはミステリー小説は合わないみたいだ。

友達には悪いが、適当にレビューサイトかなんかでネタバレを見て、素直に合わなかったと言うことにしよう。


詩香しいかー! 朝ご飯! 早く降りてきなさい!」


1階から母親が自分を呼ぶ声が聞こえた。

はーい、と気怠げに返事をして、三保詩香みほしいかは自室のドアを開けた。




♢♢♢




「もう! 遅い! さっきからずっと呼んでたのよ」


急勾配の階段を軋ませながら降りてリビングに入ると母親がダイニングテーブルに座って先に朝食を食べ始めていた。


「んー、ごめん。本読んでたら夢中になっちゃって」


夢中になってしまっていたのは本当だった。

ちょっと思考が別方向へシフトしていたことは黙っておくことにする。


「いいから早く食べちゃいなさい。冷めるよ」


「はーい」


母の向かいの椅子に腰掛け、テーブルに並べられたスクランブルエッグに箸を伸ばす。

我が家ではスクランブルエッグにはブラックペッパーをかけて食べるのが主流。

ピリリと効いた黒胡椒の刺激を舌上で感じながら胃に流し込む。

向かいの席で母がトーストにバターを塗りながら、そういえば、と言って話し始めた。


「詩香、この前行ったカヌー体験はどうだったの」


「カヤックね。それね、筋肉痛やばすぎて私には無理だった。日頃の運動不足を痛感したよね」


つい先日、カヤック体験ができるイベントが都内で開催されるというのをネット記事で見つけて、東京都内の水路名所を巡ることが出来るツアーに参加したのだが、ここ最近は運動をする習慣が無かったため、ちょっとのオール運動で翌日には腕が信じられないほど悲鳴を上げてしまった。

久々にやりがいのありそうな趣味を見つけられると思ったがやはり一日で終わってしまった。


「あなたまたすぐ辞めたの? 続ければ楽しくなってくるかもしれないのに」


「普通に痛いの無理」


ミニトマトが入ったサラダにシーザードレッシングをかけながら返事をする。

詩香だってそれは分かっている。

ただ、初期印象に筋肉痛の酷い痛みが伴ってしまったせいで、自分が長く続けられるとはどうも思えなかったのだ。


「戦略的撤退だよ。ほら、初期投資とか継続するにせよ結構費用嵩みそうじゃん。余計なことにはお金をかけない主義なの。浮いたお金はその分他の趣味に回せるじゃん」


「他ってじゃあ何かやりたいことあるの?」


「……ソシャゲの課金とか?」


もっと身になることに使いなさいよ、と軽いため息を吐きながら食べ終わった食器を母親が片付け、そのままキッチンに向かってシンクで洗い物をはじめた。

ザーっと勢いよく水が出る音がリビングに響く。

母親の方を見れば、口が動いていたのでおそらく

何かを発しているのだろうが、水音に掻き消されてこちらまで声が届いていない。


「ねーえ! 聞こえない!」


詩香の大声にハッとした母が蛇口を閉め、流し台に掛けてあるタオルで手を拭いてからいそいそとこちらへ戻ってきた。


「そんな大した話じゃないんだけど、食器洗ってたら指のささくれが気になって。こういうとき詩香はむしり取る派? それとも爪切りでちゃんと処理する派?」


「ほんとに大した話じゃないじゃん……。てかマジでどーでもいいわ。……むしり取る」


「と言う割にちゃんと答えてくれるのね」


ふふ、と軽く笑いながら母は自らの薬指に付けられた銀の指輪を撫でた。

今年で両親は結婚40年の節目を迎える。これといったいざこざや大きな病気もなく、順風満帆に夫婦生活は進んでいるのだろう。

両親の頑健な遺伝子を受け継いだのか、詩香も生まれてこの方大きな病気を患ったことはないし、インフルエンザ等の流行りの感染症にも中学生の頃以降かかったことがない。


「詩香、佑成ゆうせいくんとはどうなったの」


本題はそれかよ、と心の中で舌打ちする。この手の話を始めると母は長いのだ。やたら根掘り葉掘り聞こうとしてくるので詩香は嫌気が差していた。あと単純に親にこういう話をするのが気恥ずかしくて好きではない。


「少し前に別れた。束縛無理」


そう告げると母は皺がかすかに刻まれた目を大きく見開いた。続いていると思っていたのだろう。いちいちそんなの都度報告しない。


「ちょっと! なんで言ってくれないの。もう、あなたがこう自由奔放みたいな感じなんだから佑成くんくらいちゃんと捕まえててくれる人貴重だったでしょうに。はー、もったいない!」


「ゆーせーは全然私に1人の時間くれなかったの! 四六時中メッセージとか電話とか気にかけるなんてやってられないでしょ! 私には合わなかった! 以上! 」


愛依あいちゃんは先日結婚したんでしょ。あなたもそろそろいい歳なんだから結婚を見据えたお付き合いを真剣に考えたらどうなの」


あー始まった始まった。

エンジンがかかり出した母はしばらく止まらないだろう。なんでこういう話ばかりしてくるんだ、と詩香は思った。このご時世、結婚が全てではないのが分からないのだろうか。


「よそはよそ、うちはうちです」


秘技、伝家の宝刀をお見舞いする。

そう、自分の人生なんだから自分の好きなように生きていいはずだ。周りに危害を加えている訳ではないのだから。とにかく結婚なんて考えたこともないし、自分が合わないと思ってる人とこの先ずっと一緒に生活するビジョンがどうも見えない。


