第2話【出向】

 朝の路線は、掌の明かりで海みたいにきらめいていた。親指が同じ速度で世界を上下に送る。ニュースは同じ顔、SNSは別の顔を重ねる。


 トレンド:

 #八咫烏計画 #国威発揚 #税金で火星 #時間を味方に


 タイムラインが流れ、言葉がぶつかり、すぐ忘れられる。


「“花火じゃない”って言い切ったの初めて見た」

「保育士の賃上げが先。それから宇宙でしょ」

「“順序”って、政治っぽくなくて好き」

「ITARで詰む。賭けるなら別のとこ」

「火星の砂、赤いだけで税金が赤字に(言ってみたかった)」


 座席の手すりには、砂時計の広告。30秒の大きな数字と〈会話が会話じゃなくなる時間〉の小さな文字。掲示板の書体はいつも通りなのに、温度だけが違う。


 001 名前:名無しさん@宇宙だいすき 08:12:03

 やるならやってくれ。途中でやめるのが一番高い。


 014 名前:名無しの納税者 08:16:55

 保育園の空きが先。以上。


 027 名前:現場の人 08:22:10

 “先に壊れてる所から直す”ってのは正しい。で、どこが先に壊れてるかは誰が決める?


 返信画面を開いて、閉じる。決める側に回るなら、今日だ。


 庁舎に着くと、A会議室の前に人がたまっていた。新しいポスターの矢印はインクの匂いがまだする。中は空調の低い唸りと、紙の擦れる音。スクリーンには飾り気のない表紙。《臨時タスク:火星圏ミッション 初期検討》。入口のホワイトボードには太字で〈禁止語〉とあり、その下に今すぐ/様子を見る/とりあえず。誰かが端に「標語は一日一個」と落書きしている。


 室長が前に立った。

「設置法案は走りながら。でも今日から選べる。順序はこうだ」


 ホワイトボードに三本線。月/近火星/火星圏。

「国内で押さえる最小集合。外に頼る所、頼らない所。時間は“買う”か“稼ぐ”かで分ける」


 財務の若手が手を上げる。「四半期で何が紙に残るかだけで測ります」

 安全委が被せる。「止めた記録も残ります。停止=成功は費用です」

 二つの声は静かに交わり、机上のペンが一度だけ揺れた。


 国際の若手がバッジを指でいじる。「“軍民両用”の文言で外務から三件照会」

 室長は短く返す。「“待て”は書かせるな。“測る”で返す」

 後ろの席で誰かが小さく「測るは正義」と呟き、すぐ黙った。


 配布資料の二枚目に、見慣れない行がある。《宇宙開発省 宇宙探査庁(仮)《八咫烏室》出向要請(案)》——俺の名前がその下にあった。喉が渇く。紙の角が手のひらに冷たい。


「岡田総理の会見は上手かった」室長が言う。「上手さで動かないのが現場だ。数字と順序で答える。花火に設計図はいらない。運用にはいる」

 無意識に、ホワイトボードの片隅へ小さな三葉を描いてしまう。楕円が三つ。どれかが欠けても網は残る。

「冗長軌道、またそれか」隣の先輩が小声で笑う。

「時間を味方にするやり方ですから」

 口に出して、少しだけ恥ずかしい。言葉はすぐスローガンに変質する。**変質する前に、手順に落とす。**それが俺の役割だ。


 会議は昼過ぎまで続いた。決まったことはほとんどない。決め方が先に決まっていく。滑稽に見えるが、順序はそうやって立ち上がる。


 休憩のチャイム。スマホが震える。件名は短い。《出向打診》。本文はさらに短い。

 ——回答、明日正午まで。役割:冗長設計/公開基準 起票責任者

 画面の白が、紙の重さを持ち始める。指は「了承いたしました」に流れかけて、止まった。会議机の端に置かれた由来票の空欄を見る。空欄は、責任の形だ。


 夕方、庁舎を出ると、空は朝より浅い。雨は落ちなかった。雲はゆっくり動いている。帰りの電車でまたタイムラインが滑る。


「保育士の友達が“順序というなら、まず現場を見に来い”って」

「列島改造、昔の焼き直しじゃありませんように」

「宇宙開発“省”って、実在するの?」

「JAXAが省になるわけじゃない。役割分担の話」


 家のドアを開けると、スープの匂いが先に来た。キッチンで妻が背中を向けている。足元に猫がいないのが少し寂しい。二人とも猫アレルギーだ。


「来た?」妻は振り向かない。

「来た。明日正午まで」

 鍋の泡は、昨日より静かに小さい。


「保育園で話題になってた。宇宙より、子どもって人が多い。でもね——今日は**“宇宙でもいい”って言った人もいた」

「珍しい」

「夜勤明けの保育士。“天井ばっかり見てると、下を向く”**って。たまに見上げたいんだって」


 テーブルに座る。椀にスープを注ぐ。湯気が顔に触れて熱の具合がわかる。


「行くの?」

「行く。止める紙を先に作りに」

「こっちは止まれない現場が多いよ。止める手順、こっちにも分けて」

「分ける。三行のテンプレで落とす。事実/手続/責任」


 スプーンが器に触れる音。テレビは点けない。言葉が壁に当たり、返ってくるまでが長い。


「親のこと、どうする?」

「兄に頼る。週末は私が行く」

「ごめん」

「謝る順番は、あとでいい」


 食後、机にラップトップを置く。白い画面。件名、宛先、最初の一行。

 ——このたびは出向の打診をいただき、誠にありがとうございます。

 次の行の前に、指が止まる。換気扇を消し忘れていた。


 追記を書く。

 ——『停止=成功』を運用の標準にします。三行テンプレと公開基準、由来票で“誰が/いつ/どのボタンを”まで降ろします。冗長設計の起票責任を引き受けます。

 送信は押さない。朝にもう一度測る。


 寝室の灯りを落とす。暗闇に目が慣れるまでの数秒、ものの輪郭がいったん消え、少しずれて戻る。遠くで小さな破裂音がして、遅れて届く。この物語の中心に置く比喩は砂時計だけでいい。


 枕元のスマホが震える。最後の通知。

 《政府、宇宙開発省 設置法案を国会提出へ/今国会中の成立を目指す》

 画面を伏せる。まぶたの裏に、白いスライド。三本の線。**明日は押す。**押す前に、止める手順を貼る。


 夜は長い。長いから、使える。明日、出向の返事を出す。明後日、会議の紙に線を引く。来週、誰かが反対する。来月、別の誰かが賛成する。来年、最初の段が動き始める。百万人が画面を滑らせる間にも、時間は同じ速度で落ちていく。砂は音もなく落ちるが、落ちた分だけ手順は前へ進む。

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