第4話 箱庭

 クレーア城の中は何もかもがノアの想像以上だった。

 高価そうな赤い絨毯が敷かれている長い廊下の両脇には家来たちが並び、中央を通っていく国王陛下に向かい深々と頭を下げている。そんな仰々しい雰囲気に、ノアは思わず背筋が伸びる思いがした。

 壁には歴代の国王陛下や女王陛下の肖像画が並ぶ。ところどころに、必要なのかと思われるほど大きな鏡も飾られていた。他にも近寄ることさえ躊躇ってしまうぐらいの、高価そうな装飾品が整列している。

 アーチ型の高い天井は、光をよく取り込むようにできているらしく、眩しい程の太陽光が城内を照らし出している。そんな天井には、思わず溜息が漏れてしまいそうなほど豪奢なシャンデリアが吊るされていた。

「すげぇ……」

 何もかもが見たことのないものばかりで、ノアは言葉を失ってしまう。同じ世に生きているというのに、城の中はこんなに煌びやかだったなんて、考えもしなかった。

「ここから先はアッシュだけで十分だ。他の者は待機していろ」

「かしこまりました!」

 アッシュ以外の騎士たちは敬礼をして、その場に留まる。そんな光景を見たノアは、やはりアッシュという男はイヴァンにとって特別な存在なのだと感じる。恐らくイヴァン率いる騎士団の団長なのだろう。体格もいいが所作に品を感じられた。

「行くぞ、ノア。少し階段を上るが大丈夫か?」

「階段ぐらい別に大丈夫だけど……。一体、俺をどこに連れて行こうって言うんだよ? ずいぶん奥まで来たよな?」

 ノアの声色には強い不安が滲み出ていた。そんなノアに一瞬視線を向けたイヴァンが、小窓から外を指さしてみせる。

「あそこに見える一番高い塔だ」

「え? あんな所まで行くのか?」

「そうだ。今日から其方はあの塔で暮らすこととなる」

「……あんな塔の中でだって……?」

 イヴァンが指さした先には、城の中で一番高い塔が聳え立っていた。きっとあの塔から眺める景色は最高だろう。しかし、ノアの目にはその建物がまるで監獄のように思えた。

 不安と恐怖が渦巻いて、心をかき乱してくる。

 ——俺は一体どうなってしまうんだ……。

 握り締めた拳が、カタカタと小さく震えた。こんなことならば、あの日両親と共に死んでしまえばよかったのだろうか? と、そんな後悔に苛まれる。

 俺はあそこに閉じ込められて、花を生み続けなければならないのだろうか?  そんなの——絶対に嫌だ。

 拳を握り締めて強く目を閉じる。全身に力を籠めていないと、倒れてしまいそうになるのを必死に堪えた。

「では参ろう」

「…………」

 ノアはその一歩を踏み出すことができず、顔を上げることさえできない。涙が溢れ出ないよう強く唇を噛み締めた。

「大丈夫だ。其方を大切にすると約束しただろう?」

「……は?」

「もう悲しい思いはさせない」

 イヴァンがノアの耳元で囁く。その言葉にハッと顔を上げると、寂しそうな顔をしながらも微笑むイヴァンと視線が合った。夜の海のようなイヴァンの真っ黒な瞳に、吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまう。

「大切にする。二度と悲しい思いはさせない」

「な、に、言って……」

 唖然としたままイヴァンを見つめるノアに向かい、まるで誓いをたてるかのように、イヴァンがもう一度囁いたのだった。


◇◆◇◆


 重たい足を引き摺り、気が遠くなるほど階段を上り続ける。螺旋状に続く階段を、一体何段上ったのだろうか? 目的地である塔までまだまだ辿り着きそうもない。このままでは、雲の上に到着してしまうのではないか、と不安になってきてしまった。

 疲れたか? 大丈夫か? ——そうやってイヴァンがもう何度となくノアを振り返る。

 塔へ向かうまでは自分を置き去りにしてスタスタと先を歩いて行ってしまったくせに……。今、自分を見つめるイヴァンの瞳はとても優しい。

 ——本当になんだっていうんだよ。

 こんなイヴァンを見てしまうと調子が狂ってしまうのだ。先程から冷たくされたり優しくされたり。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。