「そうやって言えば引き下がると思ったら大間違いよ。いい加減何でも先を見据えて行動してほしいのよ」


「だから! 私は私で色々考えてるの! 先の未来なんて見えたら苦労しないよ! もうこの話はおしまい! 私、お昼は愛依と食べてくるから! 夜までには戻る!」


このままだとヒートアップして口論が始まってしまいそうだったので早急に話を切り上げる。余計な体力と精神を消耗したくない。


「じゃ、そういうことで。ごちそうさま!」


ちょっと詩香、と呼び止める母の静止を振り切り、手早く食器をキッチンに運び込んでから2階の自室に戻った。




♢♢♢




「それでちょっと不貞腐れてるんだ」


「不貞腐れてない、面白くないだけ」


「不貞腐れてるじゃん」


あはは、と声を出して、目の前に座る滝瀬たきせ愛依は笑う。

午後1時に駅前で愛依と待ち合わせてから、愛依がずっと行ってみたかったと言っていたカフェまで2人で歩いてきたのだが、少し不機嫌そうな詩香の様子はすぐに見抜かれ、席に着くなり理由を聞かれてしまった。

今朝起きた出来事を話している間、愛依は終始ニヤニヤしていた。何も面白いところなどないのだけれども。


カフェの店内では、天井の片隅に設置された高そうなスピーカーからビオラの優雅なメロディが流れていた。ちらりと壁を見ればこれまたいかにも高級そうなアンティーク調のオルゴールや、いつ誰が何処で使うんだよ、と思わずツッコミを入れたくなるような金色の装飾が成された絢爛けんらん豪華なお皿の数々が飾ってあって、入店した瞬間からお洒落だということが誰の目から見ても分かるような内装だった。詩香は自分が物凄くこの場には似つかわしくないと思ってしまう。ましてやちょっと親に小言を言われただけでイラッとしてしまう自分の幼稚さが際立つようで、無意識に背中が丸くなっていた。こほん、と咳払いをして姿勢を直す。


「とにかく! 愛依のせいだよ。半分くらいは。あ、結婚おめでとう。これ結婚のお祝い」


鞄から四角形の箱に包まれた祝い品を取り出しテーブルの上に置く。

贈り物のセンスはなかったので無難にカタログギフトにした。きっと貰った人も自分で選べた方が嬉しいのではないだろうか。結婚祝いでタンブラーとかマグカップとかが増えていく、とどこかで聞いた事がある。


「わざわざありがとう〜。てかスルーしたけどなんでウチのせいなんだよ」


テーブルに置かれた品に手を伸ばしながら愛依が言った。伸ばした手の薬指には綺麗な曲線の組み合わせで出来たプラチナ色の指輪が光っている。

その輝きを身近で見てようやく愛依の結婚を身をもって実感できたような気がした。友人の結婚は素直に嬉しい。

でもこれはこれ、それはそれである。


「だって、愛依は結婚するのにお前はどうなんだ、みたいな所から始まったからね。まあそもそも愛依が結婚すること伝えたのは私なんだけど」


「詩香のお母さんはきっと心配してるんだよ。まあ結婚が全てじゃないとは思うけど」


「そう! そうなのよ! 今度私のママに会ったら言ってあげて。愛依が言えば納得しそう。お願い、私の今後の人生がかかって……」


「え、嫌。既に結婚してるウチ目線だと、ただウチが嫌味たらしみたいな感じになるから嫌だよ」


「即答やめてね」


詩香の懇願も虚しく、被せ気味にバッサリ切り捨てられてしまった。別に不快感等は全くなく、むしろしっかり拒否してくるあたりが愛依らしいな、と思った。


愛依とは大学の構内で出会ったのでもう5年近くの付き合いだろうか。詩香の中ではかなり長い部類の人付き合いになる。

大学時代から愛依はスラッとしていて背が高く、端正な顔立ちをしていたので構内でもそこそこ噂になっていた。詩香も食堂等で愛依を見かけた時は確かに綺麗な人だな、くらいにしか思っていなかったのだが、まさか数年後も関係性が続くほどの友人になるなんてその時は微塵も思わなかった訳で、人生は本当によく分からない。


初めて愛依と話したのは大学3限目の講義が終わった後だった。

詩香は講義はいつも大体寝て過ごしていたが、その日の講義は前日にインストールしたソーシャルゲームの続きが無性にやりたくなって、講義中であるもののこっそりとスマホを取り出し、ゲームを起動した。

余談だがその時のソーシャルゲームは女性主人公の周りに集まるイケメン吸血鬼達を育成し、逆ハーレムパーティを作りあげて魔界のダンジョンを攻略するというローグライクアドベンチャーゲームである。タイトルはもう忘れてしまったが。

講義中にゲームをプレイする者に天罰が下るのは当然のことで、詩香がゲームを起動した時のスマホはマナーモードになっていなかったらしく、そこそこの音量でゲームのタイトルコール(イケメンボイス)が流れてしまったのである(この瞬間、詩香の大学生活は終わりが確定した)。

もうその後の講義自体どうやってやり過ごしたのか覚えていないし、恥ずかしさのあまり講義終了後にはそのゲームをすぐさまアンインストールした。ゲームのタイトルは忘れてしまったのではなく、思い出したくないの間違いかもしれない。

なんとか講義終了まで乗り切った後、すぐに荷物をまとめ講義室を出ていこうとしたのだが、そこで声を掛けてきたのが愛依だった。

ウチもそれやってるよ、同じゲームやってる人初めて見た、と言って目を輝かせていた愛依は既にゲームをアンインストールしている詩香の動揺などつゆ知らず、意気揚々と登場キャラクターの魅力について語り出した。もちろん詩香は前日にプレイし始めた初心者中の初心者だったのでキャラクターの名前すら覚えているはずもなく、確かその時は適当に誤魔化したのを覚えている。数週間後に愛依にそのゲームのプレイ画面を見せてもらったが、やり込みのレベルが桁違いだったのでやはりあの日に消しておいて正解だったなと詩香は思った。どうせ一緒にやっても愛依のレベルまで追いつくことはなかっただろう。

