第2話 私の誤聴に関する(気分)落とし話

 目の前に座る少女、春咲れんげは唇を軽く内側に巻き込んで「んん」と思案の声を漏らしている。かぎ針みたいに曲げられた右手、人差し指の第二間接がその唇の上に添えられていた。れんげちゃんの癖だよなぁ、と思いながらなんとなくそれを見つめる。大学の写真サークルで春咲れんげと知り合ってから数ヶ月、佐藤翼さとうつばさは未だ全く彼女のことが理解できていなかった。仕草の癖は分かっても、肝心の人柄が分からない。

 れんげちゃんは不思議だ。何というか、今まで会ったことがないタイプの人。今だって彼女は、思案してはスマホの画面をスクロールし、そうやって動かした人差し指をまた唇に添えて考え込んでいる。

 もしもこれが2人で遊びに行ってるとかなら、スマホを弄るのは失礼に値する行為だろう。まぁ、よっぽど仲が良いなら話は別だけど。ただ今はそんなこと気にしない。大学のラウンジで合流後、お互いの課題やオンデマンド授業の消化に勤しむこと1時間。佐藤翼も春咲れんげも、空いた授業の隙間を埋めたいと思っていた昼だった。別に相手が何をしようが気にしない、そんなぬるさが心地よい時間だった。

 とはいえ、だよね。


「れんげちゃん、さっきから何してるの?」


 長く続いた無干渉を破ったのは、れんげちゃんがすごく上機嫌に見えたから。あと、流石に判例を見るのにも飽きてきたっていうのも追加。


「うーん?ちょっとね、文章を書いてみたんだ」

「へえ、」


 文章。


 たぶん大学のレポートとかコメントペーパーじゃないんだろうなぁ、ということは分かる。れんげちゃんという人は読書家で、日常会話でも表現に秀でていて、何より自分の言葉に妥協しない。春咲れんげなら書いてそう、って素直に思う。物語なのかエッセイなのか日記なのかは知らないけど。というか、普通に面白そうだし気になる。でもそれって、


「見てもいいやつ?」


 思わず投げかけた後、自分でも驚いた。


 れんげちゃんはそのまま、じいぃっとこちらを穴が開くように見つめる。彼女の三白眼、浮いたふたつの黒目は妙に存在感があって思わず目を逸らしたくなってしまうから困った。れんげちゃんは何度か瞬きをした後、いきなりニコッと笑って声を弾ませる。


「うん!佐藤ちゃんにならいいよ」


 やっぱり。誰でもいいわけじゃなかったんだ。理解した瞬間、少し寒気がした。今度からは気をつけよ。

 れんげちゃんは真っ直ぐに腕を伸ばしてこちらにスマホの画面を見せる。躊躇いも羞恥心もない。ちょっとは心、許してくれてるんだろうかとか考えた。それとも自分の文章に自信があるだけ?あるいは、佐藤翼にはどう思われても構わないと切り捨てられているだけかも。と、すぐにそのスマホが引っ込められる。


「やっぱり送るよ。ちょっと長いし、だいぶ影響されてたせいで、わざと古風な文体にしてあるんだけどね。ここ最近の私の随想です。読んでも読まなくてもいいよ」


 一方的にそう言われて、送られてきたのは3枚の写真だった。メモアプリに書き連ねたものをスクショしたんだろう。れんげちゃんはブラックモード派らしく、白文字が浮かび上がるように整然と画面上に並んでいた。結構な文量だ。ずいそう、ってすぐに漢字変換できなかった。随想。エッセイみたいな感じかな。


「ありがとう、読んでみる」

 そう返すと、楽しげに頷くれんげちゃん。私はそのまま写真を開いて、彼女の世界を覗き込んだ。






  ーーーーーーーーーー


 最近は朗読を聴くことが多くある。なかでも梶井基次郎の『檸檬』はいっとうお気に入りで、ただでさえ読後感が素晴らしい作品だというのに言葉の耳心地まで堪らなく良いのが私を夢中にさせている。


 朗読の傾聴はおもしろい。自分のペースで話を読み進められない分、勝手に自分がより注意深く言葉を拾っているような気になれる。話の流れではない。一場面、数瞬ごとの感情が音の響きと共にすっと入ってくると云うべきか。


 何より、読み手の声色や間の置き方。発声の高低大小から透けて見える当人なりの『檸檬』の解釈が少しずつ私を染色していくのだ。


 更に、その侵入を許しながら私は思う。果たしてこれらは、次に私が『檸檬』の文体を追うときにも現れてくるのだろうか。あの笑いを含んだ色、切なげな言葉の切り方、興奮して上擦った声。それらが副音声のように頭のなかで流れ、同じような温度の解釈をするように仕向けてくるのだろうか・・・と。そんなことを意味もなく想像するのが楽しく、実践を先延ばした。



 そうして私は、気に入った『檸檬』の朗読を何度も繰り返し聴き続けた。これは少し瞑想に似ていると思う。あるいは癖のようなもの。別に聴きたいから聴いているのではない。ただ落ち着くから、というだけの理由だった。


 加えて、電車の中などで無線のイヤフォンやヘッドホンを装着した人々に混じり、「ふはははは、私は『檸檬』を聴いているのだぞ。音楽でも配信者の動画でもない」と優越感に浸るのも好きだった。振り返るに、私の人格は少しだけ『檸檬』の主人公に影響されていていたのだと思う。我ながら単純で呆れる。


 そして勿論、繰り返し何度も聴いていると耳から流し込んでいるだけで案山子のようにぼおっとしている時間もできてくる。


 そんな時のことだ。ふと「正常な布団」という言葉を聞き取って、それが私の脳みその皺のどこかに引っかかった。正常な布団。正常な、ふとん。ということは異常な布団があるとでも言いたいのだろうか。変なの、可笑しいや。それから私はえらくこの言葉を気に入って、何でもない瞬間に思い返し悦に浸る程であった。



 正常なふとん。その言葉を頭の中でころころと転がし、舌先で食感を味わって楽しむこと数日。私は寝る前には必ずこの言葉を思いだし、『檸檬』の朗読で耳にする度にほくそ笑み、ついには浮かれて自室の布団とシーツと枕カバーの洗濯までしてしまう有様であった。


 その衝動は突然に起こった。私は何気なく青空文庫で『檸檬』を開き、該当箇所を見に行ったのだ。好奇心に対する敗北である。結果後悔こそしなかったが、ひどく落胆した。何がと言えば、正常は「清浄」であったし布団は「蒲団」であった。なあんだ、と拍子抜け。正常なふとん、ではなく清浄な蒲団。そんなことってあり得るのだろうか。


 しかし、前後の文脈や全体の言葉遣いを鑑みれば、それは当然の言葉選びだった。落ち着いて考えれば、正常な布団の方が異常である。


 とはいえ、一度自身のなかに生まれてしまった概念を消し去ることは難しく。暫くの間は苦しんだ。苦しみ、思案し・・・ならばせめて誰か別の人に共有し供養とするのが宜し!

 と、思い至ったのでした。


  ーーーーーーーーーーー










 顔を上げた佐藤翼に気がついたのか、いつのまにか勉強を始めていた春咲れんげが手を止める。



「どう思った?」






 すぐには答えられなかった。









 

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