第1話 花生みの少年

「なんだ、数週間雨が降らなかっただけで枯れちまうなんて、だらしないなぁ。ほら、元気を出しな」

 少年が道端に咲いているクリスマスローズにそっと手をかざすと、つい先程まで頭を垂れていた花が生き返ったかのように空に向かい花弁を広げた。

「よし、いい子だ」

 少年が微笑む。

 まるでクリスマスローズも、「ありがとう」と微笑んでいるようだった。

 少年は愛おしそうに、クリスマスローズを撫でた。


 この世界には、特殊な能力を持って生まれてくる者がいる。

 自身の体から花を生み出すことができる『花生はなうみ』と、その花生みが生み出した花を食す『花食はなはみ』だ。両者は互いの性質上、相互依存の関係となっている。

 花生みが花を生み出す際には大量のエネルギーを消費する。その栄養を日光や薬で補うことはできるが、花生みにとっての一番の栄養は花食みの体液だ。

 逆に花食みは花生みが生み出す花を食し、自身の糧とする。勿論、普通の人間と同じ食事を摂取することは可能であるが、花生みが生み出す花は花食みにとって栄養価が高く、非常に有益なものだ。

 花生みと花食みはお互いにとって大切な存在である。特に花生みと花食みが恋人、または夫婦となる『ブートニエール』の関係に至った場合、特別な絆で結ばれるとされている。

 花生みと花食みは「運命」にも似た、不思議な関係で結ばれているのだ。


 少年のノアは花生みとしてこの世に生を受けた。

 彼が痛みを伴い流した涙は、世界一美しい花と呼ばれているベゴニアへと姿を変える。そのベゴニアから採れた種はどんな土地にも根を張り、草木が育たない地にすらも、緑をもたらすことができた。


 『クルゼフ王国』は雨が降らず、もう何年も食糧難に陥っている。カラカラに干からびてひび割れた土地にいくら種を撒いても、せいぜい絵筆くらいの太さの人参を収穫することしかできない。

 農民たちの大切な主食であるライ麦や小麦も、燦燦と降り注ぐ日光の下に次々と枯れていき、飼われている家畜達は腹を空かせて死んでいく。体力をつけるための肉も、腹を満たすための硬いライ麦パンすら満足に得ることができずに、農民たちは絶望しながら空を仰ぐ日々を送っていた。

「ここまでか……」

 ノアの目の前で蹲る、枯れ枝のような腕をした老婆がポツリと呟く。もはや村民全員が餓死するのを待つしかない……。誰もが絶望の表情を浮かべていた。

「私など死んでもいいのです。ただ若い者が先に死んでいってしまうことだけは、我慢なりません……」

 骨と筋ばかりの肩を揺らし泣く老婆を目の前にすれば、ノアの心が張り裂けそうになった。

「すまない。俺がもっと早くこの村を訪れてやれていたら……。大丈夫だ、婆さん。後は俺に任せておけ」

 そう言いながら、老婆の肩を叩いてノアは荒れ果てた畑の前へと進み出た。

「任せておけとは……。あ、貴方様は?」

「俺はリリス村からきたノアだ。国中を旅してまわっているのだが、なかなか全ての村をまわりきることができなくてな」

「……ノア……? じゃあ貴方様が伝説の花生み……」

「伝説とか言うんじゃねぇよ。俺はまだ生きているんだから。それより婆さん、大変だったな。ずっと作物が採れなくて」

「あぁ……伝説の花生み、ノアよ……助けておくれ……! このままでは皆が死んでしまう……!」

 両手で顔を覆い泣き出してしまった老婆の傍にしゃがみ込み、ノアは優しく背中を撫でてやりながら言葉を紡いだ。

「わかっている。そのために俺はここに来たんだ」

 まるで神に祈りを捧げるかのようにノアは大地に跪いた。両手をギュッと組み、静かに目を閉じて深い呼吸を繰り返す。

「なんて神々しい……」

 老婆は震える声を絞り出しながら、ノアを見上げては、息を呑む。

「眩い程の光り輝く銀色の髪に、透き通る蝋のような肌。晴れた日の空のように澄んだ瞳。噂には聞いていたが、本当に天使のように美しい」

 その姿を見た老婆もまた両手を合わせる。それに倣い、近くにいた村人たちも手を合わせ始めた。皆が息を潜めてノアを見守った。

 次の瞬間スッと一粒の涙がノアの頬を伝う。まるで澄み切った空のような色の瞳から溢れ出す涙を、ノアは自分の手のひらで受け止める。手のひらの中には赤や白、青紫やピンク色のベゴニアで溢れ返っていた。