出会ったきっかけが中々特殊ではあるが、次第に構内で話すようになり、大人になった現在も交友関係が続いていて今や家族ぐるみの付き合いとなっている。推しキャラクターの名前を愛おしそうに呼んでいたあの愛依が結婚するなんて、感慨も一入ひとしおである。


「ちなみに聞いてもいい? 結婚の決め手はなんだったの」


そう言うと愛依は少し困ったような表情をした。


「えーっと、そうだな、言葉にするのがムズいっていうかぁ、この人だ! って思った瞬間があったんだよね。何かきっかけがあったとかでもないの。よくビビッとくるって言うじゃん? あれホント」


「そんな抽象的な……」


「だってそうとしか言えないんだもん。詩香もいつかわかるよウチが言ってること。ビビッだからね、ビビッ」


言語化を諦めた愛依は両手でピストルのハンドサインを作って、銃を撃つような仕草をした。

その様子を眺めながら詩香はふと考える。


……自分の未来をそんな直感的に決めていいのだろうか。

ましてやこれから一生を共に過ごすパートナーを運命的な出会いだ、などと一口に言ってしまって良いのだろうか。

その運命が絶対的である確証など何処にもないし、もし仮に2人で築き上げてきた道がある日突然崩れたら、その時どうするべきなのだろう。

それまで費やしてきた時間、お金、生活の全てが無駄になるような気がして、とてもじゃないけど重要な未来に繋がる選択を直感的にするなんて自分には出来ない。

きっと自分はどこまでも現実主義なんだろうなと思った。

未来のことなんて分かるはずもないのに、少し先の未来を想像するのが怖くてただただ思考を放棄している。

それでも出会った人々や何かしらの事象に対してその選択をして良かったと思える日は来るのだろうか。


「どしたのそんな真剣な顔しちゃって」


「あ、いやごめん、考え事」


愛依の声で我に返る。

どうもこういう事を考え始めると意識が深い所まで到達してしまいがちだ。普段考えないようにしている反動で、一度考え始めると止まらなくなる。とにかくこんな最悪な想像を新婚さんにぶつけるのは最低だ。


「そんな難しく考えなくていいんだよ。詩香は真面目だよねずっと。直感は人間に与えられた最速の知性だよ。もっと自分の直感信じてこーぜ。ほら、ウチが今日ビビッと来て選んだこのカフェも大当たりだったでしょ」


「確かに……。ここのミートドリア超絶美味しい」


だろだろー? といって愛依は自らが頼んだパスタセットをようやく食べ始めた。詩香がすでに頼んだミートドリアはすでに詩香の血肉となっている。愛依は料理の写真を撮ることに命をかけてそうなくらいスマホで撮影するので、詩香が食べ終わっても愛依の分の料理は運ばれてきた時と同じ形を保っていることがほとんどだ。


「んー、パスタもばか美味い。さすがウチのセンス! 詩香も自分の直感信じられない時はいつでもウチを頼ってくれよな」


「ありがとう。もう超頼りにしてる」


愛依の言う直感の話はたしかに一理あるし、幸せを噛み締めながら美味しそうに食べる愛依を見ていたら、なんだか考えすぎるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。困ったら遠慮なく頼らせてもらうことにしよう。


「まあ、ウチがビジュだけで選んだあの吸血鬼のソシャゲは4年でサ終したけどな! 50万くらい課金したんだけど! あははははっ」


「おい、説得力返せ」


不安になるような一言を放った愛依は、また笑いながらパスタを口へ運ぶのだった。




♢♢♢




「んー、すっかり話し込んじゃったねえ。もう外真っ暗」


「だね。でも愛依の新婚生活のこととか色々聞けて楽しかったよ。ご飯も美味しかったし」


お会計を済ませてカフェを退店し、2人で近くの遊歩道を歩いて少し寄り道しながら駅まで向かう。カフェのお洒落な雰囲気に絆されて、かなり長居してしまった。外はもうすっかり日が落ちており、時折吹く霜月の夜風がコートの裾を揺らしていて、本格的な冬の到来を感じずにはいられない。


「うぅ〜、寒い〜」


「もう冬になるのにそんな薄着だからだよ」


「むしろ冬だからだぜ。 冬服は可愛いの多いけどシルエットがもこもこになりがちだから足出してかないと!」


「寒いから私は無理」


「チュール系も冬の重くなりがちなコーデ回避にいいんだけど、白エコファーだと着膨れして見えちゃうからやっぱ丈短め×あえてのコンバットがウチの中ではマストなんだよな」


「んー、あー、うん」


はぁーっと白い息を手に吹きかけながら真横を歩く愛依の服装は、毛は長いけど全体的に薄い素材で出来たファーコートに風通し抜群のタイトスカートといった可愛さ全振り防御力ゼロの装備で構成されており、モッズコートで完全防備した詩香と比べて、ダイレクトに寒さを感じるのは一目瞭然だった。

愛依はファッションや美容、いわゆる映え写真といったものが大好きで、対照的に詩香はその手のものには全く興味がなかったので、時折愛依が話す呪文のような言葉は一度も理解出来たことがない。先日いきなり、パーソナルカラー診断でブルベ冬だったからフューシャ色ティント買っちゃった、しかも青パル入ってんの! と嬉しそうに告げてきた時は頼むから日本語で話してくれと思った。


全く趣味嗜好の系統が違うのに愛依といるのが心地よいのは無言が苦にならないからだ。

先程のカフェもそうだが、愛依と食事に出かけた時は、食べ終わった後愛依が撮りためた写真のスーパー加工タイムに入るので、その間詩香は持ってきた小説を読んだり、イヤホンをしてスマホでアニメを見たりしている。どちらかがねえ、と話始めればそこから会話が繰り広げられた。一緒に居るのに一人の時間も堪能できるといった絶妙な距離感とお互いのパーソナルスペースに侵入し過ぎない関係性が詩香は気に入っていて、愛依と出掛ける日はテンションが上がる。まるで一口で二つの味を楽しめるチョコがけポテトチップスを食べた時のように。


