第2話 辺境の村と地味すぎるスキル

 見知らぬ森に一歩を踏み出したはいいものの、僕には何のあてもなかった。

 あるのはヨレヨレになったスーツと、革靴。そして、頭の中に響いた声が教えてくれた【植物栽培EX】という、いまだ効果の全容が見えないスキルだけだ。


 「とりあえず……人がいる場所を探さないと」


 幸いなことに、森は比較的開けていて歩きやすかった。日本の山林とは植生が全く違う。巨大なシダ植物が地面を覆い、幹が螺旋状にねじれた木々が天を突いている。見たこともない色の花が咲き、芳しい香りを漂わせていた。園芸好きとしては、正直に言って心が躍る。一つ一つの植物を観察し、スケッチでもしたいくらいだ。


 しかし、今はそんな悠長なことを言っていられる状況ではない。ポケットを探っても、出てくるのはスマホと財布、会社の鍵だけ。スマホはもちろん「圏外」の表示。   財布に入っている日本円が、この世界で価値を持つとは到底思えなかった。


 歩き続けて数時間が経った頃、空腹と喉の渇きが現実的な問題としてのしかかってきた。

 ふと、足元に野生のベリーのようなものが実っているのが目に入った。地球で見たラズベリーによく似ているが、色がどことなく青みがかっていて、毒々しい。


 「食べられるのか……これ?」


 下手に口にして、毒に当たって死ぬのはごめんだ。

 その時、僕は頭の中に響いたあの声を思い出した。『全ての植物の成長、育成、改良を可能とします』。もしかしたら、このスキルで何か分かるかもしれない。


 僕はベリーの茂みにそっと手をかざし、意識を集中させた。

(この植物の情報を……)

 しかし、特に何も起こらない。鑑定スキルのような便利な機能はないらしい。

(じゃあ……『安全な実になれ』とか?)


 心の中で念じてみると、手のひらがふわりと温かくなった。

 すると、僕の手が触れている枝先の、青みがかったベリーが一粒だけ、みるみるうちに色を変え始めた。毒々しい青色が抜け、代わりに鮮やかなルビーのような赤色に染まっていく。形も少しふっくらとし、甘い香りが漂い始めた。


 「お、おいおい……マジかよ」


 僕は恐る恐る、その赤く熟した実を一つ摘み取り、口に放り込んだ。

 もしかしたら毒かもしれない、そんな想像をしながら。

 しかし。

 途端に、口の中いっぱいに広がる、濃厚な甘酸っぱさ。疲れた身体に、その糖分が染み渡っていくのが分かった。どうやら毒はないらしい。それどころか、めちゃくちゃ美味い。


 これが【植物栽培EX】の力の一端か。

 植物の情報を読み取ることはできなくても、その状態に干渉し、変化させることができる。例えば、毒を持つ植物を無毒化したり、栄養価を高めたりすることも可能かもしれない。


「地味だと思ってたけど……使い方次第では、とんでもないスキルなんじゃ……」


 希望の光が見えた気がした。

 僕はスキルで安全に変えたベリーをいくつか食べ、渇きと空腹を癒やすと、再び歩き始めた。



 さらに半日ほど歩き続けた頃だろうか。木々の切れ間から、陽光が差し込んでいるのが見えた。森を抜けるのかもしれない。僕は最後の力を振り絞って早足になり、その光が差す方へと向かった。


 視界が開けた先にあったのは、小さな村だった。

 石と木で造られた素朴な家々が十数軒。村の中心には井戸があり、その周りを囲むようにして、申し訳程度の畑が広がっている。お世辞にも豊かとは言えない。むしろ、どこか寂れていて、活気がないように見えた。畑の作物も元気がなく、葉は黄色く変色しているものが目立つ。土壌の栄養が足りていないのだろう。


 僕の姿を見つけた村人が、何人か足を止めてこちらを見ている。その視線は好奇心よりも、警戒心の色が濃い。無理もない。こんな辺境の村に、僕のような異様な服装の男が現れたのだ。まるで中世ヨーロッパのような世界観に、現代日本のビジネススーツは浮きまくりだった。


「あの、すみません。少しお話を……」


 僕が近くで農作業をしていた老人に話しかけると、老人は鋤をぐっと握り直し、僕を睨みつけた。友好的な雰囲気ではない。これはまずい。


 情報収集も、休息も、まずは拠点が必要だ。村の入り口近くに、粗末ながらも『樫の木亭』と書かれた看板を掲げた建物を見つけた。どうやら宿屋兼酒場のようだ。僕は意を決して、その木の扉を押した。


