第3話 復讐のために

 それはもう夏を色濃く感じさせる、暑い日のことだった。教会の庭には向日葵が咲き乱れ、蝉が競い合うかのように鳴いている。ノアの瞳の色と同じ真っ青な空には雲がゆっくりと流れていた。

「暑いなぁ」

 額から滝のように流れる汗を拭いながら、ノアは大きく息を吐く。

 ノアのベコニアから育った作物達は、豊作とは言えないまでも村人達がお腹を空かせないで暮らせる分くらいの収穫はあるはずだ。真っ赤に色付いたトマトやズッキーニ、トウモロコシを籠に入れながら思わず口角が上がっていく。


「わぁぁぁ‼ なんだあんた達は!?」

「ま、まさか、こんな所に……嘘だろう……」

 突然静かな村に悲鳴が響き渡る。それと同時に馬の嘶きと勢いよく地面を蹴る蹄の音が聞こえてきた。

「急いであの者を探すのだ!」

 鼓膜を劈くような声が辺りに響き渡る。

 その声を聞いた瞬間、ノアの心臓は鷲掴みされたかのように痛んだ。呼吸がどんどん浅くなり上手く息ができない。

 ――知っている、この状況……。

 ノアの脳裏に一瞬で忌まわしい記憶が蘇る。それは、イヴァンが村にやってきたあの日と同じ光景だった。

 村人の悲鳴と、たくさんの馬の足音……。

 あの日、ノアの両親はノアを守るために殺されたのだ。フラフラと立ち上がり、震える足に力を籠める。

 ――逃げなきゃ……‼

 本能的にそう感じ取ったノアは教会に向かい走り出す。クレイン司祭なら、きっと自分を助けてくれるに違いない。だから教会まで行けば何とかなる。その思いから必死に走り続けた。

 強張った体ではうまく走ることができず、何度も転びそうになってしまうが、ノアは必死な思いで足を前へと進めた。そんなノアに少しずつ蹄の音が近付いてくる。

「はぁはぁ……もう少しで教会だ……!」

 小高い丘の上に、教会が見えてくる。無我夢中で走り続けたせいなのか、うまく呼吸ができなくなっていた。気が焦っていく一方なのに、目の前がぼんやりと霞んでいく。

 最後の力を振り絞り走り続けるノア。

 すると突然、何者かに腕を強く掴まれる。

「うわぁ!?」

 容赦のない衝撃に思わず眉を顰めて咄嗟に腕を振り解こうとするも、次の瞬間ふわりと体が宙に浮き、いとも簡単に動きは止められてしまった。

 その勢いで抱きかかえられたノアは、気がつけば、大きな馬の上へと引き摺り上げられていた。

「離せよ! 誰だ、お前は!? いきなり何すんだよ!」

 力任せに抵抗しようとすると後ろから強く抱きかかえられ、簡単に動きを封じられてしまう。

 なんて馬鹿力なんだ……。

 それでも必死に両腕を振り回して暴れ続けていると、背後から聞き覚えのある声がした。

「ノアよ、久しぶりの再会なのに随分ではないか?」

「…………!?」

「私のことを覚えてくれていたか?」

 その声を聞いた瞬間、ノアの体からサッと血の気が引いていった。先程まで汗をかいていたのに、今は震えるほど体が冷え切ってしまっている。嫌な汗がタラタラと流れ落ちた。

 この声を忘れるはずなんてない。なぜならこの声は……。

「ヒッ……!」

 恐る恐る振り返り、その顔を見た途端、呼吸が止まりそうになり喉が妙な音を出した。

 ノアの目の前には、両親を殺したイヴァンがいたのだ。

 あの日から数年経過したが、その麗しい見た目は、忌々しいほどに変わっていない。濡れ羽色の髪に、夜の海のように真っ黒な瞳。薄笑いを浮かべる姿はゾッとするほど恐ろしいのに、とても美しい。

「あ、あんたは……」

「久しぶりだな、ノア。国王が自ら迎えに来たぞ。王宮から緑が消えてしまう前に、私と一緒にクレーア城へきてほしい」

 ——この男は、自分が何をしたのか、覚えていないのか? ノアは一瞬、イヴァンの言葉に呆然とした。

 一体何を言われているのか理解できないほどに、ノアの胸の中はさまざまな感情が渦巻き、ひしめいていく。

「あんた馬鹿なのか……? 自分の両親を殺した奴の言うことなんか……素直に聞くわけねぇだろうが!? 俺はあんたの命令なんか絶対に聞かない!」

 悲しみと恐怖、そして腸が煮えくり返りそうなほどの憎しみ……。暗い色のついた感情が次から次へと津波のように押し寄せてきて、ノアの心はグチャグチャに掻き乱される。不覚にも涙が溢れ出しそうになった。

