第6話 影の目②
渡辺が署に着いた翌朝、署内は妙に静まり返っていた。
普段の朝よりも空気が重く、机の上に散らばる書類も微かに波打っている。
耳の奥では、昨日と同じ「カチ……カチ……」という音が途切れなく響いていた。
時計の針ではなく、電気の振動でもない。まるで自分の神経を直接叩いているかのように脳内に響く。
渡辺はマグカップの表面に視線を落とした。
静かなはずの液面が、規則的な波紋を作っては消えている。
机の奥を覗き込むと、昨日封印したはずの金属粉のサンプル袋が勝手に置かれていた。
銀色の粒子がわずかに動き、蠢く。
「なぜ……?」
鑑識課に確認すると、保管室のロッカーは封印のままで、粒子も破片もそこにあるという。
だが、目の前にある粉の袋はどういうことなのか。
渡辺が触れると、粉は一斉に細長い列を作り、机の上を這い回るように動いた。
慌ててゴミ箱に押し込み、蓋を閉じるも、耳奥の金属音は止まらない。
その日の午後、防犯カメラ映像を確認していた事務員が声を震わせて呼んだ。
「……渡辺さん、これ……」
映像には、昨夜の廊下で渡辺が資料倉庫を出る直前、蛍光灯が一瞬暗くなった瞬間のことが映っていた。
影は人間の輪郭とは異なり、関節が不自然に曲がり、滑るように動く。
明滅の合間に、金属光を帯びた眼がこちらを見つめていた。
渡辺は冷たい汗を感じた。
幻覚ではない。あの夜の群れは確かに存在したのだ。
⸻
夜、自宅に戻った渡辺は、玄関の鍵を閉める前に何度も背後を振り返った。
書棚がわずかに動いている。窓際にあったはずの家具が壁際に寄せられていた。
荒らされた形跡はない。
深夜二時過ぎ、枕元でラジオが勝手に鳴り出す。
音楽でもニュースでもなく、「カチ……カチ……」と金属音、そして途切れ途切れの囁き声。
言葉は不明瞭だが、「さがすな」という単語が混じる。
コードを引き抜き、ラジオを押し入れに突っ込む。
だが、音は頭蓋の内側から響き続けていた。
翌晩、渡辺は覚悟を決めて署内の資料倉庫に入った。
鉄扉の向こう、青白い光が漏れる。
前回よりも巨大化した金属粉の群れが棚の間を埋め尽くし、人間ほどの背丈になっていた。
表面を覆う古紙の断片には文字列が走り、未知の記号や回路図が組み替えられていく。
「……何だ、お前は……」
声を漏らすと、群れが一斉に動きを止め、やがて人型を形作った。
関節は鋭角的で、頭部には二つの金属光の眼。
渡辺をじっと見つめ、低く均一な声が響いた。
――「さがすな……もどれ」
倉庫全体が震え、蛍光灯が明滅。
光の消えた暗闇で、無数の眼が浮かぶ。壁、天井、床、ありとあらゆる隙間から。
走ろうとしても距離は縮まらず、耳元の「カチ……カチ……」は唸りに変わった。
冷たい金属の指が首筋に触れる感覚。
意識は白く焼け、床に倒れたときには群れは消えていた。
右手首には、極小の歯車模様が皮膚下で脈動している。
⸻
翌日、署内は異変に包まれていた。
粉は机や書類、制服の繊維に付着。顕微鏡下では不自然な結晶構造を持つ。
署員の間で耳鳴りや咳の報告が増え、渡辺以外も何かに侵食されていることがわかる。
若手署員が突然倒れ、顔面や耳孔に金属粉が詰まっているのが発見される。
防犯カメラには、誰もいない廊下を群れが滑るように動く映像が映っていた。
渡辺は粉の動きを追い、舞姫の名を耳にする。
「ついてこい」「さがすな」――無意識のうちに声が脳に響き、舞姫の幻影が視界に現れる。
粉は床下や壁の隙間から広がり、署内全体を満たしていく。
動けない署員たちは、まるで操られるように廊下で踊り、歯車模様が皮膚の下で脈動する。
⸻
町中にも異変が拡大。
住宅や病院、学校で、原因不明の咳や耳鳴り、微細な金属粉の発見。
粉は夢に侵入し、舞姫の姿を見せる。
住民は次第に正気を失い、幻覚と現実の境界が曖昧になる。
渡辺は署内で再び舞姫の幻覚を見、群れに導かれるまま、地下倉庫へ向かう。
地下倉庫では、署員数名が無意識に舞を踊っていた。
歯車模様が皮膚に浮かび、脳を直接蝕む。
渡辺も抗えず群れの中に取り込まれそうになる。
舞姫の顔は現実と幻覚を行き来し、囁く。
――「次はあなた……」
目の前で、若手署員が崩れ落ち、口から金属粉を吐き出す。
眼窩や耳孔にも粉が詰まり、全身が脈動しているかのようだ。
群れは舞姫の指示で形を変え、渡辺を取り囲む。
床、天井、壁、すべてから無数の眼が彼を追い詰める。
渡辺は逃げようとするが、空間が歪むように距離が縮まらない。
粉の塊が手首の歯車模様と一体化し、全身の感覚が金属化していく。
意識は崩れ、幻覚と現実の境界が完全に消滅する。
最後に聞こえた声――舞姫の囁きと「カチ……カチ……」の連打。
⸻
署内の翌朝、床には倒れた心臓を抜かれた署員と、散乱する金属粉だけが残る。
粉は規則的な模様を描き、微かに脈動している。
署内の空気は静かだが、耳奥ではまだ「カチ……カチ……」が鳴り続ける。
渡辺の姿は跡形もなく消え、舞姫の影と金属粉の侵食は、町全体へ静かに広がっていくのだった。
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