 両親を手にかけたイヴァンとは、もしかしたらこの男は別人なのではないだろうか? と勘繰ってしまう程だ。

「もう何がなんだかわかんねぇ」

 ノアは目頭が熱くなるのを感じた。

 

◇◆◇◆


「ノアよ、着いたぞ」

「はぁ、ようやくかよ……」

 ノアが額に滲んだ汗を拭いながら大きく息を吐く。永遠に続くと思われた階段にも、どうやら終わりがあったようだ。

 イヴァンとアッシュは普段から鍛練しているのだろうか? 息一つ乱れていなかった。

「ノア、私が其方の為に用意した部屋だ。気に入ってもらえるといいが……」

「え? でも……」

「遠慮せずに入るがいい。其方だけの部屋なのだから」

 そう言われても部屋へと入ることに戸惑いを隠せないノア。自分を監禁しておくための部屋は、一体どんな感じなのだろうか? そう考えるだけで、足に根が生えたように動かなくなってしまった。

「大丈夫だ、ノア。入るがいい」

 そんな様子に気が付いたのか、イヴァンがそっとノアの背中を押す。ノアは不安を感じながらも一歩踏み出した。

「さぁ、入ってくれ」

 子どものように瞳をキラキラと輝かせたイヴァンが、重たい扉を開く。その瞬間眩しい光が差し込んで、ノアは思わず目を細めた。

「……すごい……」

「そうだろう? ここが其方の為に私が用意した『箱庭』だ」

 ノアの目の前には想像もしていなかったような世界が広がっていた。

 箱庭とは、花食みが花生みを囲うための部屋や空間のことを言うが、実際にノアが箱庭を目にしたのは初めてである。

 一面ガラス張りの窓からは燦燦と日差しが差し込み、果てなく広がる庭園を一望することができた。遥か遠くには、頂上に雪を讃えた山脈も見える。

 ドーム型の天井にはたくさんのプランターが吊り下げられ、大輪を開いた蘭が頭上から甘い香りを漂わせていた。

 床には所狭しと観葉植物が置かれ、日光を受け新芽がキラキラと輝いている。部屋の中央には庭園で見かけたものと似ている噴水が、水しぶきを上げていた。

 噴水の横には高級そうなテーブルと、椅子が二脚置かれている。

 あまりにも広い箱庭に、ノアは言葉を失ってしまった。

「なんだ、ここ。これが室内なのか……」

 ノアは呆気にとられてしまい、呆然と部屋の中を見渡した。

「でも、こんなにもたくさんの植物を一体どこから?」

 ノアは庭園の植物が枯れ果てていたことを思い出す。これだけの植物を集めるのは、きっと大変だったことだろう。

「其方の喜ぶ顔が見たくて、遥か遠くの国から取り寄せさせた。かなり時間がかかってしまったがな」

「そっか……」

 自分の為……。そう思うと嬉しいという思いよりも、申し訳ないといった思いのほうが強くなってしまう。それ程までに、今のクルゼフ王国の植物は危機的な状況に置かれているのだから。

「——あ、ダルメアの像じゃないか」

「ああ。其方がわざわざ教会まで行かなくてもいいよう、祭壇も作らせた」

「すげぇ、綺麗な像だ」

 部屋の片隅には祭壇が設けられ、ダルメアの像が設置されている。その穏やかな微笑みを見ていると、ノアは全身から力が抜けていくのを感じた。

 祭壇の周りにはたくさんの薔薇が植えられており、神々しい香りを放っている。その神聖な光景に、ノアは思わず溜息を吐いた。

「どうだ? すごいだろう? こちらに寝室があるのだ。行ってみよう」

「え? ちょ、ちょっと待てよ」

「いいから早く来るのだ」

 楽しそうにはしゃぐイヴァンが、ノアの手を引いて歩き出す。今にもスキップをしてしまいそうな足取りを見ていると、なんだか肩透かしを食らってしまう。

 ——これが、一国の王なのだろうか。

 先ほどとはまたうってかわって、無邪気にも見える笑顔のイヴァンに、少しずつ絆されてしまっている自分に気が付いたノアは、大きく首を横に振る。

 この男は、自分の両親を殺した仇なのだ。そう自分に言い聞かせながら、後を追う。


 部屋の一番奥にある、ガラス張りの扉を開けると目の前には石の階段が続いている。扉を開いたとき、むせ返るような花の甘い香りに包まれた。

 石段を上りきると、たくさんのベゴニアがノアたちを出迎えてくれた。数えきれないほどのベゴニアは綺麗にプランターに植えられており、ざっと見渡すだけでも色々な種類があるようだ。

 色も赤から黄色、それに可愛らしいピンク色のものまである。花生みのノアでもあまり見たことのない青紫色のベゴニアもあった。

「ここが寝室だ」

「寝室……」

「そうだ。其方がゆっくりと休めるよう、一番気を遣った場所でもある。それにしても、ベゴニアとはたくさんの種類があるのだな。これだけ集めるのは骨が折れたぞ」

「そりゃそうだろう? 俺だってこんなにもたくさんのベゴニアを見たことないぞ?」

 思わず言葉を失ってしまいそうなほどの美しい光景に、ノアは立ちすくんだまま呆然とベゴニアを見つめた。

「それに、私も時々はここに泊まりに来る予定だからな」

「は?」

「いつかはここに住みたいくらいなのだ」

 うっとりと目を細めるイヴァンの発した言葉に、ノアが眉を顰める。

 『いつかはここに住みたい』という意味を理解することができずに、困惑したような表情でイヴァンを見上げるノア。

「なんで国王陛下が箱庭なんかに泊まりに来る必要があるんだよ? こんな所に来なくても、お妃がたくさんいるんじゃないのか?」

「ん? 妃、だと……?」

「そうだよ。国王陛下には、たくさんのお妃がいるんだろう? わざわざ男のとこに泊まりに来るなよ」

「——ほう、なるほどな……其方は何か勘違いをしておる」

「勘違い?」

 イヴァンが「心外だ」と言いたそうに横目でノアを睨みつける。

「私に妃などおらぬ。先程も言ったであろう? 其方を大切にする、と。もし其方が私を受け入れてくれるのであれば、私は其方を妃として迎えるつもりだ」

「妃……?」

「そうだ。私たちはいつか夫婦になるのだから、寝室を共にすることは当然だろう?」

 ノアは面食らった。それからすぐにわいてきたのは、どうしようもない怒りだった。

「……お前、それ本気で言ってるのか? 俺の両親を殺しておいて……! 誰が、親の仇を受け入れるっていうんだ!」

「ノア、その件については本当にすまなかったと思っている。いつか其方の傷が癒えたときに、どうか私を許してほしい」

「ふざけんなよ!?」

 咄嗟に自分を抱き寄せようとしたイヴァンの腕をノアが力任せに振り払う。顔をぶん殴ってしまいたい、という衝動を必死に堪えた。

 震える唇を噛み締めて、拳を強く握り締める。目頭が熱くなってきて、溢れ落ちそうになる涙を慌てて拭った。

「すまなかった、ノア……。私は他人に謝罪などしたことがない。だから、これ以上、どうやって其方に許しを請えばいいのかがわからない。だが、私は其方に許してほしいのだ」

