遺伝子化学的には他人でしょ?
櫂悠里
脳裏に漂う残響
真夏の夕暮れどき、久しぶりの帰国で懐かしくなって立ち寄ったカフェの窓側の席から、何気なく外の景色を見渡す。
都会には似合わない、けれど曇った空にはかなり映える夕顔がふと視界に入った。
それと同時にあのころの記憶が蘇る。
『悠人……たすけて……』
消したくても消せない最悪な思い出が、もう何年もたったはずなのに、今でもしつこく僕にまとわりつく。
あの日、僕が約束を守っていれば、玲衣は今でも隣にいてくれただろうか。
眉間にしわを寄せながら、氷が溶け始めたアイスコーヒーを一口飲んだ。
僕にはずっと欲しいものがあった。
物理的には一番近く、しかし恋をするには最も遠い、そして愛を語るにはずいぶんと脆い存在。
どうしようもなく愛おしいその人を、僕はまっすぐに受け入れることができなかった。
重いものを背負うには幼すぎた僕は、守ることも奪うことも、信じ切ることもできなかった。
"それでも君を手に入れたい"
そんな傍若無人な振る舞いだけは一人前だったという自覚はある。
だけど、僕にとって玲衣は唯一無二の存在だったのだ。
好きだった。
歳を重ねた今でも本気の恋ができないくらいには。
どうしようもなく愛していた。
『大丈夫。僕がそばにいる。』
あの日、震えた指で玲衣の手を強く握った感触が今もまだ消えない。
とんでもなく頼りなかっただろう僕の震える指に、力強くしがみついていた玲衣のほうが、実は僕を励ましてくれていたのではないか。
自分のほうが怖いはずなのに、ひとつ歳下の僕のことを必死に慰めようとしてくれたのではないか。
今となってはその答え合わせすらできないという事実が、現在の僕の心を締め付ける。
"玲衣......今、幸せ?"
どこまでも自分勝手な僕は、やっぱり今でも君のことが一番知りたい事柄なのだ。
君以外のことは、僕の人生ではさほど重要ではないとさえ思う。
僕たちは、血の繋がりがある姉弟ではない。
けれども物心がついたころから同じ家に住んでいて、同じ名字を使っていることは紛れもない事実だ。
だからずっと知りたかった。
"姉弟愛ってどんな愛?"
誰かに普通を教えてほしかった。
『……悠人……悲しいの……?』
一番最後の記憶の中の玲衣が僕にそう言ったことを思い出す。
"悲しいよ"
もう一度聞かれたとしたら、今度こそ僕はそう答えるだろう。
悲しいと答えたら、優しい君は僕から絶対に離れていかない。
愚かな考えに脳裏を埋め尽くされたところで、今もなお、玲衣に執着していることを嫌でも思い知らされる。
結局、玲衣から離れられないのは、いつだって僕のほうなのだ。
自分の愚かさに笑ってしまう。
開き直って玲衣への気持ちが現在進行形であると認めてしまうと、案外すっきりするものだと知った。
玲衣の幸せを願うほど、立派な大人にはなれていない。
ずっとあのころのまま、この気持ちは一生色褪せてくれることはないのだ。
何年も心臓の奥底に仕舞い込んだ黒い感情は、懐かしい景色とともにいとも簡単に溢れ出してくる。
"…...しんどいな"
自分をコントロールできなくなるのは、いつだって玲衣のせいである。
心臓のさらに奥、脾臓まで無理やり気持ちを押し込めるように、カフェのテーブルに伏せた。
静かに目を閉じると、時差という体内時計の狂いにより、意外にも速やかに意識がぼんやりしていく。
あっという間に現実との境界が曖昧になった僕は、まだ幼かった遠い日の夢を見た。
*****
4月初旬の夕方、家の窓から外を見ながら僕はため息をついた。
日が出ているうちはもうすでに暖かい季節になったが、この時間はまだまだ肌寒い。
雲行きも怪しく、まもなく雨が降り出しそうだ。
"どっちにしろ迎えに行かなければならないか"
そんなことを無意識に考えた自分に苦笑いする。
あいつが僕の一番近くにいるのが当たり前になってから、もう何年になるだろう。
記憶がまだ曖昧なころからずっと一緒にいる。
その当たり前が苦しくて窮屈で、この関係を憎いと思うようになったのはいつからだろうか。
こんな気持ちは早く消してしまいたい。
もうずいぶん前からつらくて死にそうなのに、玲衣は容赦なく毎日僕の視界に入ってくる。
思春期の僕にとっては拷問といっても過言ではない。
ソファに寝転がりながら天井を見つめていると、ポケットの中でスマートフォンが震え出した。
もう一度、大きなため息が出る。
画面を見なくても誰からの着信かわかってしまうこの以心伝心は、幼いころから培われた無駄な絆だろうか。
思ったとおり、画面を見ても"玲衣"と表示されていた。
"ご名答"
僕は勝手に心の中で答え合わせをし、画面に沿って指をスライドさせる。
「はい。」
「あ、やっと出た。今どこ?着くの何時ぐらいになりそう?」
「忘れてた。今日はやめとく。」
「はぁ?また?ほんと信じられない。もういいよ。1人で見るから。」
玲衣はそう言い放ち、一方的に電話を切った。
僕は切られたスマートフォンの画面を見つめる。
窓から見える空に視線をやると、ポツポツと雨が降ってきた。
今日何度目かももう分からないため息がまた出てしまう。
"やっぱり迎えに行く必要がありそうだ"
あの玲衣が傘なんて持っているわけがない。
2人の時間を減らすために映画を断ったのに、結局自分から会いに行くことになるのだ。
ちなみに僕が玲衣との約束を忘れたことは、ただの一度もない。
僕にとって玲衣のことが最優先事項で、それ以外のことは正直どうでも良いとさえ思っている。
今回忘れたふりをしたのは言うまでもなく、これ以上自分の気持ちを隠せなくなってきたからだ。
あいつはそんな僕の気持ちなんて、これっぽっちも気づいていないだろう。
きれいな顔立ちの玲衣が怒っている様子を思い浮かべ、思わず口元が緩んだ。
今日は、玲衣が以前から公開を楽しみにしていた推理ものの映画を一緒に見る約束をしていたのだ。
『推理と恋愛が一緒になってる映画なんて最高じゃない?楽しみだな〜。』
そう言っていた玲衣の顔を思い出す。
"やっぱり行けば良かったな"
これ以上自分の気持ちを大きくしないために行かなかったなんて、あまりにも大人げない。
それに、行っても行かなくても僕の脳内はすでに玲衣で埋め尽くされているのは事実である。
"雨だし…...やっぱり迎えに行くか"
結局迎えに行くくせに、迎えに行くための口実をあれこれ探す自分が哀れで笑ってしまう。
しかし、いつだって僕の世界の中心は玲衣なのだから仕方がないだろう。
仕方がないついでに、帰りに甘いものを買って帰れば、玲衣の機嫌はあっという間に直るに違いない。
玲衣の笑った顔を思い浮かべて少しだけ心を軽くした。
時計を見ると16時50分を過ぎたところだ。
スマートフォンで調べた映画の時間と照らし合わせる。
"17時からか"
すぐにメールの画面を開いて「雨だから迎えに行く」と短いメッセージを玲衣に送り、いったん眠ることにした。
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