ネコの福音(外伝)猫島激闘編
姿なき狩人
まえがき
***ある保護猫活動家と、テレパシーで会話するネコの物語***
前作、「ネコの福音」(第一部)電子書籍既刊の続編である(第二部)において、いよいよ「ジミン」狩りという人間同士の(悲劇的かつ)凄惨な戦いが本格化することとなる。しかし、その絶望的事態を記述する前に書いておかねばならないことがあるようだ。
本作を新約聖書に記載されている「使徒行伝」に因んで、《シト》行伝とすべきか思案したが、やはりこれは、善性の象徴的存在である《シト》の記録的行伝であるというよりも、《シト》はもちろんのこと、仁愛の象徴である〝シン〟、不道徳と邪悪の元凶となる「ジミン」、そして多くの人間たちと、なにより名もなきネコたちの物語として語り継いでもらいたいと思うことから、これを(外伝)――猫島激闘編――とした。本作は(第一部)と(第二部)の中間に位置する。
本作に登場するネコたちは、(第一部)においてメインであった内猫(人間と家の中で暮らす猫)ではない。とある「猫島」と呼ばれる場所で人間と共存?している外猫(屋外でしか生きられない猫)である。
ネコが(内猫、外猫を問わず)特殊な言語形式であるテレパシーを使うこと、また人間の種類が主に3種類であることなどは前作の【まえがき】で説明したのでここでは省略する。それらを予備知識としてもっていたほうが、この外伝をより楽しめることは言うまでもないだろう。
この作品は、「内猫のことばかり書いてんじゃねえ!」というある外猫のテレパシーを受信した筆者(イエネコのゴーストライター)によるものである。
いわば、外伝とは〝外(猫)伝〟のことなのだ。
本作(外伝)においては、ネコの福音(第二部)以降に壮絶な死闘を演じることとなる二つの重要な概念が、はじめて明かされることとなる。
その一つが【トリニティ】。
語源は、ヒンドゥー教の「三神一体」とされている。
人間界に過剰をもたらす秘密結社で、その目的は【人類の物理的な最適化】である。その活動原理は恐竜的非人間的な「暴力」と凶悪な独我論に依っている。
「ジミン」や「分裂教団」、また様々な反社をもその下部構造としているのだ。
もう一つが〖レニックス〗語源は、return phoenix の略である。
フェニックスには「死の排除」ということにおいて「無関心」や「怠惰」をもたらすバイアスが存在する。しかし、その言葉にリターンを冠することにより、その語意を〖魂への帰還〗に修正することとした。
世界に福音をもたらすために活動するこの組織の目的を言語化するならば、それは〖過剰なるものの相殺〗である。そのためには武力の行使を辞さない。
《シト》や〝シン〟、神道の源流となる宗派を組織化している他、全世
界に8名の代行者を置く。本編には、その代行者の一人、阿(あ)久(く)真(まこと)のみが登場する。他の代行者については次編以降に順次開示されることとなるだろう。
また、特に日本の読者の方に知っていただきたいこととしては、
〝ネコの福音〟の福音とは、一神教であるキリスト教において、神が人間に伝える〝良き知らせ〟という意味であること。この言葉を、万物に神が宿るという多神論的な日本の神(ネコに宿る神様)解釈に適用することで〝ネコの福音〟というタイトル表記になっているということだ。
つまり、これは、人間のみを尊しとする西洋的な唯一神的テーゼに対する日本からのアンチテーゼを意味するということである。
なお、日本各地に実在する「猫島」と呼称される場と、本作のそれとは何の関係もないことを誤解のないように断っておかねばならない。
この物語は、フィクション(リアルファンタジー)である。
ここから先は、前作(ネコの福音・第一部)において掲げた【まえがき】である。ごくわずかに修正している箇所もあるが、今回のストーリーを理解する上で
まだ読まれていない方は、ご一読いただければ幸いである。すでに読んでいる方は、とばしていただいてまったく差し支えない。
古代、人間が神の奴隷となっていた時代があった。その時代には、人間の命は「動物愛護法」のような動物一般の法で守られているに過ぎなかったのだ。
どういうことかと言うと、それは、人間の命を慈しみ保護するものではなかったということなのである。
