私のイザベル

蒔岡鈴子

第1話 隣の病室

 誰かの激しい咳が聞こえ、良子は目を覚ました。

 

ここ南湖院は結核患者のサナトリウムだから、いつも誰かが咳き込んでいるが、これは近い。多分、すぐ右隣の部屋の人だ。眼を開けているのか閉じているのかもわからない闇の中で、良子はぼんやり思った。そうか。あの方亡くなったんだ。昨日まで隣にいたのは、五十歳くらいの奥さんで、グバッゲハッという感じの、内臓を丸ごと吐き出しているような苦し気な咳をしていた。

 面会謝絶になる前に、入院前に家族でとった写真を見せていただいたことがある。ロイド眼鏡に立派な髭で洋装の旦那様。詰襟の制服を着た息子さん。束髪姿の娘さん。そしてきりりとした日本髪に結い上げた奥様。幸福そうな写真だった。

 私が代わってあげたかった。あの奥様には帰る場所もあって待っている人もいたのに。

良子はホウッと息をついた。

コホッコホッコホッ

隣室の咳は続いている。今の隣人は、すこしくぐもった咳だ。たぶん口をおさえて我慢しているのだろう。

 ここ、第一病棟は、医師の詰め所に一番近いから、基本的には重症患者が運び込まれるところだ。入院時からここに来るということは、ずいぶん病勢が進んでいるのだろう。ああ。あやかりたい。ああ死にたい。良子は思った。

 そして、お気に入りの一節を唱えた。

「あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何(ど)うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう」

やっぱり樋口一葉先生はいい。心に沁みる。

 とろとろと眠りかけていた良子だったが、隣室でどさっと寝台から転がり落ちた音がして、咳がやんだので、気になって目がさえてしまった。隣の部屋は静まり返ったままだ。

え、どうなさったの?大丈夫?

 いてもたってもいられなくなった良子は、寝台から起き上がった。刺されるようなしんとした寒さに、あわててどてらを羽織る。履物を足で探り履くと、手探りで隣の部屋に向かった。


「あの。隣の部屋のものですけど大丈夫ですか?」


 扉をたたいて声をかけてみたが返事はなかった。良子はおそるおそる引き戸を開けた。

部屋に足を踏み入れたとたん、消毒薬のツンとするにおいが鼻を突いた。そういえば看護婦さんたちが、徹底的に消毒してたっけ。

窓のカーテンは開けっ放しだった。月明かりのなか、寝台に額を当てうずくまっている影が見えたので、良子は近寄って声をかけた。

「大丈夫ですか」

その人は、ささやくように言った。

「尚子さん?」

「いいえ。隣の部屋におります保持良子ともうします」

良子が名乗ると、その人はうなづいた。

「さっきからうるさくして御免なさいね。」

「いいえ。とんでもない。お互い様です」

「転げ落ちてしまうなんて・・・・・・恥ずかしいわ」

「お布団と寝台だと勝手が違いますものね」

しばらく乾いた咳をしたあと、その人は自己紹介した。

「私は遠峯佑子と申します」

良子はその人の肩を抱くようにして、寝台に戻るのを手伝った。

触れた背中は高熱で熱い。浴衣は汗でじっとり湿っていた。

「せっかくだから浴衣をお着替えになりますか。さっぱりしますよ」

佑子さんは呼吸を整えると、掠れた声でいった。

「あら。本当だわ。さっき着替えたばかりなのに」

「着替えはお持ちですか」

「いえ、急に入院が決まったものだから、着替えはこれ一枚で・・・・・・」

「じゃあ、私のお貸ししますよ。大きいでしょうけれど、大はを兼ねるってことで。取ってきますね」

 良子は手探りで自分の部屋に戻り、浴衣をとって戻ってきた。

少し落ち着いたらしい裕子さんは、枕元のランプを灯していた。

ほの明かりの中に浮かび上がったその姿は、声から想像した通り上品な奥様だった。やつれて頬はこけているし寝乱れた髪が首筋に張り付いていても、どこか凛としている。

 小説「不如帰」にでてくる薄幸の美女、信子様がお年を召したらこんな感じになるのじゃないかしら。そう思うと、物語の世界に入り込んだ気がして良子はなんだかドキドキした。

 佑子さんは、寝台横の小机の引き出しから、クリスタルの瓶を取り出し、中身をハンカチにしみこませた。

「どうぞ。せいせいするわよ」

佑子さんがハンカチを振ると、ミカンのようなさわやかな香りがあたりに広がった。部屋にこもった消毒薬のツンとした匂いが少し和らいだ気がする。

「うわあ。いい香りですね。私の家の近くに沢山のみかんが植わっていたから、なんだか懐かしいです」

「まあよかった」

佑子さんは穏やかにほほ笑んだ。

「この香水の名前はジャン・マリ・ファリナというの。私の父がフランスに行ったときのお土産。フランス皇帝ナポレオンの一番のお気に入りで、この香水を、どんな戦場にも持っていけるように専用の容器を作らせたほどだったのですって。灼熱の砂漠でも、極寒の凍土でも、この香りをまとっていたのだって。父がよく話してくれたわ」

「舶来もので高級品じゃないですか。すみません。近所のみかんなんかに例えてしまって」

申し訳なくて、良子は少し首をすくめた。

「いいえ。もしかしたら、ナポレオン皇帝にとっても懐かしい故郷の香りだったのかもしれないわ。この香りで勇気を奮い立たせて戦いに臨んだのだわ」

良子は再びすうっと吸い込んだ。

そして、やっぱり実家の裏庭にいたことを思い出し、なんだかせつなくなった。

「さ、着替えましょうか。手伝いますよ」

良子の浴衣はやはりぶかぶかだった。

裕子さんは着替え終わって「ああ、さっぱりしたわ」と言った後、ふと気が付いたように言った。


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