「そうそう、最近インスタで見かけた行きたい候補のお店が何件かあるんだけどね、次はここ狙ってるの」


「どれどれ? おー、パンケーキ美味しそう。へぇー、ケーキセットも種類めっちゃあるね」


「でしょ。絶対可愛い写真撮れるから次ここ一緒に行こーぜ」


「めっちゃ楽しみ」


次の約束の日取りを二人で話し合いながら歩いていたらあっという間に駅にたどり着いてしまった。お昼に結構なボリュームのミートドリアを胃に入れたのでまだあまりお腹は空いていない。家に帰る前に本屋でも立ち寄ってみることにしよう。


「あ、そういえばこれ」


本屋で思い出したが、愛依にミステリー小説を貸してもらっていたのだった。鞄の奥底から書店の柔らかいショッパーに包まれた本を取り出し愛依に手渡す。


「おお〜忘れてた。どだったどだった?」


「私にはミステリーはまだ早かったみたい」


「あはは、正直!」


ごめん、と言って本を手渡すも特に気にする様子もなく自らの鞄にしまい込む愛依のあっけらかんとした姿に思わず笑みが漏れる。このような反応が返ってくることが分かっていたから、無理して読まなくてもいいなと思ってしまっていた部分もあったに違いない。


「逆に今度詩香のおすすめの小説貸してよ」


「んー、そうだなあ。長編になっちゃうけど魔法国のファンタジーは結構良かったかも」


「えー! 難解な設定理解できないから嫌い!」


「普段愛依が話す呪文のほうがよっぽど難解だよ」


相変わらずズバっと切り捨てるのだが、むしろこの空気感が楽しいまである。それじゃまた連絡するね、と言って手を振る愛依を駅のホームで見送って、詩香は隣駅の本屋に向かった。



閉店間際の本屋に入り、多少の申し訳なさを感じつつも目新しい本がないか物色する。微かな紙の香りが感じられる本屋の佇まいが詩香は好きで、用事もないのに立ち入ることもあった。もちろん、そこで出会える無数の本の中から自分に合いそうな物語を見つけ出す楽しみが本屋の一番の醍醐味である。詩香は基本的には主人公が仲間と共に強敵に立ち向かう冒険小説が好きで、読んでいると自分もその一員になって一緒に旅をしているような感覚が味わえるので、購入したその日に夢中になって読み耽ってしまう。あらすじをじっくり読んでから購入する場合もあれば、詩香自身がウェブデザインの仕事をしているためデザイン性が高い表紙に惹かれ、いわゆる表紙買いをしてしまうこともある。それは小説だけではなく、例えば啓発本だったり詩集だったり、気になったものはとりあえず買って読んでみる、というのが詩香の本に対するセオリーだった。

これが愛依が言っていたビビッと来たという感覚だろうか。でも自分の場合、選んだ本の当たり外れはそれなりにあって、面白そうと思って購入した本でもストーリーの起伏が思っていた所にいかないと途端に面白さを感じなくなったり、想像以上に陳腐な言葉が並べられた啓発本にうんざりすることもあるので、愛依が言っていたものとは少し違うのかもしれない。

新しい物語、新しい発見と出会えるのを楽しみに店内を散策しているとふと目に止まった一冊の本があった。普段はあまり立ち寄ることがない参考書、解説書コーナーで目に入ったのは動画編集にまつわる本だった。


「そういえば仕事で使ってるパソコン古くなってきたし買い換えようかな。せっかくなら動画編集出来るくらいのスペックがあってもいいよね」


動画編集に手を出したことは全くないのだが、今ふと思いついてしまったのだ。愛依と一緒に食べたご飯の写真や出かけた記録を動画にした、所謂Vlogを作ってみたいと。過去に文字ベースのブログに挑戦したこともあるのだが、普段小説を読んでいるくせにいざ自分が文章を綴ろうと思うとこれっぽっちも言葉が出てこなくて断念してしまったので、次はビデオブログという形で挑戦してみることにする。

仕事で使うパソコンの買い替え時期だからという言い訳と思い立ったら即行動の習性に駆られ、気がつけば動画編集の解説本を持ってレジに向かっていた。




♢♢♢




今日は朝起きてから仕事で依頼のあった案件資料に目を通していた。詩香の職場はフレックス制度を導入しており、通常は存在するコアタイムもないので、月間の総労働時間の基準さえ満たしているならどのタイミングで出退勤しても良いというかなりフレキシブルな環境だ。

ウェブデザイン業界の中でもそこそこ大きい規模の職場のため、いつ出勤しても職場に誰かしらいる事が多く、またお客様からの依頼を受けるディレクター部門と実際に写真などを使ってデザインを思案するグラフィック部門、それから画像をHTMLなどの言語からコード化するコーディング部門といった形で一連の流れの分業化が出来ているので個人の負担も少なく、また有休等が比較的取得しやすいということもあり、一社員としては大変有難い限りである。

今日は職場には出勤しない予定だが、今進めている案件の初期構想案が先日ディレクターから降りてきたので、家にいる間もどういったデザインがいいかと考えていたところだ。デザインを考える時間は全く苦ではないので、家の中でも仕事をしているという意識はなく、むしろ物語を読んで想像を膨らませている時のような感覚に近いところがある。

資料をパラパラと捲りながら構想を練っているとぴんぽーん、と家のチャイムが鳴った。


「あ、そういえば頼んだやつ来るの今日だったっけ」


自室のデスクチェアに掛けてあるカーディガンを羽織ってから、階段を降りて玄関に向かう。配達員から荷物を受け取ってリビングまで運んだ。ずっしりとした重みのある箱を一旦床上に置いて一息つく。

