第38話 ファイラ①
灰色の雲が空を覆い、冷たい雨が荒地を叩いていた。
遠くの山は霞に溶け、ぬかるんだ道を馬車の車輪が鈍く軋ませている。
列をなす旅人たちは、フードを深くかぶり、雨に濡れた石壁の前でじっと順番を待っていた。
レムと、その肩に乗ったギリーの姿も列の中にある。
布に覆われたレムの赤土の身体は、隙間から入る水が染み込み、どろどろに溶け始めている。
一歩進んで水たまりを踏むと足元がぐらついた。足の裏が溶けはじめていた。
「くそが! なんちゅう身体だ!」
レムは苛立たしげに頭をかきむしろうとしたが、フードの下の頭も既に水を吸って、溶けかけていた。
「だから吾が一人で行くと言ったろう? 国境あたりから先、ここからは嵐の国ゴースだぞ」
「俺は刑事だ! 雨ごときにひるんで手がかりを追わねえなんて、ふざけた真似ができるか!」
「その雨が貴様にとっては致命傷だというに」
死んだ傭兵の娘、五歳でサダナ子爵に引き取られたリシェルの元メイド――ファイラ――は、パンザロールの調べですぐに行き先が知れた。
ひと月前、サダナ子爵の屋敷を辞め、隣国ゴースのとある貴族の家に勤めることになったそうだ。
屋敷の使用人たちによれば、そのメイドはほとんどリシェル夫人の付き添いのように献身的に働いており、辞めたときは誰もが驚いたそうだ。
雷鳴が遠くで鳴る。
レムの身体はついに膝から下が溶け落ち、前に勧めなくなる。
周囲の旅人たちが奇異と不安の視線を送る。
ギリーはレムの肩から降りると、ケセの持っていた箒に乗り換える。そして、パサに言う。
「包んでやれ」
パサの身体が平たく、大きく膨らみ、レムの身体を包み込んだ。
そして宙に浮いたまま、ギリーの箒についていく。ケセはいつの間にか平たくなってギリーの頭上に広がり、傘のように雨を弾いていた。
(便利なやつら……)
列はゆっくりと進んでいた。ギリーは暇つぶしのように言葉を発する。
「しかし昨日は驚いたぞ。パンザロールがすぐに支局から使いをやったら、マゴール村は本当に誰も住んでいなかった!そうだ」
「隣村の人間すら十五年気づいてなかった……らしいな。魔法でも使ったのか?」
「ううむ、マゴール村に行くものを道に迷わせるような結界を貼り、立ち入った人間にはマゴール村に行ったという幻を見せる魔法を使うとか……方法はありそうだ」
雨脚が強まり、列の人々が肩を寄せ合っている。
「一つ聞いておくが、その魔法はお前以外もできるのか?」
「できなくはないが、相当な魔力が必要だし、十五年も維持し続けるのは無理というか……現実的に不可能だな。もし実際にやるなら、魔力のたまりやすい場所を選んで、魔法陣を描く。これならそれなりの知識があれば可能だ」
「なるほど。仮にそういう結果があるとして、モーリーや捜査局の使いが村に行けたのはなぜだ?」
「十五年も経てば、雨風で魔法陣が消えたり、自然の供給する魔力が弱まったりするかもしれん。調べてみればハッキリするだろう。モーリーならきっと見逃さん」
雨の合間を縫うように、馬の嘶きが響く。
「モーリーには捜査官でもないのに面倒な仕事を頼んじまったぜ。時間さえあれば俺もその村にも行きたいところだが……」
「もともとモーリーはあの村を調べに行っていたのだ。気にするなと笑っておったぞ」
「あとで礼をしなくちゃな。なあギリー、モーリーは何か好きな物でもあるのか?」
ギリーが箒の上で片眉を上げ、口角をゆがめて笑う。
「レム……貴様、ひょっとして……モーリーに惚れたのか?」
「馬鹿いってんじゃねえ! こんな身体にしといて、女がどうとか考えるか!」
「その身体じゃなければ考えるのか? ふーむ」
レムは濡れた頭をぬぐい、手についた泥を飛ばす。ギリーはニヤニヤとこちらを見ている。
「なんだ?そのニヤケ顔は」
「いや、丁度物置に眠ってたので貴様の魂を入れるのにゴーレムを再利用したが……」
「待て。そんな昔作って持て余した工作みたいな……いや、まさにそうなのか?」
「モーリーに好みの男の死体を見繕ってもらって、そこに貴様の魂を入れるのもありかもな……」
「ねえよ! ゾンビになるなんてゴーレムより御免こうむる」
レムが手を伸ばすと、ギリーは箒で軽やかにそれを除け、くすっと笑う。
「そうか。面白そうだと思ったのに」
関所の役人たちはフードをかぶりながら羊皮紙の許可証を濡らさぬよう手で覆い、一人ずつ通していた。
ギリーが通行証を取り出すと、役人は彼女の顔を見るなり慌てて姿勢を正す。
ギリー一行は国境を難なく超えた。
「さて、行くか」
ギリーは箒に乗ったまま、杖をひと振りすると、レムの身体から蔦が伸びた。
そして箒の後ろに蔦が絡まる。
「急ぐぞ! 振り落とされるな!」
ギリーが目を閉じると、雨水が弾かれるように空気が震え、箒の周りで舞い上がる。
地面の水たまりが波紋を描く。
「最高速でぶっとばす!」
ギリーの声とともに、強風が生まれる。
次の瞬間、ギリーたちは箒とともに雨雲に向かって、尾を引くように飛び立つ。
下で見上げる人々が、フードや荷馬車の布を押さえながらその風圧にたじろぐ。
レムは両腕で身を覆い、雨と風の中で目を細める。
地上の関所が遠ざかり、灰色の雨の海の中に溶けていく。
雨雲を抜けるのにそれから数秒も経たなかった。目の前に青空が広がり、太陽が空高く見える。
広がる雲海の上でレムは思った。
(なんかもう、慣れちまったなあ……こういうの)
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