Scene 1-3「存在の空白」
廃墟の廊下に出ると、空気がひどく重く感じられた。さっきまで見ていた記憶の残響が、この薄暗い空間にまだ漂っているようだった。
光の粒が視界の隅をよぎって消える。
術式の微かな余波に過ぎないのに、何かがこちらを見ているようで、胸の奥がわずかにざわつく。
「……戻ってこれてるか」
レオンの声が静かに響く。
問いかけというより、確認。
ユイは一度だけ小さく頷き、それから短い息を吐いた。
「……平気。ちゃんと、今にいる」
掌の熱が戻るまで、少しだけ時間がかかる。
端末を握り直すと、ひんやりした感触が意識を引き戻してくれた。
階段を上がると、空気はさらに冷たかった。
上階は、下よりも荒れていない。
荒らされた痕跡がなく、整然とした空虚だけが残っている。
廊下の奥の壁には、古びた標識がまだ取り付けられていた。
「区画B-14・居住棟5階」
文字は薄れ、端が剥がれていたけれど、まだ読める。
この部屋に、あの子がいたのかもしれない。
何の証明もないのに、そんな確信があった。
ユイはゆっくりと歩を進める。
剥き出しのコンクリートに靴音が落ちて、すぐに吸い込まれていった。
――何も残らない場所。
存在しないとされた人間が、最後に隠れるにはふさわしい。
「ユイ」
レオンの声が背後で止まる。
「ここは俺が見張る。やれるか?」
「……うん」
声はかすれたが、迷いはなかった。
ユイは部屋に入った。
薄い光が差し込んでいる。
床には、ひどく古い人形が落ちていた。
顔も胴体も煤で汚れ、片方の腕がなくなっている。その小さな影が、なぜだかとても悲しかった。
子どもがいた。
笑ったり泣いたり、息をしていた。
それが、こんなふうに消される。
「……」
ユイは膝をつき、そっと人形を拾った。
手の中に残るのは、布の感触と埃だけ。
それでも、たしかに誰かがこれを抱いていたはずだ。
「記憶は……全部、どこに行くんだろう」
問いかける声は、自分の耳にさえ届かないほど小さかった。
人形をそっと置く。
手首の端末に指先を滑らせる。
術式が発動する感覚が、皮膚の下を満たした。
「《
音も匂いも、感覚が遠ざかる。
空間が、二重に揺らぐ。
視界が反転するように、廃墟が“記憶の中の光景”に変わった。
天井は崩れておらず、窓はきれいなガラスで閉じられている。
壁の汚れもない。
空気が、ひどく澄んでいた。
でも、その透明さは冷たくて、寂しかった。
――足音。
誰かの小さな靴が、床を叩く。
息が乱れる。
布が擦れる音。
幻影が揺らめくように浮かび上がる。
白髪の少年。
あの写真の少年と同じ後ろ姿。
肩がかすかに震えていた。
何かを必死に堪えるように、息を詰めている。
ユイは思わず一歩近づく。
幻影は、触れれば壊れてしまいそうに淡い。
それでも――
手を伸ばした。
届かない。
けれど、何かを伝えたくて、指先を向ける。
幻影は膝を抱え、顔を伏せた。
唇がわずかに動いた。
声は聞こえない。
でも、その言葉の形だけが見えた。
――助けて。
胸が締めつけられた。
自分も同じ言葉を、心の奥で何度も繰り返していた。
声にならない助けを、いつも誰かに投げていた。
「……ごめん」
無意識に出た言葉は、幻影には届かない。
それでも、言わずにいられなかった。
淡い光が、ゆっくりと散る。
幻影は消え、部屋の中に静寂が戻る。
幻影が消えても、その場の冷たさは変わらなかった。
空間に染みついた恐怖は、光の粒になって散るわけではない。
記録から抹消されても、そこにあった感情だけは残り続ける。
ユイはゆっくり立ち上がり、手首の端末に視線を落とした。
解析ログの一部がまだ生きている。
焼却された情報の断片。
それは黒い影のように、符号列を寸断していた。
「……これ」
唇が震えた。
欠けた符号の端が、既視感を呼び覚ます。
見覚えがある。
だけど、それは知識としてではなく、自分の骨に染みついたものだった。
《
存在しないはずのものを、存在させる術式。
その構造は、誰かが秘密裏に造り上げたもの。
それを使って自分は“定義”され、ここにいる。
その術式が、あの少年にも――
視界が霞む。
胸の奥が冷たく痺れて、呼吸が浅くなる。
「……ユイ」
レオンの声が背後から届いた。
短く、穏やかに。
「まだ解析できるのか」
「……うん」
言葉に力を込める。
大丈夫、と言わなければ動けなくなる気がした。 指先が微かに震えたが、もう一度端末に触れる。焼却痕の間を縫うように、断片的な記録が残っていた。
声。
何度も何度も、かすれた呼吸の合間に小さな声が混じっていた。
助けて。
たぶん、そう言っていた。
でも、その声も終わりかけに変わっていた。
諦めに似た静けさ。
――最初から、いなかったみたいに。
胸がひどく痛む。
何もできなかった。
それは、この記憶に閉じ込められた少年も、自分も同じだった。
「……レオン」
「なんだ」
「この符号は……僕の術式と同じだ。たぶん、この子も……僕と似た手順で“作られた”」
レオンは何も言わなかった。
ただ、それを否定もしなかった。
「でも、違うところがある」
「違う?」
「僕は“存在する”ことを定義された。でも、この子は“存在を抹消する”ために上書きされてる」
言葉が自分の耳にも重かった。
そうだ――
あの幻影の少年は、たぶん自分と同じだった。
生まれてはいけなかった存在。
けれど、どうしようもなく生きてしまった。
「最初から、いなかったようにする。存在そのものを空白にする」
喉が乾いた。
「それが、ここに残ってる痕跡」
レオンは小さく息を吐く。
「この消し方……雑だが、内部命令がないと無理だ。軍か、それに近い研究機関の仕事だ」
「……うん」
声は震えたが、もう隠す気にはなれなかった。
視界の端で、光がまた揺れる。
誰かの記憶の残響。
怯えた背中。
もしかしたら、自分もそうなるはずだったのかもしれない。
「でも、僕はまだいる」
誰に向けたものでもない呟き。
「ちゃんとここにいる」
レオンは短く頷いた。
「そうだな」
それだけで、ほんの少しだけ冷たさが遠のいた気がした。
ユイは端末を閉じ、視線を落とす。
焼却痕は消えない。
そこに何があったのかを、知ることはできない。
けれど、その欠落が、確かに誰かがここにいた証だ。
「……行こう」
「ああ」
レオンが先に歩き出す。
ユイは一歩遅れて後を追った。
廃墟の風が、二人の影を遠くに伸ばした。
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