あの事件から1ヶ月が経ったが、いまだに玲衣は、フラッシュバックであの日の体験がよみがえることがある。


少しずつその頻度は減ってきたが、そんな時には僕や母さんが必死になだめてきた。


夢にうなされることもしばしばあり、一晩中、玲衣の手を握りしめながら、そのまま疲れて眠ってしまうこともあった。


 "正直、しんどい...…"


そう思う日もあった。


でも、一番つらいのは、あの日のことを忘れられない玲衣のほうだ。


ひどい状態の玲衣を見ていられなくて、元気になるまではずっとそばにいるつもりでいた。


しかし、僕まで精神的に参りそうな状態を間近で見ていた母さんがさすがに心配する。



 『悠人まで長く休んでしまったら学校の人たちに不審に思われるでしょ。しばらく仕事が落ち着いたから、私が玲衣のそばにいられるし…...悠人はもう学校に行きなさい。』



結局、玲衣のことになると必死になりすぎる僕を見かねた母さんによってかなり説得され、事件から4日後には学校へ行った。


その選択は、結果的に正しかったと思っている。


学校で妙な噂を聞くこともなかったし、玲衣のクラスでは長期入院をしていることになっていて、それを疑問に思う人もいなかった。


そう、あの日までは——— 。



- - - - -


【女子高生暴行事件】

4月15日に横浜市の渚公園付近で高校二年生の女子生徒が30代の男性から暴力を受けているところを警察官が発見し———......


- - - - -



地元紙でとても小さな記事が出たのだ。


そこからは、目まぐるしく悪い方向に周りの環境が変わった。


なんの威力もなさそうなその小さな記事のせいで、僕たちの生活は一変した。


近所の人たちは好奇の目で僕たちを見られ、玲衣と僕が通っている学園の生徒たちからは、同情したような眼差しで見られた。



 『優秀で美人なのに、本当にかわいそう。』



 『あんなに恵まれたご家庭の子なのに、気の毒ねぇ。』



 『大人しいと思ってたけど、あの外見だから、もしかしたらわざと誘惑したんじゃない?』



 『綺麗に生まれると苦労するのね。』



才色兼備の玲衣を哀れみ、まるで悲劇のヒロインのように仕立て上げる人もいれば、頼んでもいない同情心で玲衣を傷つける人もいた。


玲衣は何も悪いことをしていないのに、ただ目立つ容姿をしているというだけで、妬みを含んだ心ない言葉をかけられることもあった。


玲衣の心と身体が落ち着き、安心して生活できるようになったら、また元の生活に戻れると思っていたのに、実際にはまったく違う。


僕たち家族の想像はとても浅はかだったのだ。


あの事件が起きた4月15日、その日が地獄の底だと思っていた。


しかし、"第二の暴力被害"というのは実際に存在し、僕たち家族にとっての苦しみは加速していった。


本当の地獄はここから始まったのだ。




*****




 "眩しい...…"


ゆっくりと目を開けると、先ほどまで曇っていたはずの空には夕焼けが広がっていた。


珍しく、今さっきまで見ていた夢を鮮明に覚えている。


ずいぶん懐かしい夢を見ていた。


 "いや…...僕にとってはトラウマか"


懐かしいというのは、きっと乗り越えた人が昔を思い出すときに使う言葉だ。


僕にはまだ使う資格がない。


すぐに考えを改め、胸中でわざわざ"トラウマ"と言い直した。


僕の中ではまだ何も終わっていないからだ。


玲衣を含むことも許されるのならば、僕たちはまだ始まってもいない。


始まってはいないけれど、それでいいと思っている。


15歳の無力だったあのころから15年が経った今でも最愛の人を忘れることができないのは、きっとあのころの罪をまだ償っている途中なのかもしれない。


そう考えると意外にも腑に落ちて、すべてを受け入れられるようになった。


 "最後に会ったのは5年前…...だったか?"


玲衣が結婚の報告をしに日本に帰ってきたときだから、もうそのぐらいになるだろう。


 "あの結婚相手の男、10歳上だとか言ってたな"


ずっと先の話になるだろうが、順当にいけば、玲衣よりも先にその男がこの世からいなくなるだろう。


そうしたら、必ず玲衣に会いに行くんだ。


死ぬまでにもう一度会えたら、それでいい。


そのときも、たった一言話せたらじゅうぶんだと思っている。


"ずっと好きだった"って伝えよう。


玲衣に出逢ってからの26年と、まだこの先何十年も積み重ねるであろうこの想いを、全部伝えられたらそれでいい。


今さらだって怒られるだろうか。


 "それとも笑って許してくれる?"