届いた荷物は、先週愛依と出掛け動画編集の本を購入した日の夜に、自宅で色々とネット記事やおすすめのパソコンを紹介する動画などを見ながらじっくり吟味した新品ノートパソコンだった。これで仕事のパフォーマンスも上がりそうだし、これから始める動画編集作業も捗りそうだ。

パソコンについての知識はほぼほぼゼロに等しかったので、ネット情報を頼りにそれなりのスペックのものを選んだ。とりあえずの目標はVlogを作成することなので高処理の性能は必要ないとは思ったが、これから公私ともにしばらく使う相棒になる訳だし、それにゆくゆくは本格的な動画を作ることになるかもしれないので、おすすめサイトでは16GBのメモリを紹介していたが奮発して32GBにした。まあそもそもメモリがなんなのかもよく分かっていないのだが。内部処理がなんとかかんとかしてくれて、結果的に重くなりにくいってことでいいんだろうか。


現在の時刻は午後3時、この時間帯は親がまだ仕事に出掛けているため、家には詩香一人しかいない。箱に入ったまま2階まで運ぶのもなかなか大変なので開梱作業はリビングですることにした。

届いた荷物の封をダンボールカッターで開け、四隅を発泡スチロールで縁取られたパソコンが入った箱を取り出す。さらにそこから本体とケーブル類を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。電源はテーブル下に置いてある延長ケーブルから確保する。電源を入れてWiFiなどの初期設定を済ませてから、目的であった動画編集のソフトをダウンロードした。とりあえず初回なので無料のソフトを使用して、もし今後継続して作ることになるならより本格的な有料ソフトをダウンロードするつもりだ。ソフトの使い方はソフト内のヘルプページに載ってはいるのだが、今はスマホでソフトの名前、使い方と検索すれば有識者が詳しい使い方を画像付きで載せてくれていたりするので、ネット社会のこの時代に感謝するしかない。


動画編集の基礎はこの前買った本で予習済み、Vlog動画の作り方もネット情報からある程度知識を吸収できた。必要なのはまず素材となる写真や動画、そして後ろで流すBGM、あとはキラキラ音だったり拍手の音などの所謂効果音だ。色味調整などのカラーグレーディング作業もおおよそは理解したつもりではいる。あとは実際に他人がアップしているものを見て自分に合いそうな編集を参考にしながらトライアンドエラーしかない。頭の中にある構想と歴代経験者達の知恵を頼りに、オープニングや時系列の組み立てはどうしようか、などと考えながら作業に没頭した。




♢♢♢




「ただいまー」


「ん、おかえりー」


作業に没頭し過ぎて気がついたら夜になっていたようだ。親が帰ってきた声でようやく外が暗くなっていることに気づく。時計をちらりと見れば午後7時をまわったところだった。大きく伸びをして凝り固まった肩や腰を動かしてから立ち上がり、リビングのカーテンを閉めた。


「あなたこんなに散らかして……。晩ご飯用意するからそれまでにちゃんと片付けなさいよね」


「あ、ごめんごめん今片付ける」


パソコンを開封してからすぐに作業に取り掛かったので、開封後のダンボールや発泡スチロールなどがリビングの床に転がったままだった。ダンボールを畳んで渡り廊下に設置してあるダンボールストッカーに置いて、発泡スチロールやパソコンが入っていた透明のビニール袋を小さくしてからゴミ箱に捨てた。


「詩香、今度は何買ったの?」


リビングの片付けをしている詩香とダイニングテーブルの上に置いてあるパソコンを交互に見ながら母が言った。詩香は定期的にネットショッピングで物を注文するので、家に宅配便が届くのは日常茶飯事のことだ。基礎化粧水や歯ブラシなど普段から変えることなく使用するものは定期配送便で注文したり、あとはその時の趣味に必要な物を店舗で探すのが億劫な時はネットで探して注文することが多い。先日家に届いたレザークラフト用の菱目打ちや木製のハンマーを見た母は呆れて愛想笑いを浮かべていた。ちなみにその時作ったレザーのコインケースは初挑戦にしてはそれなりの形になったものの実用できるレベルまでには至らなかったので、今はデスクの引き出しの奥に入っている。


「これ! 新しいパソコンだよ〜。 仕事でも使えるし、動画とかゲームもサクサク動くから超快適!」


パソコンを指差しながら母の質問に答える。

母はエプロンを付けて帰りに買ってきた材料を冷蔵庫にしまっていた。そうなんだ、と言ってそれ以上の追求は特にしてこない。だから詩香も動画編集に手を出してみたとは言わなかった。きっとまたどうせ長く続かないんでしょう、と小言を言われるだけだろうし、不毛な争いはしない主義なのだ。


「じゃ、私自分の部屋に戻るから。あ、洗濯物は回してもう取り込んでおいたから今日の分はやらなくて大丈夫だよ」


「あら、ありがとう。晩ご飯出来たら呼ぶからね。冷める前に降りてくるのよ」


「はーい」


ダイニングテーブルを拭き始めた母の邪魔にならないようパソコンを即座に回収して、両手で抱えながら2階へと向かった。




夕食を食べお風呂も済ませた後、自室の机でパソコンを起動する。インストールした動画編集ソフトを開いて作成途中のプロジェクト編集画面を読み込んだ。先程の作業はオープニングのタイトルが出てくる部分に拘りすぎた結果、ソフトに収録されてある無数のテンプレートの中からしっくりくるものを選んでいるだけで終わってしまった。つまりまだ本編にはノータッチだということだ。サクッとタイトル画面くらい作れると思っていたのだが、やはり何事もやってみなければその難しさは分からないようで、15秒くらいの尺を作るだけでもほぼ半日くらいかかってしまった。平気で30分とか1時間尺の動画を作成している人達の凄さを改めて痛感する。自分の場合、拘りが強すぎてワンシーンごとに完璧なものが出来なければ先に進めないというのもあり、どうしても一部分にかける時間が多くなってしまう。ただ、やはり創意工夫を凝らして物を作っている時間が好きなので編集作業はとても楽しい。クリエイティブ系な趣味のほうが合っているのかもしれない、と詩香は思ったが、そういえばレザークラフトに熱中した期間は秒で過ぎ去ったので、やはり自分の中の判断基準はよく分からない。