「私と共にクレーア城へ行こう」

 すがるような目で自分を見つめるイヴァンを、弱々しく睨みつける。

 ――絶対に俺に歯向かうな。

 イヴァンに言われた言葉を思い出す度に、悔しくて、それ以上に恐ろしくて……。何もできない無力な自分が歯痒かった。

 両親が殺されたあの日から、自分の時間は止まったままだったんだ——。

 ノアは苦しくなるほどに、それを痛感していた。未来へ進むことも、過去に戻ることもできない。苦しい時間を、ただもがきながら生きてきただけなんだと。

「ノア……」

 自分の名を呼ぶイヴァンの整った顔が、少しだけ悲しみに歪んだ気がする。初夏の爽やかな風がサラサラと二人の髪を揺らした。

 一瞬の静寂を切り裂くように、ノアは叫んだ。

「嫌だ!! 絶対に!!」

「なんだと?」

「死んでも嫌だ! 例えあんたが国王陛下だとしても、俺は命令には従わない! 気に入らないなら俺を殺せばいい……! あんたは人を殺したって、なんとも思わない人間なんだろう?」

 国王陛下にこんな風に歯向かえば、ノアは罪に問われる。それも、大罪の反逆罪だろう。しかし、それでもいいと思った。こんなにも生き地獄を味わい続けるのであれば、死んだほうがましだと、ノアはギュッと目を閉じた。

 この男の前で涙を流したくなんてない。今自分が涙を流せば、この男たちが喉から手が出るほど欲しがっているベコニアを生みだしてしまうことになる。それだけは嫌だったのだ。

「ノア、私の話を聞いてくれ」

「嫌だ。絶対に嫌だ……」

 唇をギュッと噛み締めると、口の中にジンワリと血の味が広がっていく。それでもノアは、更に唇を強く噛み締めた。

「国王陛下! 約束が違うではありませんか!?」

 突然よく通る声がその場に響き渡る。ノアが恐る恐る目を開くと、馬の目の前にクレイン司祭とマーガレットが立ちはだかっていた。

「……! なにを……!」

 ノアは震える唇で呟く。なんて無謀なことをしているのだろうか。これではクレイン司祭とマーガレットが殺されてしまう。そう感じたノアは慌てて馬から降りようとしたが、イヴァンの腕はノアを抱きとめて離さなかった。

「国王陛下、もう二度とノアには手出しをしないと、あの日約束してくれたではないですか!?」

「お願いします、国王陛下。ノアを連れて行かないでください!」

 クレイン司祭とマーガレットは、大きな白馬に跨るイヴァンの前に臆する様子もなく歩み寄り、そっと地面にひれ伏した。

「ノアは両親を殺され、心に深い傷を負っています。そんなノアをこれ以上苦しめないでください。どうかお願いします」

「それにノアは、私たちの子どものような存在なのです。どうかノアを連れて行かないでください!」

 司祭の身分で土下座をするクレイン司祭と、恐怖から震える声で自分を「我が子のような存在」と言ってくれたマーガレットの姿に、ノアの胸が熱くなる。

 自分だけが勝手に、この二人を両親のように慕っていたわけではないのだと知ったノアの目頭が熱くなった。

「クレイン司祭……マーガレットさん……」

 ノアの瞳から熱い涙が溢れ出し、豊かな馬の毛の上にベコニアが音もなく落ちる。その様子をイヴァンが無言で見つめた。

「無礼者が‼」

 そんな二人を見たひとりの騎士が怒号を上げる。その騎士は炎のような赤毛をしており、まるで筋肉の鎧を着ているかのように逞しい体つきをしている。その堂々たる風貌から、他の騎士たちより明らかに格式の高い騎士だということが見てとれた。