「まぁ、なんて綺麗なベゴニアだろうね……」

 そう呟く老婆の手のひらに、ノアはたくさんのベゴニアを載せてやる。あまりの大量のベゴニアを持ち切ることができない老婆は、掛けていたエプロンをハンモックのように広げてそれを受け止めた。

「このベゴニアを畑に埋めてごらん? 小麦が欲しければ小麦を、人参が欲しければ人参を思い浮かべながら……。きっと皆が望む作物に恵まれることだろう」

「……なんてありがたい……」

「よかった。喜んでもらえて」

 老婆の目からは再び大粒の涙がポロポロと溢れ出す。それを見たノアは満足そうに微笑んだのだった。


「ほう、これは実に素晴らしい能力だ」

 ノアが声のする方を振り向く。

「噂通りだな、ノアよ」

「あんた、なんで俺の名前を知っているんだ?」

 ノアが視線をやった先に、黒々と光輝く馬に跨った男が薄笑いを浮かべている。こんなに作物が獲れない状況の中、これほどまでに肥えた馬がいるなんて。ノアは言いようのないその存在の違和感に、眉を寄せた。

 男は、一目見ただけで上級階級の者とわかるほど、立派な白いチュニックと真っ赤なマントを身に着けている。

 ――なんでこんな金持ちが、こんな辺鄙な村に来たんだ?

 上等な布には金や銀糸で華やかな刺繍が施されており、洋服につけられた模造宝石が日光の光でキラキラと輝いている。真っ赤なマントはシルクでできているのだろうか? まるで太陽のように眩い光を放ち、華美な衣装をより一層引き立てていた。

 それらの装飾品全てが、己の地位を誇示しているように思えてきて、身分の低い農民の子であるノアはつい反射的に、腹の立つ感覚を覚える。

 下級身分の者達が苦しんでいるというのに、こんなにも肥えて立派な馬を持ち、煌びやかな衣装を身に着けて悠々自適な暮らしを送っている……。そう思えば、腸が煮えくり返るようだった。

 『俺に何の用があるって言うんだよ?』と、馬の上から自分を見下ろし、ほくそ笑む男に向って声を上げようとした瞬間――。

「こ、これは……!!」

「貴方様はもしかして……!!」

 ノアの近くにいた村人達が一斉に地面にひれ伏した。

「一体なんなんだ?」

 事態を理解できないノアは目を見開く。どうやらここにいる自分以外の人間は、突然現れたこの男の正体を知っているようだ。

「あのさ……あんた誰? 偉い人なの?」

「ふっ。なかなか気が強いのだな? 大概の者は、俺を見ると圧倒されて何も言えなくなってしまうというのに。気に入ったぞ」

「はぁ? 馬の上にいてふんぞりかえってるだけだろうが。そんな自分がすごいって言いたいわけ?」

「おい、貴様! 言葉のきき方に気をつけろ!」

 男の近くにいた騎士の一人が怒声を上げると「いいから黙っていろ」と、男は手で制した。それを見た兵士がスッと頭を垂れる。そんな一瞬のやり取りだけで、この男はやはりかなりの権力者なのだと窺い知ることができた。

 ノアの目の前にいる男は、変わらず不敵な笑みを浮かべている。漆のように黒い髪は日の光を浴びキラキラと輝き、髪と同じように真っ黒な瞳に見つめられると吸い込まれそうになってしまう。