何十年もたったら、すべての罪が時効だと、神様もきっと許してくれるだろう。


会える日を想像するだけで楽しくなる僕は、実はこの世にいる誰よりも幸せなんじゃないかと最近思うようになった。


玲衣という存在に出逢えたことで、きっと人生のすべての幸運を使い切ってしまったのだ。


だから、長いあいだ会えないのは仕方がないことなのだろう。


人生の道理とは、そういうものなのではないか。


テーブルから身体を起こし、目の前のグラスを見る。


すでに氷が溶けてしまい、アイスコーヒーと氷の水がきれいに分離した状態になっていた。


 "まるで僕たちだな"


黒い僕と、透明な玲衣。


玲衣への深くて重いこの気持ちが、漆黒のアイスコーヒーによく似ている。


何にも染まっていない無色透明の玲衣に、たくさんひどいことをした。


それでもなお黒色に混ざらない玲衣は、まさにこの透明な氷水と同じだと思った。


そんなどうでもいいことを考えていると、ポケットに入れているスマートフォンが振動し始める。


画面を見ると"母さん"と表示されていた。


時計を見ると午後5時を過ぎていて、5年ぶりの帰国にしては少々寄り道をしすぎたことに反省しつつ、画面をスライドする。



 「もしもし。」



 「もしもし?悠人?ちょっといつ帰ってくるの?朝に日本に着くって言ってなかった?」



すごい勢いで話す母に懐かしさを感じて、思わず笑ってしまう。



 「なに笑ってるのよ。心配してるのよ?」



 「…...悪い。ちょっと急ぎの仕事を済ませてた。」



 「今どこなの?迎えにいくわよ。」



母からしたら、僕はずっと幼いころのままなのだろう。



 「心配してくれるのは嬉しいけど、もう30歳なんで自分で帰れますよ。」



 「じゃあ早く帰ってきなさい。」



 「はいはい、分かりました。7時までには着くから。」



そのあともぶつぶつ文句を言われたけれど、この歳になるとそれすらありがたいと思う。


心配してくれる人がいるのは素直に嬉しい。


それにしても、母の声と玲衣の声はそっくりだ。


もう何年も話していない愛おしい人の声を思い出しながら、僕は残りのアイスコーヒーを飲み干した。



 「あの…...羽瀬悠人さん…...ですよね?」



声をかけられたほうに視線を動かすと、2人の若い女性が立っていた。


学生だろうか。


かなり若いように見受けられる。



 「…...はい。」



僕がそう返事したのと同時に、2人は小さく盛り上がっている。


たとえ若い女性でも、さすがに初対面の人に急に名指しで声をかけられるのはいい気分がしない。


なんなら少し怖いとさえ感じる。



 「アメリカのMINUTES誌に掲載されてましたよね?世界に影響を与える若者っていう記事で。」



 "MINUTES誌?…...あぁ"


掲載されたのはもうずいぶん前のことだから、僕自身も忘れていた。



 「…...あぁ。うん。」



 「やっぱり!一時期すっごくニュースになったんですよ。」



ロンドンに住んでいると、優秀な人なんてごまんといるし、僕はまだ自分の研究で何ひとつ成果を出せていない若輩者だ。


雑誌に載ったぐらいで騒ぐ人はいない。


もちろん、日本でニュースになっていたことなんて僕が知る由もないし、今初めて聞いたことだ。



 「そうなんだ。」



 「あの…...サインもらえますか?」



芸能人でもあるまいし、サインなんて持っているわけがないだろう。


無意識に声が大きくなる学生たちのせいで、静かだったカフェが少しだけ騒がしくなった気がした。



 「芸能人じゃないし、サインとかないよ。」



アイスコーヒーも飲み終わったし、早くこの場を切り上げたい。



 「…...じゃ、じゃあ握手は?」


腕をまっすぐに差し出してきた学生の手を見て、あのころよく引き寄せた玲衣の手を思い出す。


 "…...こんなときまで玲衣かよ"


この期に及んで考えてしまうのは、結局玲衣のことで、それ以外の手は僕にとってなんの価値もなく、興味もない。



 「ごめん。好きな子いるんだ。その子以外には触れたくない。」



きゃーっと騒ぐ目の前の子たちは顔を真っ赤にして喜んでいる。


 "玲衣もこれぐらい反応してくれたらな"


天邪鬼で決して騒がない玲衣の態度は、残念なことに僕に対しても同じで、ちょっかいを出しても毎回顔を赤くするほどだった。


 "まぁ、それがかわいかったんだけど"


顔を隠す玲衣を思い出して、思わず口角が上がってしまう。



 「とにかく、もう行くね。」



 「あの!!それは…...彼女さんですか?」



まさに興奮冷めやらぬ状態の学生は涙目になりながら、容赦なく必死に問い詰めてくる。


怖いもの知らずで、その場の勢いだけでものすごく押されている気がして、驚きを隠せない。


考えてみると、若いころは僕もこうだったのかもしれない。


 "だから玲衣に夢中で迫ることができたんだな"


記憶を辿って思わず笑ってしまう。


一瞬考えたが、その度胸と若さに免じてきちんと答えることにした。



 「…...彼女じゃないよ。」



だけど、すぐに関係が切れるような他人でもない。


血の繋がりはないけれど姉弟で、どんなに願ってもその事実を変えることはできない。


5年も会っていないけれど、毎日頭から離れない。



 「でも……すごく好きなんだ。」



僕と玲衣の関係はいったいなんだろう。


それを明確な言葉で言い表せたら、もっと踏み込んだ関係になれたんだろうか。


"僕たちはこういう関係だ"と胸を張って言えたなら、今でも隣にいてくれただろうか。



 「昔も今も…...これからも、決して一緒にいることはできないけど。」



ぜひ、目の前の学生に問いかけたい。



 「こういう関係をなんていうのか、君たちは知ってる?」



 「え…...不倫…...とか?」



 「残念。不倫だったらもうとっくに奪ってるよ。」



また騒ぎ出した学生たちに、これ以上、答えを求めても仕方がないだろう。



 「じゃあ、もう行くね。」



空のグラスを手に取り、明らかに騒がしくなってきた店内を足早に立ち去ることにした。



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