先程作成したオープニング部分を見返してみるとなんか自分が作ったものではないように思えた。少し時間を空けるとまた変わって見える、と書いてあったネットの記事はどうやら本当のようだ。まあそれは行き詰まった時に一度間を開けると良いと書いてあった方法なので、行き詰まっていないのにこうも見え方が変わってしまうのは大いに問題がある。まだBGMも付けていないのでこれから印象が変わる可能性もあるし、とりあえず一旦置いておこうと考え、オープニング部分と本編部分を繋ぐトランジションのエフェクトを探していると不意に携帯が着信を告げた。表示を見ると電話主は愛依となっている。


「もしもし、愛依? どうしたの」


『あ、詩香詩香! 今さこの前言ってたお店の予約情報見てたんだけど、来週の14時からの枠空いてるんだよね! 詩香が良ければ今もう予約しちゃいたいなって思って!』


再来週の月曜日が案件のグラフィックデザイン案をコーダーさんに渡す第一締切なのだが、もう既にデザインの構想は大体決まっているので何とかなるだろう。それに愛依とカフェに出掛ける時間は何よりも楽しいので是非お願いしたいところだ。ついでに新しく買ったパソコンを自慢しよう。


「来週ね、おっけー、空いてる。他の人に取られる前に予約お願い!」


『マジかやったー! ありがと詩香! やっと行けるよ! ここ数日ずっと予約サイト張り付いてたからさ、枠空いた時声出たよね』


「私も嬉しいよ。愛依、写真撮りすぎて食べ終わる前に席時間終了しそう」


『うわ有り得るすぎるなそれ。席時間3時間って結構余裕くれるお店だし、それで回転率が悪いから尚更一日の組数縛られてるのかも』


「じゃあお店ついたら愛依は写真に専念していいよ。私も写真撮りたいし、別の作業とかしたいこともあるし」


『まじ神ですか詩歌様……』


「話なら終わった後に別のカフェとか行ってすればいいじゃん? とりあえず人気店の雰囲気と食べ物は楽しまなきゃ損だよ」


『あは、カフェハシゴ! めっちゃいい! テンション上がってきた〜!』


電話の向こうで喜ぶ愛依の姿を想像して嬉しくなる。詩香も人気のカフェの素材を撮影出来るのは嬉しいし、カフェ店内の雰囲気を味わいながら進める動画編集作業はより集中出来そうだ。


「ね、テンション上がる! 予約ありがとね。というかいつもお店選んでくれてありがと。私インスタやってないからお店の情報ないんだよね」


『全然だよー。むしろいつも付き合ってくれてありがとうはこっちのセリフだぜ。ウチの写真ありきのご飯に寛容なの詩香しかいないもん。てことで予約完了!』


「予約やったー! というかそれはホントこっちのセリフね。だいたい暇してるから誘ってくれるの助かる」


詩香フッ軽だもんね、と言って愛依は笑った。それは確かにその通りで、家でゆっくり本を読むのも好きだし、外に出掛けるのも好きなインアウトどちらもいける口なのだ。まあだいたい誘ってくるのは愛依くらいなのだが。


『じゃあまた来週ねーん。駅近いとこだし待ち合わせはお店前でもいいかも』


「りょうかい〜」


ツーと音が鳴って電話が切れた。

来週の楽しみができた。新しいパソコンを使って仕事をするのも動画編集作業を進めるのも楽しいし、定期的に友人とも遊びに行ける。

別に結婚しなくても、長く継続できる趣味がなくても人生は謳歌できる。何の問題もない。自分の人生は自分が楽しいと思えればそれでいい。




寝る前にトイレに行こうと1階に降りると母がカーテンを空けて外を見ていた。上を見上げているから空を見ているんだろうか。


「なにしてるの」


詩香が声をかけると母はびっくりしたように背中を震わせてこちらを見た。


「びっくりした、起きてたの。もう寝たのかと思ってたわ。今日ね、皆既月食の日なのよ。日本で見られるのも数年に何回かだから貴重よ」


「ふーん、そうなんだ」


天体には全く興味がない。ただ貴重だと言われれば見ておきたい気持ちもあったので、窓際で空を見上げる母の隣まで行き、一緒に空を見上げた。


「不思議よね。普段見ているお月様と同じとは思えない。綺麗だわぁ」


「え、これ綺麗? むしろ赤黒くて怖くない? 世界の終わりみたい」


「そうかしら。世界の終わりがこんなに綺麗なら素敵だと思うわ」


「怖いこと言うのやめてよ……」


自分から話を振ったは振ったが、意味深な事を言わないで欲しい。

ずっと見ていたら吸い込まれそうで、詩香は一度視線を月から外した。焦点を合わせずにぼーっと街頭の光を見ていたらどんどん2重の光の輪ができていって視界がふわふわになる。ぼやけた灯りがキャンドルライトのように揺らめいて月を際立たせているようだった。美しいとは思えなかったが、不気味さと神秘さが絶妙な塩梅で両立しているような気がした。


「そういえば、小さい頃ママにキャンプに連れてってもらったことあるじゃん? あの時もたしか一緒に空見たと思うけど、月が大きかったな〜っていう記憶ある。私が小さかったから大きく見えただけなのかな」


