カラメルチヨコ
桜井桜
第1話
リストラ。
三十路の男に起きうる悲劇。
俺は今日、それにエンカウントした。
俺がリストラされなければ結局誰かがそうなるのだと、言い聞かせてる。
だが詰まる所、一番使えない人間の排除が行われたにすぎない訳だ。
戦力外通告。社会の役立たず。
こういう時に一度実家に帰るなんてのは男のすることじゃ無いし、ああ言って出ていってしまったからには戻ることなんて出来ない。
ガタンゴトン。
列車の窓に映る景色は都会のビル群ほどではないが、高いマンションが点々とあり、空気は少し汚く、遠くに青い山が見える。
こんな景色も最後になるのだろう。
お互いいい年齢だったが、女性は特に早く見切りをつけてあげなければならないと男として思う。
彼女には今日、直接会って別れを告げなければならないと思っていたが、そんな心配も要らなかったようだ。
『結婚を前提に』なんてカッコつけたところで、所得のない男に未来を見出す女性もいないんだろう。
リストラにあった旨をメールで伝えた途端に別れ話。話が早い。
向こうのほうから丁重な別れのメールがたった今届いたからだ。
しかし俺は、いつのまにか男としてしてはいけないことをしてしまっていた。
大粒の涙をこぼしてしまったのだ。
『俺…なんで泣いてんだろ』
じんわりと涙腺が熱くなり、滴り落ちてしまう。
だらしなく鼻水も出てるのだろう。
俺はスーツの汚れなんて気にすることもなく、全力で袖で顔を拭いた。
鼻を啜る音は次第と大きくなり、悲しみや悔しさが押し込めてくる。
悔しい。悔しくてたまらない。社会の役立たず。
女の一人も幸せにできない愚かな人間だ。
その悔しさに心を沈めていた時。
ツンツン。
俺のスーツをつまみ、引っ張る手があった。
『お兄さんっ』
その手は透き通るような手で、若さがすぐにわかる。
パッと前を見て手の持ち主を確認した。
背後からかけられたその声に振り向くと、そこには制服を着た女性が立っている。
二つのお団子結びの髪に大きなリボンを携えており、ぱっちりした目は宝石の様に美しい。
女子高生…よりも少し大人びた様な雰囲気だが、確かにセーラー服を着ているな。
しかしどこの高校だかは知らない。
『お兄さんのお話、聞かせてくれませんか?』
グッと身を寄せてくる少女に、ドキッと心臓が跳ねる。
何が起きてるのかさっぱり分からず、頭が真っ白になる。
年下の趣味は無くはないが、ここまで年の差があるなら話は違う。
それに完全に男を
トキメキこそはあれど俺もいい大人。
ハニートラップや美人局の類には引っかからない。
大体リストラ上がりの三十代から巻き上げれるものじゃない。
その怪しさは、肌の若さに対して不自然なほど大人びた態度からくるものだった。
『お、お嬢さんと遊んでいる暇はないかな。ごめんね』
俺はその少女を相手にしないように帰りたかった。
『普通こんなに可愛い女の子に声をかけられたら、ホイホイついてくるんだけどなぁ。
それか、お兄さんが誠実な人なのかな?』
話し言葉がやけに大人びており、恐ろしくなった俺は、その言葉に再び振り返り、覗き込んでしまった。
彼女の瞳の奥にあるドス黒くて暖かい、石油のような何かを。
見かけにある子供らしさや緊張感がまるでない。
生きていることに慣れている。そんな感じだ。
『せ、誠実?』
思わず聞き返してしまったが、その子はクリクリの目を二回瞬きをして、こちらの目を真っ直ぐと見つめる。
人生でここまで女性と目が合った事があるだろうか。
斜め下に視線を落として回避してしまう。
『自分に自信がないんですね』
そういうと、また一歩近づいてくる。
しかし何故か、狭い電車の中で彼女の行動を怪しむものはいない。
『女の子はね、自信がない男の子が嫌いなんだよ?私以外はね?』
『ど、どぉ…』
言葉に詰まってしまう情けない俺に、彼女は気まずい時間を作るいとまも与えず、こう言った。
『何処かでお茶でもしませんか?勿論、誘った人の持ちですよ』
ゴクリ。
今までこんな大きな音を立てて唾を飲んだ事はない。
握られた手はスベスベで若いはずなのに、どこかシワシワのお婆さんの手を握っているように、ほんのり暖かい。
俺は今、この少女に何か希望を見ている。
この少女が俺を飲み込んで、いや、包み込んで?
俺の話を聞いてくれるのかもしれない。
プシュー…
電車のドアが開いた。
家から最寄りの駅ではない。
『ドアが閉まります。ご注意下さい』
しかし俺は、そんな途中の駅で降りてしまった。
さっきまで情けなく泣いていた俺の周りを、ぐるぐると子供の様に回る女の子。
『私の名はチヨコ。古い名だけど、チヨコって言うんだ』
俺には分かっている。
この笑顔が嘘だろうとなんだろうと、それでも俺はどうにでもなれと思っていた。
精神の限界で見えてしまった幻覚とも思える。
だがしかし、そこに存在する少女に、母性を知らない俺はこの少女に――いや、この人に。
あろう事か、母を求めてしまったのだ。
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