「行け!」

 その男の号令と同時に、他の騎士たちが一斉に剣を抜きクレイン司祭とマーガレットを取り囲む。砂ぼこりが舞い上がり、一瞬ノアの視界が遮られてしまう。

 しかし次の瞬間、砂ぼこりが風にさらわれ、開かれて見えた光景にノアは目を見開いた。

 クレイン司祭の喉元に、赤毛の騎士が剣の切先を向けている。その鋭い刃は、今にもクレイン司祭の皮膚を切り裂いてしまいそうなぐらいの位置にあった。

「あ、ぅ、あ……」

 その光景に、ノアは言葉を発することさえできなくなってしまう。

 クレイン司祭とマーガレットの姿が、両親と重なって見えた。

「嫌だ、嫌だ……」

 ノアはイヴァンの腕の中で、まるで「嫌々」をする子どものように首を横に振る。二人に向けて伸ばされたノアの片腕は、震えていた。そんなノアの顔を、イヴァンがそっと覗き込むように顔を傾ける。

「もう嫌だっ……大切な人を、これ以上失うなんて……」

 ノアの瞳から大粒の涙が次から次へと溢れ出し、ベコニアへと姿を変えていく。馬の背中から落ちたベコニアの花が、まるで絨毯のように地面を埋め尽くしていった。

「あんたがこのベコニアの花が欲しいって言うなら、あげるから……」

「なんだと?」

「いくらでもベゴニアの花をあげるから、あの二人を殺さないで。お願い、殺さないで……」

 ノアは逞しいイヴァンの腕の中で声を出して泣いた。もう二度と大切な人を自分のせいで失いたくない……その一心だった。

「……あんたの言う通り、クレーア城に行くよ」

「…………」

「クレーア城に行くから……もう誰も殺さないで」 

 自分はなんと無力なのだろうか? 今のノアにはこうやって泣きながらイヴァンに懇願することしかできないのだから。

「アッシュ、剣をしまえ」

「しかし、陛下!」

「いいから、剣をしまえと言っているのだ」

「はっ!」 

 イヴァンがアッシュと呼んだ赤毛の騎士は、納得がいかない、という顔をしながらも渋々命令に従った。

 それを見ていたノアの口から、ほぅ、と安堵の息が大きく漏れる。

「よかった、よかった……」

 ベコニアの花が流れ落ちる度にズキズキと目が痛む。しかしそれ以上に、心がナイフで抉られたように痛んだ。

 そのとき、もう遠い記憶のように感じる両親の言葉が、ノアの頭に降ってきた。

『ノア——。この力だけは絶対に使ってはいけないよ』

 ふと、ノアの目から涙が止まる。

 ——なんで今、こんなことを思い出したんだろう。

 そう思うと同時に、ノアの胸は、冷たい水が染み渡るように冷静になっていく。

 ――記憶が確かであれば……。そうか……、あの力を使えば、もしかしたらこの男に復讐ができるかもしれない。

 ノアはこのとき、漠然と、しかし明確な意志を持った己の感情を密かに募らせていった。


 ◇◆◇◆


「ここで待っているから、さっさと準備をしろ」

 ノアは、クレイン司祭とマーガレットに別れの言葉を告げる時間さえ与えられず、教会を後にすることとなった。

 少し前に、マーガレットが仕立ててくれた洋服を持っていこうと用意を始めると「其方には新しい洋服が用意してある」というイヴァンの声が聞こえてきた。

 しかしノアが洋服を持っていきたかった理由は、クレイン司祭とマーガレットと過ごした日々を忘れたくなかったからだ。ほんの少しの洋服と、両親との思い出が詰まったオルゴールを布の袋に詰め込む。その支度をするだけで涙が溢れてきそうで、慌てて鼻をすすった。

「あ、これも持っていかなくちゃ……」

 ノアはチェストの中にしまっておいた手紙とハンカチーフをそっと取り出す。

 これから先、この手紙とハンカチーフが、自分の心の支えになってくれる……。根拠なんてないけれど、なんとなくそう感じていた。ノアは、ギュッと手紙とハンカチーフを抱き締める。

「おい、なんだそれは?」

「あ、いや。なんでもない」

 待ちくたびれた、といった風にノアの手元を覗き込んでくるイヴァンに見つからないよう、ノアは手紙とハンカチーフを袋に押し込む。こんなものを大事そうに持っていたら、イヴァンに何を言われるかわかったものではない。

