✴︎音楽エッセイ✴︎ ─ 人生はリフレイン
Spica|言葉を編む
独白と記憶の章
第1話:The Worst──僕を愛してくれた人へ
夜が静かすぎるとき、ふいに音楽をかけたくなる。何かを聴きたいというより、「誰かに会いたい」に近い衝動。
そんな夜に、たまたま手が伸びたのが、ローリング・ストーンズの《The Worst》だった。
——————
ギターの音が転がる。カントリーのようで、どこかフォークにも似ている。派手さも力強さもない。ただ、静かに、滲むように響く。
歌っているのはミック・ジャガーではなく、キース・リチャーズ。
彼のかすれた声が、「I'm the worst kind of guy」と呟いた瞬間、僕の中に、ひとりの女性の顔が浮かんだ。
——————
もう随分と昔の話だ。
あの頃、僕はアメリカにいた。場所はカリフォルニア、サンフランシスコ。
実際に彼女と出会ったのは、もう少し内陸の街だったけれど、僕の記憶のなかで彼女と並ぶ風景には、いつも海がある。
坂道と、あの港の街の匂いがある。
だから僕の中では、彼女は“サンフランシスコのひと”として残っている。
彼女とは同い年だった。留学先で出会い、話すようになった。留学間もない、僕の拙い英語にも耳を傾けてくれて、時々、笑ってくれた。
どこか落ち着いていて、静かに自分の考えを持っている人だった。
僕は彼女に惹かれていた。言葉よりも、雰囲気に。
季節が変わる頃、彼女は日本へ戻った。
僕たちは、離れた場所で、遠距離という形を受け入れることになった。
当時はまだ、今のような通信環境はなかった。
だから僕たちは、手紙を書いた。毎週、欠かさずに。それは、互いの時間をつなぎとめるための、小さな灯だった。
———————
彼女は先に社会へ出て、働き始めた。
僕はもう少しアメリカに残り、学業を続けた。
“彼女にふさわしい男になりたい”──それが、当時の自分の全てだった。将来の保証なんてなかったけれど、彼女の笑顔が僕の原動力だった。
帰国してからは、僕も懸命に働いた。
ただの学生から、やがて会社員になり、結果を出し、とにかく上を目指した。気づけば毎日は、目標と数字と、競争で埋まっていった。
けれど──その「努力」は、いつしか彼女に向けられたものではなくなっていた。
彼女を手に入れるために走っていたはずが、その走る速度こそが、彼女との距離を広げてしまった。
それでも彼女は、変わらずにいてくれた。声は優しく、手紙も続き、僕を信じてくれていた。
けれど、僕の心のどこかには、ずっとひとつの感情があった。──“僕は、本当に彼女を幸せにできるのか?”
それはかつて、キース・リチャーズが歌ったあの言葉と同じだった。
"I'm the worst kind of guy"
その一節が、胸に刺さるように響いた。どこかで、自分の中の“弱さ”や“不確かさ”が、彼女の“誠実さ”にふさわしくないと感じていた。
その感情が、距離となり、やがて、別れになった。
別れに劇的な場面はなかった。
誰かが泣いたわけでも、言葉で責め合ったわけでもない。ただ、連絡の間隔が少しずつ空き、会う頻度が減り、いつの間にか“未来”という言葉を口にしなくなった。
そして、気づけば、終わっていた。
彼女は最後まで、僕を責めなかった。
そのことが、今でも時々、胸に刺さる。僕は、彼女に“ありがとう”を伝えきれなかった気がしている。
あの頃の自分に戻れるなら、何か変えられるだろうか。
いや──きっと変えられない。
あれが、あの時の僕の限界だった。だからこそ、“The Worst”は今も僕の胸に残っている。
キース・リチャーズのかすれた声は、若い頃の僕に語りかける。
——
「それでも、お前は愛されたじゃないか」と。
「そのことだけは、忘れるな」と。
——
彼女と過ごした日々が、今の僕をつくっている。
あの時、彼女が僕を信じてくれたこと。何者でもなかった僕に、手を伸ばしてくれたこと。
それは、“愛される”という感覚を、初めて教えてくれた記憶だ。
“The Worst”。
それは、あの頃の僕のことだったのかもしれない。でも彼女は、それでも僕を愛してくれていた。
今はもう、会うことも連絡を取ることもない。
それでも──ギターの音が夜に響くたび、あの優しい記憶だけは、静かに胸の奥に灯る。
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