ゆえに、その当時は人間が「器物損壊」程度の意識で神のために命を奪われ傷付けられることが日常茶飯事のように行われていたと推定される。
だが、「心は反省によって深化し、知恵は感覚によって退化し続ける」と云われるとおり、人間はやがて、人間のための法をつくり、かけがえのない《人間存在》としての命を守護する術(すべ)を獲得したのである。
考えてみればわかるとおり、われわれが誰かの死を悼(いた)み悲しむことができるのは、その命を動物一般の生命と認識する次元においてではない。
その命を、動物ではなく人間のものとして、さらに言うならわが愛する者の命として捉えるがゆえにこそ悼み悲しみあるいは途轍(とてつ)もない憤りを感じたり死にた
くなるほどの嘆きを覚えるのである。
今や人間は、人間のための法によって、その権利を獲得している。
思う存分、《人間存在》の命を尊重し、その命を奪う者に器物損壊以上の重罪を与えることができるほどになったのだ。
そういう意味では、人間の《人間存在》を獲得する神話はすでに終了していると言っても過言ではない。もはや、神は人間の支配者ではない。
同様に、人間はイエネコの支配者ではない。しかし、いまだ多くの人間は、イエネコを人間に服従させる存在としてしか捉えていないのである……。
この物語で、現実世界を映し出すアレゴリーとして登場するのは、存在の権利をまだ十分に獲得していないイエネコたち。そして、イエネコに存在する権利を与えようとする(つまりイエネコの法をこの世界にもたらそうとする)神の使徒とも呼び得る人間たちである。
この物語には、主に3種類の人間と2種類のイエネコが登場する。但し、イエネコとは人間との共存が約束された種族で、野生の猫族(ヤマネコ)を含まない。
【人間の種類】
① 「ジミン」
このジミンという意味は、自由と民主主義ということではなくて、ただ単に「自分のことしか考えていない人民」というぐらいのことである。
彼らは、神の奴隷から解放されて「人間存在」の地位を獲得しながら、自分のことしか考えない脳ミソしか持ち合わせていないので、嘆かわしくも他の人間と人間以外の様々な存在に多大な迷惑と害悪をもたらし続けている。
すべてのものに無限の愛を与える神とは異なり「ジミン」は限定的な愛を人間(と利害関係者)だけに与えようとするのである。
「ジミン」と化した者は、「偽我(ぎが)」や「餓鬼(がき)」などという名前だけで呼ばれる。
「ジミン」は、その恐竜並みの凶暴性ゆえ大概の場合、弱者の敵なのだが、稀に〝神の恵み〟となることがある。
② 〝シン〟
〝シン〟なる人間存在は、無償の愛によって他の人間と人間以外の存在にも〝福音〟を届けようとする。
〝福音〟とは、一定レベル以上のエネルギーの集合体であり、それを与える方はエネルギーを失う代わりに神の祝福を得、それを受けるほうは害悪に晒されたわが身がそのエネルギーによって治癒されることを知る。この〝福音〟のことを、人間の〝福音〟と云う。
〝シン〟は、神との関係が最も近い人間存在であり〝神の意志を継ぐ者〟とも呼ばれる。
〝シン〟は、坂本〝シン〟、高原〝シン〟など人間の姓の後に〝シン〟の名を(ミドルネームのように)冠して指示される。
〝シン〟の行動原理は、〝愛する者の保護〟の一点に因(よ)る。
③ 《シト》
《シト》は、「ジミン」への復讐を誓う人間存在である。
《人間存在》《イエネコ存在》《イヌ存在》などなど、この世界のすべての存在に「神」の奴隷としての身分ではない《独自存在》の地位を与えんがため《シト》の最終目的は、「人間によるそれぞれの存在のための法律」を、この宇宙につくり出すことなのだ。
《シト》は、全存在を個別に意味付け、守るための無限の法律を、この世界にもたらそうとしている。そのための「ジミン」への闘争は武力によるそれを辞さないのである。
《シト》たちは、
《シト》が、何ゆえに存在するのかは、「ジミン」や〝シン〟ほどには定かではない。
その人間の範疇を超えた意志においては〝シン〟よりも神に近い存在と考えられる。
〝シン〟と《シト》は、俗に言う求道者と呼ばれる者たちであり、その結果が必ずしも人類の救済に繋がるものばかりでないのは確かだ。
もちろん、この三種類以外の人間存在も登場する。