 ノアが何も言い返せないでいると、イヴァンが寂しそうに笑う。その笑顔に、なぜかノアの心が締め付けられた。

「本当にすまなかった」

 苦しそうに言葉を紡いだイヴァンが、ノアに向かって深々と頭を下げる。国王陛下が頭を下げている……という事態が呑み込めないノアは、目を見開いてイヴァンを凝視した。

「陛下!? 何をなさるんですか!?」

 近くで二人の様子を見守っていたアッシュが、イヴァンに向かって歩み寄る。そんなアッシュをイヴァンは無言で制止した。

「ノア。これからは其方を心の底から大切にする。だから、この箱庭で私のことを待っていてほしい」

 口を一文字に結んだノアは、イヴァンから顔を逸らした。

「私は其方にできる限り会いに来るから」

 静かに顔を上げたイヴァンがノアに向かって微笑む。それから遠慮がちに、ノアの頬に触れた。その瞬間、ノアの肩が小さく跳ねる。

「そして、いつか……。私は其方とブートニエールになりたい」

「俺とブートニエールに?」

 しっかりと頷くイヴァン。

 ブートニエールとは花食みと花生みが、恋人、または夫婦関係になることだ。しかし、花食みと花生みがブートニエールの関係になるためには、ある儀式が必要とされている。

 その儀式のことを亡くなった両親に初めて聞かされた時、ノアは思わず仰天してしまったことを覚えている。それと同時に、自分には一生無縁のものだと感じられた。

 大体、自分の両親を殺めた仇とブートニエールになるなんて、まっぴら御免だ。それでも、国王という高貴な身分でありながら、自分に深々と頭を垂れるイヴァンを見ていると、心がグラグラと音をたてて揺れてしまう。

 本当に、今ノアの目の前にいる男は、イヴァンなのだろうか……。

「しかし、私は自分が思っていた以上に独占欲が強い花食みのようだ。可愛らしい其方を、この箱庭にずっと閉じ込めておきたい気分なのだから」

「なんだよ、それ……」

「私の花生み、大切にする」

 イヴァンがあまりにも幸せそうに笑うものだから、ノアはその手をもう一度振り払うことはできなかった。


◇◆◇◆


「さぁ、ノア様。召し上がってくださいませ」

「はぁ……」

「我々が腕によりをかけて作った朝食にございます。存分にご堪能ください」

 料理長と名乗る初老の男が、わかりやすい愛想笑いを浮かべながらノアに深々と頭を下げる。

 ノアの目の前には朝食とは思えないほど脂っこい料理が、箱庭に置かれているテーブルの上に所狭しに並べられた。

「ちょっと待ってくれ……朝から肉はないだろ」

 思わず独り言を呟きながら、頭を抱えて大きく息を吐く。確かに美味しそうではあるが、見ているだけで胸やけがしそうだ。だからと言って「あまり食欲がないので」などと断れる雰囲気ではない。

「食べるしかないか……」

 綺麗に並べられたフォークを手に取る。テーブルマナーもよく知らないノアは、強い戸惑いを感じた。

 ——イヴァンがいたら助けてくれただろうか。

 ふとそんな考えが頭を過る。イヴァンは昨夜眠りにつこうとしているノアの元に、新しい洋服を届けに来てくれた。

 それは優雅な光沢を放つ絹でできたチュニックワンピースで、一目見ただけでその価値がわかってしまうほどだった。

「其方に似合うと思って」

 そうはにかみながら手渡された洋服は肌触りが良く、思わず頬ずりをしたくなってしまう。月明かりに照らされた絹糸は、キラキラと輝いて見えた。

「今日は疲れただろう? ゆっくり休むがいい。また明日、様子を見に来るから」

 ノアが無意識に不安そうな顔をしたのだろうか? イヴァンがそっと髪を撫でてくれた。

 そんなやり取りがあったにもかかわらず、朝になってもノアの元を訪ねてきてはくれない。国王がどんな業務をこなしているのかなどノアにはわからないが、悔しいことに今ノアが頼ることができるのはイヴァンしかいないのだ。

 こんなにもたくさんの料理を並べられ、どういう順番で使ったらいいのかわからないフォークにナイフ、それにスプーン。ノアの目の前が真っ暗になってしまった。

「さぁ、遠慮などせずに召し上がってください」

 料理長に促されるように、とりあえずこんがりと焼けたパンを手に取って、口に放り込んだのだった。


 結局出された朝食にほとんど手を付けずに、ノアは「ご馳走様でした」と手を合わせた。自分たちの作った料理がノアの口に合わなかったのかと、料理長が顔を真っ青にしていたけれど、どうしても食べ物が喉を通ってくれないのだ。