 ノアよりだいぶ年上に見えるが、妙に色気があり艶めかしい。逞しい体つきをしているにもかかわらず、容姿秀麗という言葉がこの男にはよく似合った。


「ノアよ。初めて会ったな。俺はこのクルゼフ王国の新国王だ」

「新……国王……?」

「そうだ。俺の顔も知らない輩がこの国にいたなんて。身の程知らずもいいところだな」

 この男が新国王陛下……。ノアは一瞬言葉を失ってしまう。今までの自分の言動を思えば、よく殺されなかったと思う程無礼な態度をとってしまっていた。今になって、全身から血の気が引いていくのを感じる。

「まぁ、気にするな。別に貴様の無礼をここで裁くつもりなどない。ただ、貴様に言っておきたいことがあり、はるばるここまで出向いてやったのだ」

「言っておきたいこと?」

「そうだ」

 新国王と名乗った男の顔から笑みが消え去り、真顔になる。そのあまりの冷酷な表情に、ノアは思わず息を呑んだ。やはり若いと言っても国王陛下となった男だ。貫禄がある。ノアは無意識に後退り距離を取った。

「今我がクルゼフ王国は、かつてない程の食糧難に陥っている。この危機を脱するには、お前達、花生みの能力が必要だ。よく聞け、ノアよ」

「…………」

 ノアはこの男の瞳が苦手だ。まるで夜の海のように真っ黒で引きずり込まれそうになる。視線を逸らしたくなるのを必死に堪えて、最後の抵抗とばかりに弱々しく睨みつけた。

「貴様が大人しく俺の言うことを聞けば、貴様の生まれ故郷の村人や、両親に危害を加えることはしない。だが逆もまた然りだ。貴様は、たった今から俺の命令に背くことは許されない」

「……な、何を言っているのか意味がわからない」

「いいから黙って聞け。決して、貴様が俺に歯向かうことは許されない。いいな?」

 まるで呪いをかけるかのように低い声で呟く。

 この男は一体何を言っているのだろうか? それが理解できずに、ノアは何も言い返すことができず、黙って男を見上げた。

 なぜ生まれ故郷のことや、両親の話が出てくるのか。男の言葉が、強い恐怖心へと姿を変えて、ノアの脳裏に深く刻み込まれる。緊張のあまり喉がカラカラに渇き、声を発することさえできなかった。

「また会おう」

 男が手綱を強く引けば馬が声高に鳴く。けたたましい馬の足音と共に、土埃を上げながら男は風のように村を後にした。そして、その場には静寂が残される。

「なんだよ、決して歯向かうなって……。意味がわかんねぇ」

 緊張の糸が切れたノアは全身から力が抜けてしまい、その場に立っていることがやっとだった。


 ◇◆◇◆


「ただいま」

「あら、ノアおかえりなさい。なかなか帰ってこないから心配したわ」

「あー、うん。今回はかなり遠くの村まで行ってきたから」

「あら……。またベコニアを置いてきたの?」

「まぁね」

 ノアは両親と共に『リリス村』で穏やかな生活を送っていた。リリス村は数十人の村人しかいない小さな集落ではあるものの、そのほとんどが花生みである。

 そのおかげで、リリス村に入った瞬間、たくさんの美しい花々に出迎えられるのだ。一面に広がる小麦畑に、作物が所狭しに植えられている野菜畑。木々の新緑が日光を受け輝き、風にそよそよと揺れている。その光景は、先程までノアがいた村の風景とは全く違っていた。