「キャンプに行った時は、あなた遊び疲れて夜はすぐに寝てたわよ。空なんか見てたかしら」


「えぇ、覚えてないの……。星もキラキラしててさ、綺麗だなぁって……」


自分で言いかけた言葉に疑問を感じて口が止まる。天体に興味がないはずなのに、何故その時は綺麗だと思ったのだろう。いや、本当にその時に綺麗だと思ったのだろうか。今空を見上げた所で感じるのは夜は暗いなぁくらいで、星の輝きとか月の形とかには全く心は惹かれない。幼い頃の多感な時期に芽生えた一時の好奇心が、綺麗に見えるフィルターを掛けていただけなのかもしれない。


「キャンプといえば、あなたが行きの車でトイレ我慢できなくて、途中でお漏……」


「いやあその話はしないで! なんでそんなどうでもいいことは覚えてるんだよ! もう私寝るから! おやすみ!」


最近は買い物メモを持って行っても買い忘れがあったり、物覚えが悪くなってきている母なのだが、余計な情報だけ覚えているのは何なんだろうか。変な記憶を思い出させないで欲しい、と詩香は思った。忘れたい過去に限って忘れられないのである。




♢♢♢




約束の時間の少し前にカフェに着いた。準備に少し時間がかかってしまって、最寄り駅に到着してからここまで走ってきたのだがまだ愛依はまだ到着していないようだ。とりあえず外にずっと居るのも寒いし、もうすぐ予約時間なので店内に入った。


「14時から予約していた滝瀬です」


店内に入り、入口付近にいた女性店員に予約名を告げ、席まで案内してもらう。店内の座席数はそこまで多くなく、少し椅子を後ろに引けば真後ろに座っている人の椅子にぶつかってしまうくらい通路自体は結構狭い。だがそのこじんまりとした佇まいと、店内の間接照明やアクセントに飾られた絵画やオブジェが隠れ家的な雰囲気を醸し出していて、とても落ち着ける空間だった。もちろん座席は全て埋まっているし、席時間も決まっていておそらく次の予約が入っているので、注文は早めにしたほうが良いだろう。

ご注文お決まりでしたらこちらのベルでお呼びください、と言ってお冷をコトッとテーブルに置いた店員に会釈し、愛依に連絡を入れてみる。

メッセージを打とうとした所で愛依から電話がかかってきた。店内の雰囲気もあり小声で応答してしまう。


「もしもし愛依? 大丈夫? 先にお店入ったよ」


『ごめん、しいがぁ、ゲホッ。インフルなっだ〜〜』


「えっ、ちょっと大丈夫?!」


小声で話してたつもりが驚いて大きくなってしまった。周りにすみませんのジェスチャーをしながらまた小声で話す。


「え、ほんとに大丈夫? 薬とかは? 病院行った?」


『うん、ぐすりはもらった〜。なんか昨日の朝から具合わるぐて、病院いったらインフルで、そのまま点滴うってもらっで、ゴホッ、昨日は寝ちゃっだ。今日も連絡入れようとおもったんだけど、身体動がなくて』


「いいよいいよ、大丈夫! お見舞い行くよ、欲しいものとかある?」


『うつしたら悪いがら大丈夫〜。てかほんとごめん、せっかぐ楽しみにしてもらってたのに』


「それはほんと大丈夫だって! てか喋るのきついのにごめん、あとはメッセージとかでいいよ」


『ごめん』


愛依はそう言って電話を切る。まさか愛依がインフルにかかるとは思わなかった。この時期は確かに全国的に流行っているし、対策していてもかかる時はかかるから仕方がない。大丈夫って言ってはいたけど本当に大丈夫なのか心配になる。すぐさま愛依にメッセージを送ってみた。

愛依からは『大丈夫、ほんとにごめん、せっかくの貴重なカフェなんだから詩香はせめて楽しんで』といった内容の返事が帰ってきた。友人が苦しんでいる時に楽しんで良いのだろうか、と思ったが、愛依から追い討ちで『次は絶対一緒に行く。写真は自分で撮りたいから味の感想だけ教えて』というメッセージが来たので、ここは素直に食事を楽しむことにした。詩香自身、動画のためにお洒落な雰囲気を撮影したいし、上質な空間で編集作業ができることを楽しみにはしていたのだ。何よりレビュー評価が高いケーキを食べることができるまたとないチャンスである。わかった、という内容を愛依に送り、メニュー表に目を通した。

悩みに悩んだ末、お店イチオシのパンケーキセットを注文した。注文する際に、予約していた1人が来られなくなってしまったが大丈夫かと先程の女性店員に尋ねると、柔らかい声で問題ありませんよ、と返答してもらえたのでとりあえずホッと胸を撫で下ろす。お店も店員の雰囲気も暖かくて抜群の癒し効果がありそうだ。

ほどなくして運ばれてきたパンケーキを見て思わず感嘆の声が漏れそうになった。薄いチョコレートコーティングで出来たオランジェットが後光のように添えられていて、口に入れただけで溶けだしそうなパンケーキの存在感を繊細に引き立てている。愛依だったらきっときゃーきゃー言って写真連射しそうだな、と思いながら詩香も黙々と写真を撮った。


食後のコーヒーを飲みながら、持ってきたパソコンを立ち上げる。実は密かにカフェでパソコン作業をする行為に憧れていた。何故かは分からないけど、めちゃくちゃ仕事が出来そうな人というイメージが勝手にあって、内心誇らしげに作業を進める。店内のお洒落なBGMと挽きたての豆の香りが鼻腔をくすぐって、なんだか心に余裕を感じる。愛依が傍にいれば、ふふんと鼻を鳴らしてできる大人な女性を演出しながら新品のパソコンを自慢しようと思っていたのだが、それはまた次の機会の楽しみにすることにする。食事も美味しかったし次こそは絶対一緒に来たい。