 大体、高級な洋服を身に纏い、こんなにも立派な箱庭の中で、大勢の人たちに囲まれながら食事をしろというほうが無理だろう。

 ノアの戸惑いは一夜明けてなお、大きかった。料理の味さえろくにわからない。

 これから、自分はどうなってしまうのだろう。

 そんなことを考え出すと、嫌なことばかり考えついてしまう。

「こんな環境で花を生み続けなきゃいけないのかな……。くそ……あいつ、早く来いよ……」

 襲いかかってくる不安を振り解くように、ノアは強く首を横に振った。


 しかし、ノアの嫌な予感は的中してしまう。ドンドンと無遠慮に箱庭の扉が叩かれて「失礼します」という男の声が聞こえてきた。

 一体誰だ……。噴水の脇で蹲っていたノアは、あまりにも騒がしい雰囲気に顔を上げた。

 今度は一体何が起きたというのだろうか? 不安で胸が圧し潰されそうになった。

「失礼いたします、ノア様。わたくしは大臣のハッシェルと申します、以後お見知りおきを」

「はぁ……」

 ハッシェルと名乗った男はノアに向かい仰々しく頭を下げたものの、その顔に笑みはない。それだけで、「この人は自分の敵だ」とノアの本能が一斉に警笛を鳴らした。

 ゆっくりと顔を上げたハッシェルを一目見ただけで、ノアの背中に虫唾が走る。その男は前髪を後ろに撫でつけ、長い髪をきっちりと一つに束ねていた。見るからに神経質で気難しそうだ。能面のような顔に、気味の悪い薄笑いを張り付けている。

 骸骨のように痩せ細っており、指先で淵のない丸眼鏡をクイッと上げる姿は、不気味そのものだ。鼻をつくような香水にノアは思わず顔を顰めた。

 それでも大臣というくらいだから、国王陛下に仕える家来の中でもかなり位が高いのだろう。

 しかし、初めて顔を見るだけで、こんなにもいけ好かない奴がいるとはな……。ノアは小さく舌打ちをした。

「国王陛下がお気に召したという花生みですから、さぞや雅なお方だと想像しておりましたが、ただ見栄えのいい子どもではないですか? あー、実に嘆かわしい!」

「……はぁ? なんだよいきなりっ?」

「しかも何ですか? その口の利き方は……。これだから身分の低い者は嫌いなのです」

 ハッシェルはまるで汚物を見るかのような視線をノアに向けた。突然来ておいて、お前の方がずいぶんと失礼じゃないか? という言葉が喉元まで出かかったが、ノアはそれを呑み込む。

 きっとこの馬鹿に何を言っても伝わるはずがない……。ノアは諦めてしまっていた。ハッシェルのまるで蔑むような視線を受け取りつつも、憮然とした顔を隠さず、視線を返す。

 ハッシェルは、ノアのそんな視線は気にならないようだった。

「陛下も陛下です。お妃を娶ることもせずに、こんなちんけな少年を箱庭に囲うなんて……。一体何を考えているのでしょう。先代の王がこれを見たら、さぞや嘆き悲しむはずです。あー、嘆かわしい」

「……騒がしい野郎だ」

「はい? 何か仰いましたか?」

「いえ、何も。それより、大臣ともあろうお方が、俺に何の用ですか?」

「俺……? まぁ、なんて汚い言葉……。私、眩暈がしそうです。はぁ……。おい、あれを持ってこい」

 わざとらしく大きな溜息をついたあと、大袈裟に頭を抱えるジェスチャーをしたハッシェルが、後ろに引き連れていた部下に目で合図を送る。それに気が付いた部下は「は!」という声と共に部屋を後にした。

「ノア様、貴方は若くて美しい花生み、というだけで何の価値もありません。国王陛下がこんな風に貴方を寵愛しているのも、一時の心の迷いに違いない。本当に困ったお方です」

 ハッシェルの部下が二人がかりで運んできたものが、ノアの目の前に置かれる。それは普段からノアが見慣れているものではあったが、大きさが全く違っていた。その物の重みで柔らかな絨毯が静かに沈んだ。

「なんだ、これ……」

「あぁ? これですか? これはかめです。ご存じないですか?」

「瓶くらい知っているよ。なんでこんなにも馬鹿でかい瓶をここに持ってくるんだ? って聞きたいんだよ」

「あぁ、それはですね……」

 ノアの目の前に置かれた瓶は、ノアがすっぽり入れてしまう程大きなものだった。一体こんなものをどうしようと言うのだろうか……。厭らしい笑みを浮かべるハッシェルの姿を見ているうちに、ノアの額にジンワリと嫌な汗が滲んだ。

「一日かけて、この瓶がいっぱいになるくらいの花を生み出してください」

 ノアは驚いた顔をしたまま、かたまる。

 次の瞬間、なに言ってんだ! とハッシェルに向けて、批難めいた声をあげた。

「こんなにも大きな瓶いっぱいに、一日で花を生み出せるわけがないだろう!?」

「しかし、貴方は花を生み出すためにこの城へ来たのでしょう? そしてこんなにも見事な箱庭を与えられ、衣食住に困ることもない。私たちがどんなに欲しても手に入れることができないものを、貴方はこんなにも簡単に手に入れることができたのです」

「ふざけるな! 俺はここに無理矢理連れて来られたんだぞ!」

「黙らっしゃい!!」

 ハッシェルの大声が空気を震わせた。ノアはビクッと体を強張らせる。大臣というのもハッタリではないと思わせるほどの貫禄が、ハッシェルにはあった。そのあまりの迫力に、ノアは続けて言葉を発することさえできない。

「花生みは大人しく花を生めばいいのです」

「そんな……。花生みが花を生み出すことに、どれほどの苦痛が伴うのかを知っているのか?」

「知っていますとも。でも、私たちには関係ないことです」

「…………」

「もしこの瓶が花で満たされていないときは、クレイン夫妻の命が危ういかもしれませんね。そのことはよく肝に銘じておいてくださいませ」

「なんだと……」

 ハッシェルの言葉にノアは目を見開く。「そんなことはさせるもんか!」と言い返せない自分が歯痒くて目頭が熱くなった。

 ——結局俺は、歯向かうことなんてできない。大人しく花を生み続けるしかないんだ……。

 ノアは言葉を発することさえできずに項垂れる。噴水から弾け飛ぶ水しぶきがキラキラと光っている。そんな光景を茫然と見つめた。

「夕方に、瓶を回収に参りますので……」

 ハッシェルがノアの顔を覗き込み、ニヤリと顔を歪める。そのあまりの醜さにノアは吐き気さえ覚えた。

「では、せいぜい頑張ってくださいね。ノア様」

 そう言い残すと、ハッシェルとその部下たちは箱庭を後にする。ハッシェルがいなくなった部屋は恐ろしい程の静寂に包まれて、ノアは思わずブルッと身震いをした。

「この瓶を埋めるほどの花を……夕方までになんて無理だ……」

 溢れ出しそうな涙を、唇を噛み締めて堪えたが、頬を伝って流れ落ちた涙はベコニアへと姿を変える。そして音もなく床に落ちていった。

 こんなに小さな花をあの大きな瓶にいれたところで、きっと何にもならない……。そんな絶望がノアの心に襲い掛かる。しかし、きっとハッシェルはそれをわかったうえで、この無理難題を押し付けてきたのだろう。

「俺に嫌がらせがしたいだけだろう……」

 ノアは今にも消え入りそうな声で呟く。

 この塔に身を囚われたまま、花を生み出す覚悟はあったが、まさかこんなことになるなんて、想像もしていなかった。

 果たして、イヴァンはこのことを知っているのだろうか? もしかしたら、イヴァンがハッシェルにこの命令を言いつけたのかもしれない——。色々な考えが頭の中を駆け巡り、気が狂いそうになる。

「なにやってんだよ、あいつ……。また来るって言ったじゃん……。悲しい思いはさせないって、言ったくせに……。嘘つき……」

 ノアは声を殺して泣き続ける。そんな彼の周りには、可憐なベゴニアの花の絨毯が出来上がっていた。


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