 カラン、とドアベルの乾いた音が鳴る。

 中は薄暗く、客はカウンターに二人ほど。昼間だというのに、エールらしきものを飲んでいる。店の奥からは、シチューか何かを煮込む匂いがした。


 「いらっしゃい……って、なんだいその格好は」


 カウンターの向こうから、顔に深い皺を刻んだ初老の男が、怪訝そうな顔で僕を見つめてきた。この店の主人のようだ。がっしりとした体つきで、元は冒険者か何かだったのかもしれない。


 「旅の者なのですが、少し事情があって……。今晩、泊めていただくことはできますか?」


 「ふん、旅人ねぇ。ずいぶんと変わった身なりじゃねえか。金は持ってるのか?」


 主人にそう言われて、僕は正直に財布を見せた。中に入っている福沢諭吉や樋口一葉の肖像画に、主人は眉をひそめる。


「なんだそりゃ。ただの紙切れじゃねえか。この国で使えるのはギルだ。そんなもんも知らねえのか」


 やはり、日本の金は通用しない。

 まずいな、どうしようか。野宿は避けたい。そう考えていると、主人は僕の顔をじっと見て、溜息を一つ吐いた。


 「……まあ、いい。旅の途中で無一文になるやつも珍しくねえ。お前さん、何かできることはあるか?力仕事でも何でも、働いてくれるなら、飯と寝床くらいは融通してやるが」


 意外にも、悪い人ではなさそうだ。僕はその申し出に、深く頭を下げた。


「ありがとうございます!何でもします。体力には、あまり自信がありませんが……掃除や畑仕事なら」


「そうかい。なら決まりだ。俺はダリオだ。この宿の主人をやってる。お前さんの名前は?」


「大地です。ミドリカワ・ダイチと」


「ダイチか。変な名前だな。まあ、よろしくやれ。とりあえず、腹も減ってるだろう。そこの席に座ってな」


 ダリオさんはそう言うと、厨房の方へ引っ込んでいった。僕はほっと胸をなでおろし、一番近くのテーブル席に腰を下ろした。革靴とスーツは、もう泥だらけだ。早く着替えて、楽な格好になりたい。


 僕がそんなことを考えていると、店の扉が再びカラン、と音を立てて開いた。

 入ってきたのは、一人の少女だった。歳は十六、七くらいだろうか。亜麻色の髪を後ろで一つに束ね、使い古された革のポシェットと、中身の寂しい薬草カゴを提げている。大きな瞳は少し伏せがちで、どこか自信なさげな、儚い雰囲気をまとっていた。


「あ、あの……ダリオさん、いますか?頼まれていた痛み止めの薬草、少しですけど……採ってきました」


 か細い、しかし凛とした、鈴の鳴るような声だった。

 厨房から顔を出したダリオさんは、少女の姿を認めると、少しだけ表情を和らげた。


 「おお、リーナか。いつもすまねえな。腰の痛みが酷くてよ」


 「いえ……。でも、ごめんなさい。最近、森の奥まで行っても、質の良い薬草が全然見つからなくて……これだけしか」


 リーナと呼ばれた少女は、申し訳なさそうに薬草カゴをカウンターに置いた。僕の位置からでも、そのカゴの中身が数本の弱々しい薬草だけなのが見て取れた。葉は小さく、色艶も悪い。これでは十分な薬効は期待できないだろう。


「気にするな。お前さんが一生懸命探してきてくれたんだ。ありがたく使わせてもらうさ」


 ダリオさんはそう言って、銅貨を数枚リーナに渡した。リーナはそれを受け取ると、深々とお辞儀をして、すぐに店を出ていこうとする。その時、彼女の視線が、テーブル席に座る僕と、ふと交わった。


「あ……」


 リーナはびくりと肩を震わせ、すぐに目を逸らしてしまった。まるで、怯えた小動物のようだ。僕の奇妙な服装に驚いたのかもしれない。


 彼女が慌てて店を出ていく後ろ姿を、僕は何となく目で追っていた。

 痩せた土地、元気のない作物、そして質の悪い薬草。この村が抱える問題と、あの少女の悲しげな瞳が、僕の中でかすかに結びついた気がした。


「ほらよ、ダイチ。うちの特製シチューだ。腹一杯食え」


 ダリオさんが、湯気の立つ木の器を僕の前にドン、と置いた。具は少ないが、豆と干し肉が煮込まれた素朴なシチューは、空腹の僕にとっては何よりのご馳走だった。


「ありがとうございます。いただきます」


 僕は木のスプーンを手に取り、温かいシチューを口に運んだ。

 優しい味が、疲れた身体に染み渡っていく。


 まずは、この村で信頼を得よう。そして、僕のこの【植物栽培EX】というスキルが、この活気のない村と、あの儚げな少女のために、何か役立つことができないか。


 異世界での僕の新しい目標が、静かに定まった瞬間だった。

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