立ち上がったパソコンの編集ソフトをクリックし、昨日の続きから作業を再開する。今回このカフェで撮影したものも動画に入れようかという考えが一瞬脳裏を過ぎったが、作成する尺が長くなって全体のクオリティが下がっても意味がないので、最初に作るものは比較的シンプルな構成でいくことにした。昨日の作業でオープニングと本編を繋ぐ部分が我ながら上手く出来たので、次は撮った写真の色と動画の色を統一するカラーコレクション作業と、コントラストや彩度を調整するグレーディング作業を行って、全体を淡い色合いに仕上げていく。先日購入した解説書も取り出し、折り目を付けた頁を開いて、読み込み得た知識を動画に反映させていった。そういえば、BGMはどうしようか。効果音は昨日画面をスクロールしながらちょこちょこと聞いてみて、ソフトに内蔵されているものの中からいくつか使えそうなものをピックアップできた。ただBGMに関してはイメージに合うものがソフト内にはなかったので、外部サイトからフリー音源を借用しようと思っていたのだ。

イヤホンをして、フリーBGMが並んでいるサイトを開き、目的にあった曲のイメージを検索欄に打ち込む。今欲しいのはキラキラしているような柔らかい感じの音や、落ち着くことが出来そうなゆったりとしたメロディ音。イメージを具現化しようとしても、曖昧な言語でしか表現が出来ず、なんと打てば目的に近い音源がヒットするか分からない。煌めきや安らぐといった言葉を入れて検索を続けるが、なかなか思うようなメロディに辿り着かない。

例えば自分で作るならどういうメロディになるのだろうか。心の中で浮かんだメロディを頭の中で鳴らしてみる。


♩〜〜〜〜〜


我ながら単純なメロディしか思い浮かばないな、と詩香は思った。詩香は音楽には生まれてこの方趣味として触れたことがないので、楽器も演奏出来ないし、もちろん曲を作ったことなど一切ない。素人がすぐに思いつきそうな単純なメロディが頭に浮かびはしたが、一度頭の中に鳴ったそのメロディが邪魔をして次のメロディが降りてくることはなかった。一昔前に流行ったような、懐かしい感じのメロディを頭から追い出そうと首を振る。やはり自分で作るという線はない。ただでさえ動画を作ることで今はいっぱいで、音楽まで自分で作っていたら完成するのがいつになるか分からないだろう。


詩香がふぅと息を吐き出して、引き続きイメージに合いそうなBGMの言葉を検索欄に打ち込んでいた時だった。不意に肩を叩かれて思わずびくっと全身が跳ねた。慌ててイヤホンを外して横を見ると、今日ずっと丁寧に接してくれた女性店員が傍に立っており、周りの客がちらちらと自分の方を見ていたのだ。その瞬間に、詩香は悟った。この経験をしたことがある。忘れもしない、大学の講義3限目、愛依と初めて話した日のこと。あの日はスマホがマナーモードになっていなかったが、今日はどうやら詩香自身がマナーモードになっていなかったらしい。


「〜〜〜〜〜っ、す、すみません! 」


全力で店員と周りの客に向かって頭を下げる。この人達から見れば急に幼稚なメロディを歌い出したただの不審者だ。頭の中で歌っていたつもりがどうやら声に出してしまっていたようだ。また黒歴史を生み出してしまった。しかも次は愛依と一緒にここに来ようと思っていたのに、次来る時はどのような顔をしてここに来ればいいのだろうか。こちらに首や目だけを向けて見ていた客達は自分の手元に視線を戻して食事の続きを楽しんだり、一緒に来店している相方との談笑を始め、カフェの店内は次第にいつも通りの静寂を取り戻していった。詩香の心音だけが反比例するように羞恥心でどんどん大きくなっていく。


「あの……」


傍に立っていた店員が口を開く。次に来る言葉など誰でも予想がつく。きっと他のお客様の迷惑になりますので、というマニュアル通りのセリフが飛び出てくるはずだ。そしてそのまま詩香は出禁コースまっしぐらである。

当たり前だ、人気店で痴態を晒して他人に迷惑をかけたのだ。他の客の安全を確保するためにも不審者にはご退場いただくのがお店としての誠意だ。面倒臭い役回りを今日終始優しくしてくれた店員にさせてしまった事が何よりも申し訳なかった。


「すみません! すぐ出ていきます! あの、お会計お願いします!」


テーブルの上のパソコンを勢いよく閉じて鞄にしまい込む。先ほどまでの編集プロジェクトを保存したかどうかが一瞬気になったが、そんなの消えても仕方ない。今はこちらがそれ以上の誠意を見せて立ち去るより他ない。


「あの、ちょっと待ってくださいっ!」


席を立ち、レジに向かおうとした詩香を店員は少し大きな声で静止した。周りもまた何が起こったのかと顔を上げる。詩香本人も何が起こったのか一瞬分からなかった。店員が他の客に大声を出してしまったことを謝罪し、再びこちらに向き直る。とりあえず席についてください、と促されあまり状況が理解できないまま再び座り直した。


「えっと、庇ってくれたんですかね、すみません……」


詩香以上の大声を出して周りの意識を自分に向けさせたのだろうか。だとしたらアフターケアとして咄嗟にそのような行動が出来るのは凄すぎる。何から何まで至れり尽くせりなサービスを提供してくれるお店と店員には今自分ができる最大限の感謝を示すべきだ。少しでもお店の売上に貢献出来るように、追加の注文をその場でしようと店員の方を見た。

その店員は驚愕したような表情だった。

なぜ、そんな顔をするのか分からない。


「えっと……」


詩香の言葉の続きを待たずに、左胸のネームプレートに「茅野かやの」と名前を掲げたその女性店員が口を開いた。




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