「皆様の役に立てたみたいで、母さんも鼻が高いわ」

 そうノアに向かって微笑む母親のステラを見ると、照れくさくなってしまい頬に熱が籠っていく。夕食のためにパンを焼いているのだろう。香ばしい香りが家中を漂っていた。

 ノアの両親も花生みだが、ノアのように花を作物の種に変える能力は持ち合わせていない。ノアは普通の花生みが持っていないような特別な能力を、生まれながらに持っていた。

「お、ノア。ようやく帰ってきたのか? 農作業も手伝わずにフラフラしやがって」

「うるせぇな。人助けしてきたんだからいいだろう?」

「たまには、父さんやリリス村の人たちを助けたらどうだ?」

「はぁ? 自分の領地くらい、自分で何とかしてよ。俺だって色々忙しいんだからさ」

「まぁまぁ。あなた、ノアだって人助けの為に頑張っているんですから、あまり怒らないでください。さ、もうすぐ夕飯になりますからね」

 ノアと、ノアの父親であるカイルとの間にわずかに走る険悪な雰囲気に、ステラがやわらかく割って入る。カイルは若くしてリリス村の村長となり、立派に村を治めていた。

 リリス村は代々からクルゼフ国の王家と懇意にしている。花生みである村人達が王国に緑をもたらすことを条件に、作物を狙い危害を加える者達から村を守る、という条約を結んでいるのだ。

 この条約のおかげで、国王陛下の住む『クレーア城』は僅かではあるが城内の畑で作物が収穫でき、リリス村も部外者に襲撃されることなく作物を収穫することができるのだ。この条約はもう何百年も前から受け継がれてきたもので、お互いの利害に一致するものでもあった。

 ノアが生まれてからは、彼の優れた能力によりクレーア城で収穫できる作物が増えたともっぱらの噂だ。国王陛下はノアの涙から生まれるベゴニアの花を楽しみにしていると耳にしてはいたが、当のノアは国王陛下などに会ったことがない。会いたいとも思ったこともないし、一生会うこともないだろうとも思っていた。

 国王陛下や城の事情など、ノアにはどうでもいいことなのだ。この優しい両親と穏やかな暮らしを送ることができるだけで、幸せだと感じていたのだから。

 しかし突然現れた新国王陛下を名乗る男の存在が、ノアの運命を狂わせていったのだった。


 ◇◆◇◆


 その年は、これまで国を統治してきたルーカス国王陛下が若くして、病で崩御した年だった。国民は早すぎる国王陛下の死を嘆き悲しみ、喪に服す。

 ルーカス国王陛下の後継者に選ばれたのは第一王子だったが、まだ若く、ルーカス国王陛下のように国を治めることができるのだろうか……? そんな不安が、国民の沈んだ心に更に影を落とした。

 そしてその年は、作物が全く育たない年でもあった。それまでは絵筆程の太さしか育たなかった人参は、芽を出して間もなく枯れてしまう。人参だけではなく、ライ麦や小麦、芋も玉葱も全てが育つことなく枯れて朽ちていく。作物が育たない畑はひび割れ、砂埃が宙を舞った。

 農民は疲れ切った顔で空を仰ぐが、雨が降る気配すらない。

 城内にある畑は、リリス村の花生み達が産み落とした種でなんとか作物が実っていたが、その畑さえも今はまるで砂漠のようだという。足りない食物を補っていた貿易も、王が変わったことで国同士の関係が悪化し、今は途絶えてしまったようだ。

「なんということだ……」

 若くして国王となった男は苦々しい顔をしながら、枯れ果てた作物を踏みつける。

「もうどれくらい雨が降っていないのだろうか? それにこの瘦せこけた土地は一体どうしたというのだ? いくら種を撒いたところで芽さえもでないではないか。このままでは、この国が滅亡してしまう」

 新国王は意を決したように畑に背を向けた。

「馬を用意して騎士団を招集しろ。これから出かける」

「は! かしこまりました」

 近くにいる家来にそう命じた後、ゆっくりと歩き出したのだった。

 

 ◇◆◇◆


「城内にある畑の作物も、ついに全部枯れ果てたらしい」

「なんてことだ……。村長、村は大丈夫なのか? 何者かが作物を狙って攻めてくる、なんてことはないだろうか?」

 ノアの家の前には先程から数人の村人たちが集まり、討論を繰り広げている。ノアはその会話にそっと聞き耳を立てた。

「大丈夫だ。そんな輩が攻めてきたときには、国王陛下と騎士団がこの村を守ってくれるという条約が結ばれている。だから心配することなんて何もない」

「そんな約束、ただの口約束だろう?」

「そんなことはない。なぜなら我々花生みは、今まで国のために一生懸命、城に作物や種を納めてきたんだ。そんな我々を国王陛下が裏切るはずなんてない」

 必死に村人たちを宥める父親を見て、ノアは溜息を吐く。

 ――なんてお人好しなんだろう……。

 そんな口約束を律義に守るのか? あの新しい国王陛下が? ノアは以前出会った、黒い髪の男のことを思い出しては、とても信頼する気になどなれずにいた。

 そんなノアの予感は的中してしまう。

 

 リリス村は変わらず自然に恵まれており、爽やかな風が村の中を駆け抜けていった。

 もうすぐ春に植えた種が実をつけ収穫できる季節になる。大きく成長した人参は丸々としていて立派だし、小麦がまだ青い穂を実らせてずっしりと垂れ下がっていた。真っ赤に熟れたトマトも艶々としている。きっと今年も豊作だろう。

 そんな光景を見れば、「作物が獲れない」といった話など、別世界のように感じられる。しかし、こうしている間にも飢えで苦しむ人々は確かに存在しているのが現実だ。

「わぁぁぁ! 何をするんだ⁉」

 突然聞こえてくる耳をつんざくような叫び声に、ノアは読んでいた本から視線を外す。咄嗟に恐怖を感じたノアは息を潜めて辺りの状況を窺った。

 それはいつもと変わらない、穏やかな午後のことだ。

「……なんだ?」

 耳を済ませれば大勢の足音と、馬の嘶く声が聞こえてくる。

「一体……何が起きて……?」

 胸騒ぎを覚えたノアはそっと窓に近寄り、カーテンの隙間から外の様子を覗き見た。

「ノア! 出てくるな‼」

「逃げて、ノア‼ キャァァァ‼」

 今まで聞いたことのない父親の悲痛な叫び声と同時に、母親の悲鳴が聞こえてくる。

 ――これは、ただ事ではない……。

 恐怖を感じてサッと血の気が引き、全身がカタカタと震え出す。呼吸がどんどん浅くなり、足に根が生えてしまったかのように身動きがとれなくなってしまった。

 父親が言うように、きっと今の自分には危険が迫っているのだろう。本能的にそう感じた。そう頭ではわかっているのに、体が思うように動かない。どこかに隠れなきゃ——。そう思い息を殺しながら部屋の中を見渡した瞬間。

 大きな音をたてて、突然家の扉が開いたのだ。ビクンと全身が跳ね、心臓が止まりそうなほど驚いたノアは、恐怖のあまり腰が抜けそうになるのを必死に堪えた。

 ――誰かが家に入ってくる? ……父さんと母さんは……?

 必死に思いを巡らせても頭の中が真っ白になってしまい、考えなんてまとまるはずもなかった。ようやく動き出した足で、音をたてないようにそっと後ずさっていく。

 本能が警笛を鳴らし続けている。

 ――逃げなきゃ……。

「待て‼」

「ヒィッ‼」

 勝手口に向かい走り出そうとしたノアは一人の男に捕らえられ、いとも簡単に動きを封じ込まれてしまった。

「せっかく貴様に会いに来てやったというのに、逃げ出すとは随分と無礼な態度ではないか?」

「は、離せ……」

「ははっ。それは無理な願いというものだ」

 その筋骨隆々な男は、ノアの腕一本を掴んでいるだけなのに、まるで全身を縄で縛られてしまったかのように身動きをとることができない。

 激しく抵抗をして腕を振り払うことも、大声を出して助けを求めることさえできずに、ノアは目をギュッと瞑った。恐怖のあまり顔を上げることすらできない。奥歯を噛み締めて必死に恐怖と戦った。

「久しぶりだな? ノアよ」

「…………!」

「俺は新国王のイヴァンだ。久しぶりと言っているのだから、俺の方を向け」

「……嫌だ……」

「何度も言わせるな。こちらを向けと言っているのだ」

 ゾクッと背筋が凍るような冷たい声に、これ以上抵抗する気力さえも奪われてしまう。このまま抵抗を続ければ殺されるかもしれない……。

 強い恐怖を感じたノアが恐る恐る瞼を持ち上げ、顔を向けると、そこには見覚えのある男が立っていた。歯がカタカタと震えて言葉を発することのできないノアを、威圧的に睨みつけてくる。ノアはその視線から逃れるために黙ったまま再び頷いた。

「近くで見ると想像以上に可愛らしいな。見た目は気に入った。体の相性が良ければ城に住まわせて、妃に迎えてやらないこともない」

 男の大きな手が、ノアの顎を捕らえて強引に上を向かせる。視線を逸らそうとしても、そんなことが許されるはずなんてなかった。

「お前の花生みとしての能力が必要だ。今すぐ城に来て作物や花を育てるのだ。これは国王からの命令だ、背くことは許されない」

「な、なんで……?」

「前に会った時に、決して俺に歯向かうことは許されない、と言っただろう? だから、貴様は俺の命令に大人しく従えばいいのだ」

「……意味がわからねぇ。あんた何言ってんだよ? 俺はあんたの召使いにも、奴隷になった覚えもない……!」

「今すぐクレーア城に俺と共に行き、その抜きん出た花生みの能力で作物を育てるのだ。もう一度言う。これは王からの命令だ」

「命令……?」

「そうだ。貴様も知っているだろうが、この国はかつてない程の食糧難に陥っている。もはやこの村からの援助だけでは、補うことはできない程にな。もうすぐ城の作物も、底をついてしまうだろう。国民がいくら死のうが俺の知ったことではないが、我々王族が満足な食事をとれないことは、我慢ならない」

「な、何を言ってんだよ? あんた、めちゃくちゃだ……!」

「何を言う。当然のことだ。我々には貴様のその秀でた花生みとしての能力が必要なのだ。それなのに貴様の両親はお前を差し出すことを拒否した。生意気にも俺に歯向かってきた。だから殺した」

「……殺した……だって……っ⁉」

「そうだ。こんなにも優しい俺に向かって、貴様を城になどやったら『奴隷のように働かせられるに決まっている』と、ほざきやがった。俺は貴様を妃に迎えてもいいとまで言っているのにな? 馬鹿な両親だ」

「あんた、何言って……嘘だろ……!」

 父さんと母さんが殺された。その事実を飲み込む前に、ノアの世界から一瞬で音が消えた。新緑がそよ風に揺れる音も、家畜たちの鳴き声も。その代わりに、村人たちの苦しみ耐える呻き声が聞こえてくるようだった。

 どんなに奥歯を食いしばっても、全身の震えが止まらない。頭が貧血になったかのようにクラクラとして、少しでも気を抜くと意識を失ってしまいそうだ。

 そんなの嘘だ……そう思いたいが、先程聞こえてきた両親の悲鳴を思い出し、強い不安が押し寄せてくる。

 ――二人は、本当にこいつに殺されたのか?

 その言葉の意味を少しずつ理解していくうちに、どんどんと呼吸が速くなり、心臓が破裂しそうなくらい激しく拍動を打った。酸素を吸おうと一生懸命呼吸を繰り返すのに、息苦しさが消えることはない。意識が朦朧としてきて、滝のような汗が全身から流れ落ちた。それなのに、不思議と指先は凍えるように冷たい。

「どうだ? 俺の妃になるか? まぁ、貴様に拒否権などないがな」

 片頬を持ち上げ厭らしい笑みを浮かべる国王陛下を目の前に、ただ震えることしかできない自分が情けない。

「村の、人達は……? まさかあんた……っ!」

「あぁ、殺した。所詮、平平凡凡な花生みが何百人集まったところで、貴様の能力には到底及ばないだろう。だから殺した」

「……嘘だ。だって城に作物を授ける代わりに、この村には一切危害を加えないって……この村を守ってくれるっていう約束をしたんだろう……っ?」

「だからどうした? 俺はそんな約束をした覚えなどない。身に覚えのない約束を、俺が守る義理はないだろう?」

 その言葉を聞いた瞬間、ノアの中で張り詰めていた糸がプツン、と切れたのを感じた。まるで世界が、ガラガラと音をたてていく感覚に視界が真っ暗になる。

 全てが信じられなかった。あの優しかった両親と、小さい頃からずっと一緒だったみんなが殺された……。一体それをどう信じろというのだろうか?

「たかが……。たかが、俺一人の能力のために、そんな惨いことを……?」

「たかが、ではない。今のクルゼフ王国には、貴様の能力が必要だ」

「だからって……みんなを殺すなんて……」

「貴様が大人しく言うことを聞いて城へ来ると言うならば、貴様の命だけは助けてやる」

「……なんだと?」

「何度も言わせるな。俺には決して歯向かうな」

「…………⁉」

「大人しく城へと来い。あまり手こずらせるな」

 頭に血液が一気に集まり、髪の毛が逆立つ感覚に思わず身震いをした。これが武者震いというやつなのかと、ノアは頭の片隅で、そんなことを冷静に思う。

「城へ来るのか? 来ないのか? はっきりしろ」

「馬鹿が……行くわけないだろう?」

 イヴァンの片眉が、ぴくりと動く。

「国王に向かって『馬鹿』とは……気が強いところもなかなかに魅力的だ。だが、そちらがそう出るなら、こちらも好きにさせてもらう」

「は?」

 ノアは突然、イヴァンに抱き寄せられた。抵抗する間もなくイヴァンの腕の中に深く捕らえられる。それでも逃げ出そうと必死にもがけば、低い声で耳打ちされる。ノアは背中に悪寒が走るのを感じた。

「おい、貴様はタッピングの経験はあるのか?」

「……タッピング……?」

「そうだ、今日は特別に花食みである俺がタッピングをしてやろう」

 嫌な予感がする。何をされるのかわからないのに、ノアの身体中は、イヴァンを拒絶していた。

「い、嫌だ。やめてくれ……」

「ほう、その反応からして、貴様はタッピングの経験がなさそうだな。実に初々しくて可愛らしいではないか」

 目の前のイヴァンが艶っぽく微笑む。ノアは全身に力を籠めて抗った。

「ほら。キスをしてやるから目を閉じろ」

「嫌だ……嫌だ……」

「俺の体液はきっと美味いぞ?」

「嫌だぁ‼」

 ノアは勢いよくイヴァンの体を突き飛ばし、咄嗟に近くの果物が入っていた籠に手を伸ばす。そこには鋭い果物ナイフが入っていた。偶然にも今イヴァンの近くに護衛の者はいない。

 ――今がチャンスだ。

 果物ナイフを震える手で握り、「わぁぁぁ‼」と喉が張り裂けんばかりに叫びながら、そのナイフをイヴァンの首に突き立てようと勢いよく床を蹴った。

 ――許せない、こいつだけは‼

 ノアは無我夢中だった。突進してくるノアに向かいイヴァンが身構えた、その時……。

 腹部に鈍痛が走り、ノアは倒れ込んだ。

 ノアの口から短い悲鳴が零れ、苦い胃液が一気に口内に込み上げてくる。

「駄目だ、いけない……」

 ノアの耳元で誰かがそっと囁いた。

 ――……誰だ? 近くに誰もいなかったはずなのに……。 

 鈍い痛みと共に、意識が少しずつ遠退いていく。最後の力を振り絞り、自分に危害を加えた人物の顔を見ようと体を起こした。

「勝手に手を出すな」

「申し訳ございません。つい反射的に手が出てしまいました——」

 目が霞んでイヴァンと話す人物の顔を見ることはできなかった。

「父さん……母さん……」

 小さく呟いて、ノアは意識を手放す。最後の瞬間、瞼の裏に優しく微笑む両親の姿が浮かんだ。

「すまない、ノア」

「……え……?」

「すまない……」

 薄れゆく意識の中で、涙に揺れるような、小さな呟きを聞いたのだった。


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