 クレーア城へと旅立つ荷造り、といってもイヴァンがじっとこちらの様子を窺うように、すぐ後ろに立っているのだ。これではゆっくり荷造りなどできるはずもない。ノアは鬱陶しいなとでも言いたげに、イヴァンに背を向けたままで大きく息を吐いた。

「おい。準備は終わったか?」

「ああ。これだけで十分だ」

「そうか。では参るぞ」

 痺れを切らしたイヴァンがノアの手を掴み歩き出す。その勢いにノアは息をすることさえ忘れてしまいそうになった。

「待って! なぁ、ちょっと待てよ!」

「なんだ? 忘れ物か?」

「そうじゃない。クレイン司祭とマーガレットさんにお別れくらい言わせてよ」

「駄目だ」

「は? なんでだよ?」

 突然イヴァンが立ち止まったかと思うと、険しい顔をしながらノアのほうを振り返る。その冷たい表情にノアは思わず息を呑んだ。

「あの司祭と女は国王である私に、愚かにも歯向かったのだ。本来なら罰を与えるところだが、其方に免じて罪には問わなかった」

 その冷たい口調に、ノアの全身を流れる血液が凍り付いてしまいそうになる。このイヴァンという男は、なんと冷たい話し方をするのだろうか。

「私は優しいところもあるのだ。命を奪われなかっただけでも、感謝をするんだな。だがしかし、反逆者と親密にすることは許さない。いいから黙ってついて来い」

「で、でも……」

「いいから来い!」

 厳しい口調で一喝されると、何も言い返せなくなってしまう。

「それに、今あの二人の顔を見たら、其方の気持ちが変わってしまうかもしれないからな」

「……なんて?」

「いや、なんでもない。とにかく、黙ってついて来い」

 イヴァンに引き摺られるように廊下へと出ると、部屋の入り口に待機していた騎士たちが一斉にイヴァンに向かい一礼する。

「参るぞ」

「は!」

 有無を言わせぬ勢いで、イヴァンはノアを教会の外へと連れ出していく。庭にはクレイン司祭とマーガレットがいて、不安そうにこちらを見つめていた。今にも泣き出しそうな二人の表情に、ノアの心が引きちぎれんばかりに痛む。

 ——大丈夫。俺のことは心配しないで。

 そう伝えたかったけれど、それは叶わなかった。

「さぁ、お前はこちらだ」

「あ、ちょ、ちょっと待てよ」

 イヴァンは、まるで雪のように真っ白な馬にひらりと飛び乗る。逞しい筋肉の鎧をまとった白馬と、見目麗しいイヴァンは、まるで神話の世界から飛び出してきたような神々しさを放っていた。

「ほら、手を貸せ」

「え?」

「いいから、手を出すんだ」

 変わらず厳しい表情でノアを睨みつけるイヴァンが差し出す手の上に、ノアは恐々としながらも自分の手を乗せた。

「わぁッ‼」

 次の瞬間、勢いよく腕を引かれたノアは馬へと引き上げられてしまう。イヴァンの前に座らせられたノアに覆い被さるよう、イヴァンが馬の手綱を引いた。

 一見イヴァンに守られているかのように見えるが、ノアにしてみたら身動きを封じられてしまったかのような圧迫感がある。もう逃げられないんだろうなと、ノアは顔を俯かせた。

「落ちないよう、ちゃんと掴まっているのだぞ」

「あ、うん」

「よし。では行くぞ。ハッ!」

 イヴァンが、綺麗に筋肉がついた白馬の首筋に手綱を打ち付けると、馬が嘶き走り出す。そのあまりの速さに、ノアは必死に馬の首にしがみついた。

「ノア‼」

 ふと名前を呼ばれたノアが振り返ると、涙を流しながらクレイン司祭とマーガレットがこちらを見つめていた。騎士に制止させられていなければ、ノアのことを追いかけてきていたかもしれない。そんな悲痛な表情だった。

「さよなら」

 ノアは小さく呟く。行き場のない自分を、まるで我が子のように大切にしてくれたクレイン司祭とマーガレットには、感謝してもしきれない。許されるならば、ずっと一緒にいたかった……。

 ノアの瞳から涙が溢れ出し、ベコニアへと姿を変える。そのベコニアをいいように使われることが嫌だったノアは、道端にそれを投げ捨てた。後に続く馬たちがそのベコニアを踏みつぶしていく光景に、ノアは安堵する。