たとえば、内的、外的要因または先天的、後天的要因によって本来の目的を見失う人間存在などは「高原鉄心」「天神武志」などのように、そのままの氏名だけで表記される。
また、職業的習性によって物事を判断し自分自身が何のために生きているのかが曖昧な人間存在については、「巡査」「自治会長」「学生A」などのように職業によってのみ記されるのである。
【イエネコの種類】
① (人間から与えられた)姓名をもつイエネコ(内猫)
人間に保護され人間と共に暮らすことで、その飼い主の姓と個別の名をもつイエネコである。
坂本 ナル 坂本 カイ 石田 ジョニー などなど。
姓名をもつイエネコは、飼い主である人間を通して神の奴隷から解放されている。飼い主とはイエネコにとって、人間の世界でいうところの《育ての親》《良き羊飼い》に他ならない。
神の奴隷から解放された《イエネコ存在》には、人間を癒すために人間のマイナスのエネルギーを吸収するという捨て身の能力が備わっている。
この能力のことを、〝ネコの福音〟と云う。
イエネコは、この能力(sanatio)を使うことで、人間存在〝シン〟がエネルギーを与える無償の愛によって神の祝福を受けるように、その祝福を得られるのだ。
また、イエネコのコミュニケーションはテレパシー(不確定言語)によって行われる。
不確定言語は、人間の確定言語よりも理論上で一〇〇〇億倍の情報量をもつとされている。
この濃密で超越的な言語群の存在が、〝ネコの福音〟を可能とするエネルギー吸収というネコ特有の事象をもたらしているものと推測されているのだ。
ちなみに、内猫は内的テレパシーによって内猫同士で会話するのが通常だが、稀に、外的テレパシーをもつ内猫が外猫と交信することもあるようだ。
② (人間から与えられた姓名のない)名無しのイエネコ(外猫)
本作では、「野良猫」という表記は今後一切使用しない。
なぜなら、野良が(彼らにとっての)幸福の条件であるイエネコは、おそらく皆無と思われるからだ。人間を人権上の配慮から「野良人間」とは指示しないように、イエネコもまた「〇〇猫」と呼ぶべきではないのである。
外猫は、人間に見放され、人間を癒す能力(sanatio)を使うことも許されず神(人間)の奴隷として不遇な猫生を送る運命にあるイエネコたちである。
外猫は、イエネコが人間によってしか救われず人間がイエネコによってしか癒されないという神の計画が未達である証拠としての存在となっている。このイエネコの数が多いほど、その人間社会は未熟であり、猫にとっては呪わしいものとなっているのだ。
内猫と同様に、外猫は外的テレパシーによって外猫同士で会話するのが普通だが、稀に内的テレパシーをもつ外猫が内猫と交信することもある。
そして、人間を慕う外猫もまた、〝ネコの福音〟を人間にもたらすことがあると信じられている。
なお、この2種類以外のイエネコは存在せず、すべてのイエネコは、この2種類のいずれかであるか、もしくはこの2種類の混合形態に他ならない。
最後に、このストーリーすべてに共通する表記上のルールを説明しておく。
ストーリー上で説明される人間やネコは、基本的に、客観的な指示名称である氏名で表記されることが多いが、主観的な意味を込めた「種類」表記を使うこともある。それは、その存在の主観性をストーリーの中で際立たせる効果を生むためであり他に特別な意図はない。
また、当事者の「セリフ」という純主観的な行為については、その出所を特定するために「種類」表記を原則としているので、そこで氏名表記がされている場合は、それは先に説明したような意味で、「種類」としての氏名と考えていただきたい。
そして、なにより重要なことは、この「種類」は固定的なものではなく、流動する概念であるということである。
ここに書き記すストーリーが、かつて神の奴隷であった生き物(人間)が、《人間存在》という身分を獲得し解放されたように、(法律の建付けにより)いまだに単なる生き物としてしか意味付けられず認識されていない多くの(イエネコ)たちが、《イエネコ存在》を獲得するまでの現代からはじまる新たな神話となることを願う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます