18時50分過ぎに映画館に着いた。


映画館のあるモールは、いつも以上に学生たちで混み合っている。


 "今日は金曜日か"


やっぱり、一緒に来ればよかったと思った。


中高一貫の有名な進学校に通う僕たちは、校則が厳しいこともあって、玲衣は決して派手な格好をしない。


制服も絶対に着崩したりはしない。


それにもかかわらず、玲衣はどこにいても目立つ。


ただそこに立っているだけで、美しいからだ。


今日だって、きっと知らない男に声くらいかけられているだろう。


考えるだけで気分が悪くなり、2時間前に映画の約束を守らなかった自分を呪い始める。


後悔し始めると、止まらなくなる。


 "早く出てきて…...玲衣"


映画でも買い物でも、次は絶対に一緒に行くと誓い、そわそわする気持ちを必死に押さえ込む。


自分勝手な苛立ちに、心底うんざりする。



 『ねぇ、悠人。最近、私のこと避けてない?なんか、すごく感じ悪いんだけど。』



この前、玲衣に言われたときのことを思い出す。


めったに勘なんて働かない玲衣が、急にそんなことを言い出したから、僕は核心を突かれた気がして、ドキッとした。



 『別にそんなことないけど。』



 『ほんとに?絶対そうだと思ったんだけどな。クリスマスぐらいから全然話してくれないんだもん。反抗期かと思ったよ。』



そう言って、玲衣ははにかむように笑った。


女の勘は鋭いなんていうけれど、まさか玲衣にも当てはまるなんて。


だったら、僕の気持ちにも少しぐらい気づいてほしい。


 "…...気づいて、困ればいいのに"


心の中でそう嘆いたのを覚えている。


玲衣の言う通り、去年のクリスマスを過ぎたころから、僕は彼女を避けていた。


去年のクリスマス・イヴは平日だった。


僕はすでに冬休みに入っていたけれど、玲衣は部活で夕方まで帰ってこない。


もちろん両親は仕事でいないから、今年も玲衣と二人でお祝いする予定だった。


料理が得意な玲衣は料理担当で、僕は部屋の飾り付けとケーキ担当だ———と言っても、ケーキは母さんが予約してくれていたものを取りに行くだけである。


母さんは出版社で女性誌を担当していてスイーツにも詳しいから、毎年有名店のケーキを用意してくれる。


いつも違う店で、場所もバラバラだから、ケーキの引き取りは正直面倒だ。


それでも僕が担当を引き受けるのは、ケーキの箱を開けたときの玲衣の顔が、最高にかわいいからだった。


準備を始めたところで、「部活終わった!帰るね!」と玲衣からメッセージが届く。


時計を見ると、まだ15時過ぎで、思っていたよりもかなり早い時間だった。


途中だった飾り付けを中断し、僕も急いで出かける準備をする。


「了解! 今からケーキ取ってくる」と返信して、すぐに家を出た。


電車で10分ほどのケーキ屋までは、それほど時間がかからなかった。


玲衣はもう家に着いているだろうか。


誰にも言えない想いを抱えながらも、玲衣と過ごすクリスマス・イヴに、少なからず胸が高鳴っていた。


駅に着いて足早に帰路を急いでいると、あと3分で家に着くという場所で、見慣れた背中が目に入った。


声をかけようとした瞬間、玲衣の隣に男がいるのが見えた。


玲衣よりもさらに背の高い男。


動悸がする胸を必死に押さえて、2人に気づかれないよう距離を取って歩く。


家のすぐ近くの角を曲がるところで、男は笑顔で玲衣に荷物を渡した。


玲衣が買ってきた夕食の材料だろうか。


2人は軽く言葉を交わし、別れ際、その男は玲衣の頭をやさしく撫でた。


一瞬にして、頭に血が上る。


すれ違いざま、男と目が合った。


玲衣とほぼ同じくらいの身長の僕は、その男よりももちろん背が低い。


軽く会釈をされたが、僕はその視線をすぐに外し、足早に家へと向かった。



 『おかえり。』



何も知らない玲衣が、にこやかに僕を迎える。



 『ただいま。』



今すぐに抱きしめて、僕のものにしたい。


けれどそんな想いを堪えて、平然を装う。



 『さっき一緒にいた人、誰?』



玲衣は驚いたように、真っ赤な顔をこちらに向けた。


 "…...なんだよ、その反応"


恥ずかしそうに笑う玲衣に、心臓の鼓動が速くなる。


 "なんで、そんな顔をするんだよ"



 『悠人、見てたの?』



そう言って、嬉しそうに微笑む。


 "…嫌だ、聞きたくない"



 『実はね......』



 "それ以上、何も言うな"



 『あの人と付き合ってるの。』



頭の中が真っ白になる。


聞きたくなかった。


他の男とのことなんて、何一つ知りたくなかった。


 『パパとママにはまだ言わないで。絶対心配するから。』



 "…...やめろ"


こんなに玲衣が好きなのに、なぜ僕じゃない。


どうして、“弟”なんだ。


もう、耐えられないと思った。


その後、僕が玲衣になんて返したのか、どうやってあの日を過ごしたのか、何も思い出せない。


二度と、思い出したくもない。


それから、僕は玲衣を避けるようになった。


眉間を指でつまんで、嫌な記憶を押しやる。


時計を見ると、もう19時半を回っていた。


 "…...おかしい"


どれだけ長くても、玲衣が観ていた映画は終わっているはずだ。


でも、映画館の出入り口はここだけ。


 "考え事をしていて見逃した?"


いや、僕が玲衣を見逃すはずがない。


玲衣だって、僕を見つけられないはずがない。


映画の約束を破ったとき、玲衣は電話越しにかなり怒っていた。


 "連絡を無視して先に帰ったのか?"


嫌な考えがよぎる。


3時間前に送った「雨だから迎えに行く」というメッセージには、まだ既読がついていなかった。


 "やっぱり、まだ怒ってるのか?"


でも玲衣は、僕と違って気が長い。


感情のコントロールもできる人だ。


それに、雨の中、傘もささず怒り任せに帰るような子じゃない。


胸がつかえるような、嫌な予感がする。


とにかく、玲衣に電話をかける。


プルルルプルルル…...


着信音だけが、耳元で空しく響く。


プルルルプルルル…...


 "…...玲衣、どうした?"


出てくれない電話に、これほど不安を感じたことはない。


 "ただ怒ってるだけだよな?"


プルルルプルルル…...


怒っていてもなんでもいい。


嫌な予感だけは当たらないでくれと、心の中で必死に祈る。


プルルルプルルル…...


 "…...玲衣!!"


プルルルプルルルプルルル…...



 「…...っ。」



やっと通話中になったスマートフォンの向こうから、ザーッという雨音にかき消されそうな、かすかな声が聞こえた気がした。



 「もしもし? 玲衣?」



その直後、小さなすすり泣きが聞こえてきた。


居ても立ってもいられず、映画館の中を走り抜け、エスカレーターを速足で駆け下りる。



 「……悠…人…...」



 「玲衣、どうした? 今どこ?」



弱々しい玲衣の声に、どんどん血の気が引いていく。



 「悠人……たすけて……」



玲衣のかすれた声の向こうから、かすかにサイレンの音が聞こえた。


何かが———決定的に、狂っている。



 「……助けてよ……お願い……」



今日、玲衣との約束を断ったのは、身勝手な想いをこれ以上大きくしたくなかったから。


たった、それだけの理由のはずだった。


それなのに———



 「……早く来て……っ……」



僕はこの日を、一生後悔することになる。



 「玲衣……ごめんっ……僕、なんてことを……」



僕は———なんて愚かなことをしてしまったんだろう。



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