「手荒な真似をして、すまない。どうか許してほしい」

「は?」

「クレーア城に着いたら、其方を大切にする。もう二度と、傷つくことのないように」

 馬が勢いよく走る音に、イヴァンの声は途切れ途切れにしか聞こえなかった。しかし、イヴァンの瞳には悲しみが浮かんでいるように思えてならない。

「すまない、ノア……」

 イヴァンの悲痛な声が、蹄の音に掻き消されていった。

 

 ◇◆◇◆


「ノアよ、もうすぐ着くぞ」

「はぁ……ようやく? 腰と尻がめちゃくちゃ痛ぇ……」

「すまん。本当なら馬車で迎えに行くべきだったが、私は馬車が苦手でな」

 馬に乗り慣れていないノアは、腰を擦りながら顔を歪める。こんなにも馬が揺れる乗り物だとは想像もしていなかった。

「大丈夫か?」

 イヴァンがノアの顔を覗き込みながら、まるで労わるように腰を擦ってくれる。その突然の行動にノアは思わずイヴァンの手を振り払った。

「な、なにすんだよ!? 急に触んな!」

「すまない。其方が辛そうな顔をしていたから」

 申し訳なさそうに言葉を紡ぐイヴァンを見たノアは、拍子抜けしてしまう。

 今目の前にいるイヴァンは、ノアが知っているイヴァンとは別人のように感じるのだ。まるで角が取れたような穏やかな印象を受ける。

 村を後にした矢先——、ノアに向かい「大切にする」と言っていたイヴァン。ノアは、妙な違和感を覚えた。

 今ノアの目の前にいるイヴァンと、平然とノアの両親を殺めたイヴァンは、本当に同一人物なのだろうか。そんな疑問が頭を過る。

 いや……騙されるな。こいつが、あんなことを本音で言ったはずがない。俺の両親を殺しても何とも思わない、冷酷な男に違いないんだ——。

 ノアは首を振り雑念を追い払う。今こうやって傍にいるだけで、反吐が出そうな相手なのだ。しらじらしい優しさを見せて、ノアを油断させているだけなのかもしれない。うっかり絆されてしまわぬように、気を引きしめようと改めて誓った。

 気づけば目の前には大きな湖が広がっていた。見渡す限り広がる湖面はそよ風に揺れさざ波をたて、耳をすますと小鳥のさえずりが聞こえてきた。そんな湖の水を馬が美味しそうに飲んでいる。馬だって、長距離を休まず走ってきたのだから、さぞや疲れたことだろう。

 湖の近くにはたくさんの花が植えられているようだが、どの花も枯れてしまっており力なく地面に倒れてしまっている。

「ここまで影響がでているんだ」

 そんな光景を見たノアの心が痛んだ。

「見えるか、ノアよ。あれがクレーア城だ」

「え? あれが? ……すげぇ」

 ノアの視線の先には、丘陵に建つ大きな城があった。城の周囲はぐるっと湖に取り囲まれ、石造りの重厚な外観をしている。いくつもの高い塔が天に向かって聳え立ち、その風貌は権力の象徴のように思えた。

 有名な建築家たちが、長い年月をかけて築き上げた城だと、ノアは風の噂で聞いたことがある。

 しかし噂で聞くクレーア城は、ノアが想像していた物よりもずっと立派で美しいものだった。その城は、まるでノアが幼い頃読んだ童話の中から飛び出してきたようにも感じられる。

 今まで平凡な暮らしを送ってきたノアにしてみたら、まるで夢のような光景だった。

「よし、では行くぞ。しっかり掴まっているんだぞ」

「まだかかるのか?」

「いや、もうすぐ着く。あと少しの辛抱だ」

 優しく話しかけてくるイヴァンにノアが戸惑いを感じる暇もなく、再び馬は物凄い速さで走り出したのだった。


 イヴァン一行が城に着くと、見上げる程大きな跳ね橋がゆっくり下ろされた。金属が擦れる音と共に橋が下ろされると、馬は一気に城内へと走って行く。そのあまりにも厳重な要塞に、ノアは度肝を抜かれてしまった。

 このまま逃げ出したい、という強い恐怖にも襲われる。このまま再び跳ね橋が上がってしまえば、自分は一生この城から出ることができないのではないか……。そんな不安に駆り立てられてしまう。

「嫌だ。やっぱり行きたくない」

 そんなことを言う暇もなく、城門は重たい音をたてて閉じられてしまう。

 ——あぁ、これでもう引き返すことはできないんだ。

 ノアの心の中に絶望の波が押し寄せたのだった。


 ◇◆◇◆


 クレーア城の中には綺麗に整えられた庭園が広がり、その真ん中を大きな川が流れている。恐らく、この川が生活用水になるのだろう。

 庭園の脇では家畜が飼育されていたり、鍛冶屋にパン焼き小屋など、城の自給自足を支える様々な施設が並んでいた。

 庭園にある荘厳とも感じる様式の噴水からは水が溢れ出し、キラキラと水しぶきをあげている。周囲にはたくさんの大木が植えられており、四季折々の風景を楽しむことが出来るようになっているのだろう。

 しかし綺麗に手入れをされているはずの庭の花も、城まで続く芝も枯れ果ててしまっている。

 ノアが見たこともないほど、広い庭園は、その広大さ故に、枯れ色の侵食がより色濃く見えてしまうような気さえした。

「可哀そうに……」

 ぐったりと地面に横たわる花々の姿を見ると、ノアの心は張り裂けそうになった。

 城の近くに植えられているオリーブの木々も、庭園を最も彩る存在だっただろう薔薇園も、見るも無残な姿をしている。

「これはひどいな……」

 ノアはポツリと呟く。こんな風に城の庭園が荒れてしまっているなんて想像もしていなかった。

「全くだ。薔薇園の傍にある葡萄畑も、小麦畑もこんなありさまだ。このままでは、城の存続さえ危うくなってしまう」

「そっか……」

 しかし、このような状況に拍車をかけたのは、ノアが生まれ育ったリリス村の援助を全て断ち切ってしまったからではないか? とノアは言いかけたが、その言葉を呑み込む。自業自得だ、と罵倒してやりたかったが、そんなことをすればさすがに殺されてしまうことだろう。

 ノアは大きな溜息をつきながら、庭園を見渡す。

「あ? あれは?」

「ん? あぁ、あれは教会だ」

「教会……。ここにも、あるんだな」

「あそこにはダルメア教の司祭、ソフィアがいる。あの者も有能な花生みだ。其方ほどの能力は持ちあわせてはいないがな」

「へぇ」

 クレーア城のすぐ脇にはレンガで造られた大きな教会が建っていた。それはノアが知っている教会よりも大きく、重厚感漂う佇まいが印象的だった。

 外からでも見える窓には光り輝くステンドグラスが埋めこまれており、思わず溜息が漏れてしまいそうな程、静粛な雰囲気に包まれていた。

「……ん? あの人は? もしかしてあの人がソフィアっていう人か?」

「ん? あぁ、そうだ。あれがソフィアだ」

 二人の視線の先には、城下町で暮らす商人と談笑している一人の青年がいた。

 栗毛色の長髪を一つに束ね、長くゆったりとした洋服を纏っている。肌は蝋のように白く透き通っていて、一見するとまるで女性のように美しい青年だった。

「綺麗な人だなぁ。なんだか、天使みたいだ」

「そうか? 其方のほうがよほど美しいと思うがな」

 そうさらりと言ってのけるイヴァンに、ノアの頬が急激に熱くなった。

 そんな二人に気が付いたのか、ソフィアがこちらを向き、ゆっくりと頭を下げる。その所作の美しさにノアは思わず見とれてしまった。

「機会があったらソフィアのことを紹介する」

「……わかった」

「さて、城内へ参ろう。其方に見せたいものがある」

「…………」

 馬から颯爽と降りたイヴァンに手を差し出されたノアは、その手を勢いよく払い除けた。「無礼者が!!」という騎士たちの叫び声が聞こえてくる。一斉にノアに向かい突進してくる騎士たちを、イヴァンが手で制した。

「手伝ってくれなくても、一人で降りられるから」

「そうか。それはすまなかった。ではついて来い」

 イヴァンはそう呟いてから、ノアに背を向ける。それから先はノアのことなど振り返ることもなく、城内へと歩いて行ってしまった。

 体格が全く違うノアは、イヴァンの後を必死に小走りで追いかける。ノアの息は弾み、息切れしているというのに、イヴァンがノアのことを振り返ることはない。

 その態度はやはり冷たさが滲み出ていて、「やっぱりこいつが優しいはずなんてない」とノアは確信めいて、それでも今はイヴァンの後を追うしかなかった。

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